そして(これがしょう34年でありまするが)、その翌年よくねんしょう35年にそう学会がっかいには戸田とだかいちょうに代わってさんだいかいちょういけ大作だいさくしゅうにんをした。
 しゅうもんではにちじゅんしょうにんの次に66代のほそ日達にったつかんちょうしゅうにんをした。
 ここに、正系せいけいもんにおいてじゅんはおくなりになる。戸田とだかいちょうぬ。
 そして、学会がっかいにおいてはいけ大作だいさくしゅうもんにおいてはほそ日達にったつかんちょう、この2人でもってしゅうもんがいよいよ運営うんえいされるというようなことになって、正系せいけいもんじゅうだいてんむかえたんですね。
 間もなく、いけせい治野じやしんから「世間に抵抗ていこうのある国立こくりつ戒壇かいだんてる」というそういう心をいだいた。
 しかし「てる」というだけでは誰もしんじない。
 そこで、偽物にせもの遺命ゆいめい戒壇かいだんを建てる必要をしょうじて、広宣こうせん流布るふいつわって、そして「しょう本堂ほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんだ」ということにしてしまおうということくわだてたわけであります。
 しかし、時のほっさえこれを認めなければ、そんなだいそれたことはできるわけがないんです。
 そうなんでしょう「今やすでに広宣こうせん流布るふ」といい、そして、にわかに立てたしょう本堂ほんどうを「遺命ゆいめい戒壇かいだん」という、そんな馬を鹿というような、白を黒といくるめるようなそんなことが通るわけが絶対ぜったいにない。
 ところが、時のほっほそ日達にったつかんちょうはこれを許してしまった。
 にちじゅんしょうにんなら断じてお許しになるはずがない。
 にちじゅんしょうにんは、あの戸田とだかいちょうが、当時のきゃく殿でんが終戦直後のかりきゃく殿でんであるから「そう学会がっかいでもってきゃく殿でんこんりゅうしたい」とった時に、きゃく殿でんこんりゅうということによってかなりのようをもたらすにもかかわらず、にちじゅんしょうにんが何と何と「だいきゃく殿でんではなくて大講堂だいこうどうにしなさい」と変更させちゃって、場所も本山の一番はずれの所に大講堂だいこうどうを建てさせた。それだけの一つの見識けんしきがあった。
 これは、そう学会がっかいの将来に対するにちじゅんしょうにんの深いおかんがえがあったにちがいないんです。
 そういうような一つのことでもそう学会がっかいは「にちじゅんしょうにんのなさることならば」としたがってしまったんですね。
 ところが、今ここに「遺命ゆいめい戒壇かいだんいつわって建てる」というようなだいそれたこといけ大作だいさくがしようという時に、ほそかんちょういけ大作だいさくきんりょくへつらってついにこれを許しただけでなく、みずか日蓮にちれん正宗のほっというたちでもっておおやけ国立こくりつ戒壇かいだんを否定して、そして「しょう本堂ほんどうこそだいしょうにん遺命ゆいめい戒壇かいだんだ」というようなことかえくちにするようになったんですね。
 そして、もしこのことに異を唱えるならば、ほっに背くことになってしまう。
 しゅうもんにおいては、時のほっしゅのこのけん絶対ぜったいですよ。
 ここに、ぜんしゅうもん僧侶そうりょの中で一人いちにんとして「しょう本堂ほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんである」とこういったことに異を唱える者がだれもなかった。
 もちろん無智むちしんは「げいさまのおっしゃることなら」といって全部がそれを信じて「いよいよ遺命ゆいめい戒壇かいだんが建つんだ」「だいしょうにんさまの七百年来のがんが達成されるんだ」ということをみんなそこにおもいこんでしまったわけなんです。
 ここに、本仏ほんぶつ日蓮にちれんだいしょうにんの一期の遺命ゆいめいはまさに破壊されんとしたわけであります。