そして、戦後にみょうしんこうしゃくぶくがぐんぐんび始めた。確か二千所帯ぐらいまで行ったとおもっております。
 そして、しょう30年のことでありまするが、所属しているお寺の住職じゅうしょくからこういうはなしがあったんです。
 その寺には、みょうしんこうの他に本因ほんにんみょうこうとかみょう傳講でんこうとか十いくつの小さなこうちゅうがあって、まったくそれらは墓檀はかだんでもってしゃくぶくづうも展開せずにびなかった。
 そこに、みょうしんこうだけがその所属のお寺の中でぐんぐんびている。
 それを住職じゅうしょくが「みょうしんこうはぐんぐんびて結構ですけれども、他の講は一向いっこうびない。どうか『○○ほっこう』こういうことにして、一つまつたんほっこうを一まとめにしてどうしてくれませんか」というようなことってきたんですね。
 そして「その『○○ほっこう』として講頭こうとうしゅうにんしてほしい」ということを父にってきたわけであります。
 その時父は大いにちゅうちょをした。
 だけれども「もし大同だいどう団結だんけつするということ広宣こうせん流布るふのためになるならば」ということで、ついにけつをして、ここにみょうしんこう発展的はってんてきかいしょうした。これがしょう30年のことであります。
 そして、まつたんほっこう講頭こうとうしゅうにんをしたわけなんです。
 ところが、1年2年って、そこにたものは何かというと、僧侶そうりょ広宣こうせん流布るふを忘れたはいらく姿すがたでありました。
 そして、寺のほっこうというのは何かというと、ようするに、こういうはい僧侶そうりょ生活せいかつを助けるためのだん家組かそしきだったんですね。
 日寛にっかんしょうにんが「道心どうしんの者は、仏法ぶっぽうせいとする」とおおせられておりまするが、このように「広宣こうせん流布るふことおもわない。だいしょうにんさまをただ利用するだけ、かんがえることは自分の生活せいかつだけだ」というような僧侶そうりょ際限さいげんもなくようばかりをむさぼる。
 こういうようなはい僧侶そうりょについておって果たして広宣こうせん流布るふ奉公ほうこうは叶うのか。
 ここに「何としても新しいみょうしんこう結成けっせいしなければいけない。そしてだいしょうにんさまへの奉公ほうこうをしなければいけない」というけつがここにこされたわけであります。