この時、実は私はなやみきった。
 いけ大作だいさくだけが遺命ゆいめいに背いたというならば何もなやことはないですよ。
 「何をなま意気いきことうか」としゃくすればいい。
 しかし、時のほっみずかじゅうだいな違背をされている。
 しかも、ほそかんちょう説法せっぽうたびに「そうじょういわく」とこういうことい出したんです。
 そうじょうというのは信者の我々は知るべからずということでしょ。「そうじょういわく」と。
 そして「本門戒壇かいだんこんりゅうじん(深い意義)というのは、ほっ以外には知りないんだ」というようなたちでもって繰り返し繰り返し説法せっぽうをしたんですね。
 こういうようなことから、私はおもなやみました。
 寝ても覚めても頭にあることは「一体いったいこれはどういうことなのか」ということであります。
 私は覚えていますが、その頃に、家でもってぞくがみんなしずまってから夜遅よるおそくまで、父と2人でもって声をひそめて「これは一体いったいどうしたことか」「大作だいさくだけがうのならともかくとして、げいがこういうことをおっしゃるとはどういうことなのか」とそういう風に本当ほんとうにこれをなやみきった。
 そして、なやんでなやんで、2人だけですべてを話して、これはもう、時のほっに関わることであるから、ぞくにも聞かせたくなかった。信心しんじんさわるから。
 ことはもうじゅうだいでしょう。時のほっである以上は、軽々かるがるしいことぞくの耳にもれたくなかった。
 そして、なやみになやみ抜いた時に、だいしょうにんさま命令めいれい耳朶じだひびいたのをおぼえております。
 だいしょうにんさま

「むしろしんみょううしなうとも、きょうかくさざれ」

ほうやぶものめざるものは、仏法ぶっぽうなかあだなり」

とおっしゃっておられる。
 また日興にっこうしょうにんはその遺誡ゆいかいにおいて「こういうことが将来起こるのだ」ということをすでにぞんてもってねておっしゃっておられたことの中に

ときかんたりといえども、仏法ぶっぽうそうして己義こぎかまえば、これもちうべからざること

「時のほっであったとしても、だいしょうにんさまおおせに背いて勝手なきょうかまえるならば、これをもちいてはいけない」

おおせになっておられる。
 この日興にっこうしょうにんおおせと、これらの命令めいれい耳朶じだを打ち

『もしほっけんを恐れ、またみょうしんこうつぶされるのを恐れて、このだい遺命ゆいめい破壊をだまっているならば、だいしょうにんさまに対するだいちゅうなんだ』

ということおもった。
 そこで、父と私はけつをしたわけであります。