
今日の一曲!電気グルーヴ「半分人間だもの」
レビュー対象:「半分人間だもの」(2008)

今回取り上げる楽曲は、説明不要の和製テクノおもしろバンド・電気グルーヴの「半分人間だもの」です。ドイツのエクスペリメンタルバンド・Einstürzende Neubauten(アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン)の3rdアルバム『Halber Mensch【邦題:半分人間】』(1985)と、抜群の知名度を誇る詩人・相田みつをさんの代名詞とも言える詩集『にんげんだもの』(1984)のコンビネーションであろうユニークなタイトルからしてもう期待を十全に煽られます。
収録先:『J-POP』(2008)
本曲の収録先は9thアルバム『J-POP』です。同盤からは過去に「いちご娘」と「スーパースター」をレビューしています。リンク先にはディスク全般へのちょっとした言及もあり、前者では以下の通り世紀を跨いでいる点に特別の意味を見出していました。
前作の8th『VOXXX』(2000)から約8年のブランクを経ての発売で、ここを境にファン層が異なっているような気がしますが、僕は『J-POP』以降の電気もかなり好きなので今も追っています。聴き始めたのがちょうどこの頃だったからというのもあるけどね。
後者はムック本『電気グルーヴのSound & Recording PRODUCTION INTERVIEWS 1992-2019』(2020)の発売に際し執筆したもので、元々はサンレコ2008年5月号に掲載の『J-POP』リリース時インタビューをソースにトラックメイキング上の細かなツボを語りました。本記事に於いても同書の内容は有益ですので適宜引用します。以降「ムック」と書いたらこれを指すとご留意ください。
こうして幾度も同盤の楽曲を取り立てていることからも察せるようにお気に入りの一枚でして、自作のプレイリストに照らして30*3の全90曲編成の中で上位30曲に相当する1stに「いちご娘」「エキスポ ヒロシマ」「完璧に無くして」「スーパースター」「半分人間だもの」と5曲も登録しているほどです。今は2ndの「ズーディザイア」と正確にはシングルVer.の「モノノケダンス」も曾ては1stでしたし、リストインこそさせてはいませんが「アルペジ夫とオシ礼太」と「地蔵」もたまに聴きたくなります。
歌詞(作詞:石野卓球・ピエール瀧)
本曲に限らず『J-POP』全体の歌詞世界からは意味が意識的に排されてることがムックで明かされていまして[p.58]、石野さん曰く「メッセージ性を極力なくした歌詞にしようということを最初の段階から瀧と話していました」だそうです。続けて「歌詞の部分で非常に深い意味があるように思われたくないというか、そう取ってもらっても構わないんですけど、そのイメージだけになってしまうのは避けたい」との念押しがあり、されど本項ではこの「構わない」を免罪符に敢えてロジカルに歌詞を読み解いていきます(出来るとは言っていない)。
加えて「ドイツ語の歌詞を聴いて、全体の意味ははっきりとは分からないんだけど、ひっかかる言葉の語感はあるというような、そういう部分を目指しました」との言もあり、これはまさにノイバウテンの音楽を聴いた時に覚える感想そのものだと思いますので、"お久しぶりクサ 贅肉バーゲルト"と元ネタ(同バンドのフロントマンはブリクサ・バーゲルトさん)をそこに求められる本曲は猶更にこの理念を体現していると言えるでしょう。
さて、タイトルの「半分人間」から連想出来るイメージは様々です。例えばケンタウロスのような半人半獣だったりギリシア神話の英雄のようなデミゴッドだったりも想定の内には入りますが、本曲では"人間未満"という言葉が伝えるように「真っ当な人間じゃない」の向きが強く霊妙さは欠片もありません。しかしそのことを否定する内容には非ずで、もう一つの元ネタである相田さんの詩が詠うメッセージ性に鑑みて「それでもいいじゃないか」と寄り添いを見せた結果が、主題と言える一節"ああ正常 半分人間だもの"に端的に表れています。
しかし何を以てして「存在の半分が人間じゃない」と判断されるのかは文脈に因りけりで、本曲の場合にキーとなる概念を一言で表すなら「特殊性癖」でしょう。つまるところ先の「いいじゃないか」とは一種の自己正当化で、他者の迷惑を顧みない身勝手な「人間だもの」に根差しているわけです。ただそれも仕方ありません、何せ本家と違って「半分」なのですから。
僕が本記事で使うところの「特殊」とは「一般的でない」ぐらいの意味合いで他意はないことを前置きまして、あくまで歌詞の上では"異常"と扱われるのも已むなしのエキセントリックなプレイの数々が披露されています。以下、アメブロの運営にギリギリ怒られないラインを探りつつの歯脱けな引用をご容赦ください。
仰けの"ゲバルト宣言"で前提から暴力を是としていますし、"子供を集める"に続くのが"下着が無くなる"の時点でヤバさを充分に察知出来ます。"給料全額 非通知攻撃"や"喪服で盗聴 完全無表情"は常軌を逸した非人間性の顕れですし、モロに直接的なワードが含まれるため記載を憚ったこの間の一文もまた非道の行いです。
"女装で参上"は今の時代とやかく論うのも錯誤的だけれど、続く"ブログが炎上"が象徴するように未だブログが主流だった頃の話ならば偏見も根強かった気がします。ただしTPOを弁えないケースはいつの時代だろうとアウトで、後の"寝言で絶叫 「女子校最高!」"にまで場面が繋がっていると考えると、夜間に女装で忍び込んで朝を待っている図が浮かびやはりヤバいです。
次もまたここには記載し難い表記が連続で出てきまして、単体ならともかく"人間"が接尾すると途端に卑猥な印象になってしまう特種用途自動車名に、URLの体を取っているせいで余計に書くのがリスキーな"鑑定団"と、際どさが断片的に畳み掛けられます。一行飛ばして"悲鳴と罵倒 風雲公衆浴場"も、直接「覗き」というワードを使っていないのが技巧的です。
飛ばした"性欲異常 職場で正常"の二面性はこの手のあるあるで、お縄になってから周囲に「まさかあの人が」と一様に言われるようなタイプは、確かに"ム所で模範囚"っぽいなと妙な説得力があります。また、このパートにはとある人物を連想させる不自然な日本語が登場しますが(序盤の"花マル 焼くマル"もそうかも?)、それから半年後に…と事実に照らすと少し怖いです。まぁもっと言えばそれから十一年後に…でもありますが。
メロディ(作曲:石野卓球)
最初から最後まで台詞のみと言っても過言でないため、傾聴すべきは旋律性ではなく節回しないしフロウの心地好さです。基本的にこれ以上の言及はしようがないものの、コーラスというか声ネタに引き継ぐ変則的なラインで比較的メロディアスになるURLのパートには続くアレンジと相俟ってカタルシスを感じます。
アレンジ(編曲:石野卓球)
本曲を気に入っている理由の大部分はオケのストイックさにあり、無駄を削ぎ落とした非装飾的なつくりでありながら、生じた間隙には細やかにビートが配されて予想外の連続性を演出するという、その実験的な趣にノイバウテンの精神性が垣間見えて素晴らしいです。
この点はムックの中で手法が詳細に語られていまして[pp.62-63]、具体的な機材名やソフト名が知りたい方は購入の上お読みくださいと丸投げしますが、偶然性を大切にするトラックへの向き合い方は石野さんの「チャンス・オペレーション的なことも相変わらずやっていますね」の言に集約されます。
この予測不能の考えがベースにあるからこそ、俄に作為的になる".com"後の予期可能なフレージングに一層の解放感が宿るのでしょう。ちなみにラストに聴こえる謎のSEは勝手口の開閉音らしく、石野さんが実家を建て壊す記念に録ったものだそうです。ということは本来的な意味とは全く異なるけれど、文字通りの家具の音楽でもあるわけですね。
かなり昔にジョン・ケージとエリック・サティの両名にふれている記事をアップしたことがあるので、大したことは書いてありませんがリンクしておきます。
cf. 『Halber Mensch』(1985)
本曲がきっかけでノイバウテンも聴いてみようと手を出したことがあり、元ネタの『Halber Mensch』とタイトルが気になった4thアルバム『Fünf auf der nach oben offenen Richterskala【邦題:上向地震波上五】』(1987)にのみ馴染みがあります。
前者ではとりわけインダストリアルな「Yü-Gung (Fütter Mein Ego)」がフェイバリットで、ドイツ語はよく解らなくても繰り返される表題の"Fütter Mein Ego"の後二語が「私のエゴ」であることだけは聴き取れ、この経験は歌詞の項に引用した「石野さんが目指した部分」に准ずるものです。同曲にはもう一つ唐突に耳に残るフレーズがあると思いますが、そこだけ英語で"Numb your ideals!"と歌われているのを知ると得心がいきます。ちなみに「Yü-Gung」とは「愚公山を移す」の愚公のことで、成程だから大事業のサウンドスケープなのかとこちらも納得です。
後者では随所に破壊的なクラシック色が窺える「MoDiMiDoFrSaSo」が冗談みたいに格好良くおすすめで、連呼される曜日の省略形(MonTueWedThuFriSatSun)の必死さからノイローゼ一直線の危うさを感じます。同曲でもなぜか"Donnerstag"(木曜日)にだけ"here comes the night"と英語が続く謎の逸脱を見せ、その付近のアンステーブルなストリングスが錯乱じみていて好きです。