天安門事件をご存じだろうか。

 

中国本土では、天安門事件を教えない教育、もしくは、殺しを正当した情報が流れているらしい。

 

 

その状態で生まれ育った中国人は、情報公開をしない中国政府を正当だとする人もいるらしい。

 

 

人殺しを正当化できる中国に驚いたけれど

日本もかつては同じような過ちをしているのだから

 

結局のところ「どの視点からその事実を捉えるか」に依拠するのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

人生は選択の繰り返しをしている。

そして、自分の人生しか生きられない。

 

だから、自分で選択ができる権利と自由があることが幸福だと思っている。

 

 

ただ、この中国の天安門事件のように、情報公開がなく「知らない」という状態があり、その方が良いという考えもあるんだな、と思った。

 

要するに、井の中の蛙大海の存在を知らされない状態。

 

 

けれど、知ったところで、さっき言ったように

天安門事件を正当だとしている人も多くいるようだ。

 

人間は自分の都合の良いようにしか与えられた情報をとらえない。



もちろん、そのほうが楽だし、私もその生き方で良いと思う。

どうしようもないことで深く悩みすぎるのは疲れるだけだからね。

 

結局のところ、情報を知ったとて、

人間みんな自分で自分の都合の良いように判断してる。

 

 



 

情報公開がない中国の現状に可哀そうだと思い、日本で生まれたことに感謝しつつ、結局は、その情報(事実)をどう処理(判断)するか、その選択の積み重ねが人生の価値観を作ってくんだな、と再認識した。

 

 

 

「知る幸福」 と 「知らない幸福」

「選択のできる幸福」と「選択ができない幸福」

 

 

 

 

 

 

話は少し逸れるけど

 

「井の中の蛙大海を知らず」は荘子の言葉だけど

(意味:知識、見聞が狭いことのたとえ。また、それにとらわれて広い世界があることに気づかず、得意になっている人のこと。)

 

 

その続き

 

「されど空の深さ(青さ)を知る」は、日本人が後々付け加えたらしい。

(意味:狭い世界にいるからこそ、自分の道を究めることが出来る)

 

 

 

どちらが良いということが言いたいわけではない。

 

前者はどんな状況も、驕ることなく、謙虚に邁進する姿勢を教訓とし

後者は継続する力や努力を怠らない姿勢を学ぶという教訓をうかがえる。

 

1か月ぶりの銀座だった~