Beaucoup Fish (2017 Reissue) / Underworld Pt.1 | A Flood of Music

Beaucoup Fish (2017 Reissue) / Underworld Pt.1

【お知らせ:2019.11.21】令和の大改訂の一環で、本記事に対する全体的な改訂を行いました。この影響で、後年にアップした記事へのリンクや、本作がリリースされた後に得た情報も含む内容となっています。なお、本記事の改訂前の内容は外部の謎ブログに無断でコピペされており、このことは改訂時に偶々発見しました。引用でもリンクでもキュレーションでもなく、botで生成したと思しき不可解な内容の記事が今でも存在していますが、僕は全く与り知らないものですし、文章の初出は当ブログであることを主張しておきます。


 Underworldのリイシュー盤『Beaucoup Fish (2017 Reissue)』(2017)のレビュー・感想です。記事タイトルでは字数制限のために省略しましたが、ここでは4枚組の「4CD Super Deluxe Edition」を扱います。

Beaucoup FishBeaucoup Fish
6,504円
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 作品題に「Reissue」とある通り、本作は5thアルバム『Beaucoup Fish』(1999)の再発盤です。2014年の『dubnobasswithmyheadman』(初出年:1994)、2015年の『Second Toughest in the Infants』(:1996)に続く、リイシューシリーズの第3弾となります。オリジナルのリマスター盤に加えて、レアトラックやリミックスなどを収めた補遺ディスクが付属するというのが本シリーズの特徴です。前出した二作も当然のように最上位形態であるSDEで購入していますが、僕がそうする目的は主に未発表曲(過去曲の未発表バージョンも含む)の鑑賞にあります。本作ではDISC 3と4がリミックス集にあてられており、所謂'unreleased'を楽しめるのはDISC 2のみであるため、過去二作と比べるとやや物足りない印象です。シングルまで網羅しているファンにとっては、3/4が既出曲を纏めただけのプロダクトになるわけですからね。

 だとしても「リマスタリング済」の強みは残りますが、僕はそもそも本シリーズに於けるリマスターには、あまり有難みを感じていません。なぜなら、オリジナルを深く聴き込んでいればいるほど、最適化された音源に覚える違和感も大きくなってしまうからです。耳に馴染んだ全ての音のバランスでもって完璧な音像だと認識している場合には、音質の向上が必ずしもプラスに働くとは限りません。これは何もUnderworldに限った話ではなく、高音質盤が出るほど長きに亘って愛されているアーティストが抱える宿命だと思っています。別アーティストの記事ですが、リンク先には「高音質化のジレンマ」と題したリマスター盤の悲哀に関するコラムがあるので、僕がここで言わんとしている批評の参考にしてください(改訂時に相互リンクの形になりました)。とはいえ、シンプルに「どちらが音が良いか?」と問われれば勿論リマスター盤を推しますし、古いダンスミュージックや電子音楽にいまいちハマれない人にとっては、音質がネックになっていることも間々あるとの理解でいるため、リマスタリングの意義までは否定しないでおきましょう。


 ネガティブなリアクションは前置きの以上で済ませ、以降は名盤『Beaucoup Fish』の魅力をひたすら掘り下げていきます。マスタリングについては先述した所感が全てで、曲毎のレビューでいちいち「リマスター前との違いがどうたらこうたら…」と書きたくないので、そういった差分的な内容を期待していた方にはすみませんが、ここでは純粋に楽曲のみを評価していきます。単に1999年の作品を取り立てる内容では今更感を拭えないものの、自己満足の域で臨む次第です。さて、前情報として頭に入れておいてほしい点を解説しますと、本作はUnderworldを代表するトラック「Born Slippy .NUXX」(1995/96:初出/シングルカット)のスマッシュヒット後の作品;つまり「ポストNUXX」を象徴する一枚なわけですが、その成功体験の煽り(メンバー間の確執やコラボ企画の消失などの負の側面)をモロに食った難産の盤でもあります。後にダレン・エマーソンが脱退することから、彼が参加した最後のスタジオアルバムとして、ひとつの区切りと見做されることも多いディスクです。

 また、リイシュー盤のSDEには60ページにも及ぶブックレットが付属しており、そこには作品の背景や概説および曲毎の特色を記したRobin Turnerによるエッセイが含まれ、非常に有益な内容であるため本記事でも適宜引用を行いました。しかし、僕にとっては幾分ハードな英文であったので、誤訳や誤解を披露しているかもしれないことを、先んじてお詫びしておきます。英語力の衰えを痛感するばかりですが、前半の「作品のバックグラウンド解説パート」では、当時のミュージックシーンだけでなくイギリスの文化や政治についての知識が必要なうえ、後半の「楽曲の特色紹介パート」では、電子音楽ゆえの抽象的または感覚的な記述が多いため、文法や語法上の難易度とは別に読解が難しかったのだと言い訳をご容赦ください。


DISC 1 Beaucoup Fish (Remastered Album)

01. Cups



 アルバムの幕開けは12分近くある大作から。長尺ゆえに展開も非常にドラマチックで、ジャンルを一言で形容するのが難しい凝ったつくりのトラックです。都市的な環境音とストリングスが場を支配する冒頭のパートは、導入に相応しいラグジュアリーさでもって今後に控えし壮大な物語を予感させます。そこに割って入る中毒性の高いベースラインが楽曲の方向性を決定付け、ビートが加わり愈々Underworldらしさの萌芽です。しかし、完全に電子的なサウンドに振り切っているわけでもないのが本曲の特徴で、音遣いとしては寧ろ生っぽいマイルドな質感が優勢であるところが、無機質さの中に温かみを植え付けています。それゆえにか、曲の感想としてよく見かける単語ないしジャンルは、'chill-out', 'relaxing', hypnotic'あたりで、落ち着きのある反復的な楽想+心地好く加工されたボーカルのコンビネーションには、確かに極上の癒しと同時に洗脳めいた側面が窺えるほどです。

 とはいえ、難解に仕上げてやろうといった意図は別段感じられず、リズムセクションだけを意識すればしっかりと踊れるダンスミュージックの構造が維持されており、そこはやはりUnderworldの持つ享楽的なセンスが光っているなと思います。このヘドニズムが次第に存在感を増していくのが本曲の枢機で、露骨に雰囲気が変わったと判断出来るのは8分を過ぎたあたりからですが、そこに至るまでのじわじわ加減がまさに天才的で、徐々に増大する何かまたは次第に迫る何か;その希望とも絶望とも捉えきれない不可思議な存在から、安堵と不安を同時に供与されているかのようです。クライマックスはエッジィなシンセの独壇場で、ビートすら失せる8:52~9:35が本曲中で最も格好良いパートであると絶賛します。余談ですが、以前はYouTube上にこのシンセの音作りと運指を再現するファンメイドのハウツー動画があり、それを参考に自分でも演奏して独り悦に入っていたことを思い出しました。終盤には気味の悪いボーカルトラックが登場し、そのチョップの仕方に蓋しDJマインドを見出せます。とりわけ10:59から始まる、引き笑いの如き不気味な声のリピートがお気に入りです。

 このように複雑を極めたトラックだけはあって、エッセイの解説文でも意味が判然としない部分が多く(一曲目ゆえに前置きの記述が長いせいでもある)、他の英文サイトの文章も参考にしてみました。そうしてわかったのは、プレスリリース時に用いられていた形容に、「シカゴとデトロイトがテムズ川の河口で合流して突如現れた」というものがあったことです。'swoop'が正しく訳せていないかもしれませんが、この一見して意味不明な文章は、電子音楽ひいてはUnderworldに明るい方であればピンとくることでしょう。シカゴはハウス、デトロイトはテクノ、テムズ川の河口はエセックスを指し、つまりルーツとアウトプットの両面から捉えたキャッチであるわけです。ともかく、プロの手に成る言葉でもシンプルには語れないほどに、クロスオーバーのセンスが秀逸な楽曲であるとまとめます。


02. Push Upstairs

 アルバムリリース後に間もなくシングル化されたアッパーチューンで、知名度もUnderworldの中では高いほうであるとの認識です。しかし、個人的にはライブ音源ばかりを鑑賞しており、特に『Everything, Everything』(2000)収録の同曲が異様なまでに格好良く仕上がっているので、実はオリジナルを聴いた回数はそんなに多くないのではという気がしています。笑

 01.の精緻な作り込みとは打って変わって、歪みを厭わないパワフルなキックと正確無比な演奏を繰り返すピアノを用いて、行軍じみた重量感でゴリ押すタイプの終始アグレッシブなナンバーです。バックトラックの単調さの上を走るカールの独特なフロウはまさにUnderworldの真髄で、そのボーカルの様相がエッセイでは「即席の街頭演説台に立つ牧師」と表現されおり、言い得て妙だと感心しました。この攻撃性の裏には焦燥が、その焦燥の底には使命感が、それぞれ潜んでいる気がするからです。2:28(厳密には2:13)から登場するパッドの不穏さも狂気に寄与していて好みで、徐々に音が鋭化すると共に定位が左右に揺らぎつつ、ノイズとなって左耳に収束して鎮まるシークエンスが至高と称えます。


03. Jumbo

 本曲も後にリカットされており、アルバムタイトルの『Beaucoup Fish』は本曲のサンプリングボイスから来ているので(後述)、ある意味では表題曲と言えるかもしれません。殊更に多幸感に満ちたトラックとの認識で、エッセイにあった「最も美しく可愛らしい瞬間」との記述にも大いに納得出来ます。過去に『Live at The Oblivion Ball, Makuhari Messe, Tokyo, Japan 24.11.2007』(2007)をレビューした記事の中では、本曲に対して「森の曲のイメージ」と書き、その根拠として「イントロの鳥の囀り」を挙げていましたが、エッセイの精読も含めて色々と情報収集をしてみたところ、こうした印象を抱いたことの根拠とも言える情報に辿り着けました。

 キーワードは'bayou'で、画像検索をしていただくのが理解への近道でしょうが、「バイユー」は『ジーニアス英和辞典』第3版曰く「湿原中の川の支流」を意味する語です。ここでは特にアメリカ南部はガルフ・コースト(このガルフはメキシコ湾のこと)沿いの「バイユー・カントリー」と呼ばれる地域、そこと密接な関係を持つ文化的集団のひとつ、ケイジャンにフォーカスされています。というのも、本曲の序盤と終盤に登場する会話は、ルイジアナに住むケイジャンの漁師からサンプリングされたものだからです。クレオールと共に有名だと思うゆえケイジャンの説明は省きますが(英語の教科書でも題材にされがちですよね?)、要はフランス人の子孫にあたる人々のため、仏語の'beaucoup'が日常のシーンに用いられているわけです。

 この背景をしっかりと理解すると、本曲はその世界観を見事に表現したものであると得心がいきます。環境音と会話によって醸される現地のサウンドスケープはあくまでも装飾のひとつで、肝は曲頭から鳴り続けている柔和なフレーズのリピートと規則正しいリズムセクションだとしたうえで、そこに煌びやかなウワモノが重ねられていくトラックメイキングは、宛ら川の流れとそこに暮らす人々の営みの、双方の連綿さの表現に繋がるからです。ちなみにですが、後にリリースされるコンピレーション盤『1992–2012 The Anthology』(2011)に収録されている本曲は9分台に拡張されているので、本作に収められている約7分のものよりも長い間、このストリームを意識し続けられます。


04. Shudder / King Of Snake



 本曲もまた後にシングルとなっており、02.~04.は聴き応えのあるトラックが連続するタフなブロックです。クレジットを見ると、唯一'Written by'にUnderworldのメンバー以外の名前が記載されているのですが、これは軸となるベースラインにDonna Summerの「I Feel Love」(1977)のそれが使われているからで、同曲はGiorgio MoroderとPete Bellotteが共作で手掛けたものであるため、エッセイにも「ジョルジオ・モロダーへの敬意が払われている」との記載があります。既に世に出ていた馴染みの深いフレーズをメインに据えることで、ポテンシャル的なキャッチーさは抜群です。悪く表現すれば流用との見方も可能ですが、同曲がUnderworld流に再構築された結果で、ライブでの盛り上がりも確実なダンスチューンへと生まれ変わり、当時から振り返って20年以上昔のナンバーに意識が向くきっかけになったならば、それは意義深いことであるとフォローします。

 逆再生によって生成されたと思しき独特なサウンドが特徴的な「Shudder」から静かに幕を開け、パッドの増大と共にその静寂を断ち切らんとする一発の力強いキックが響き、細切れになった表題の"King Of Snake"が高揚感を煽り、前出したベースラインが始まるイントロは、これほど格好良い導入は中々ないと言えるほどにツボでした。パワフルなビートメイキングとピアノによるグルーヴの生成といった観点では02.に近いものがありますが、そこまで攻撃性は顕著になっておらず、ダンサブルで気持ちの好いリズムパターンが優位だと評せます。とりわけ絶頂を感じるのは、たとえば4:55からスタートするスクラッチ音が重なるセクションで、このフロア向けのボルテージの上げ方こそ、目指す方向性がダンスミュージックであることの証明としたいです。

 ボーカルトラックの弄り方にも隠し切れないセンスが窺え、残響系のエフェクトとして施したエコーやディレイによって新たなグルーヴを生み出す、これだけならば並の領域に止まる基本的なテクニックですが、本曲ではその残響音に対しても更に同様のエフェクトが施されているような、入れ子構造じみた複雑なパターンが耳に残ります。タイムで表せば4:37からが好例で、ここからインする"ah"ないし"oh"のエコーは、それ自体がビートらしく振る舞いながら4:41まで鳴り続けており、そこに言わば「神は細部に宿る」の精神を聴き解いたのです。実際にどのような制作手法なのかは知りませんし、もしかしたら便利なエフェクトを使っていてそれほど手間はかかっていない可能性もあるけれども、この手のこだわりに情熱を持ってこそ一流であると主張します。参考までに紹介しておきますと、当ブログ上にテーマが用意してある日本人では、平沢進DÉ DÉ MOUSEBOOM BOOM SATELLITESの三者は、同種のセンスを有している存在との理解です。日本ついでにもう一点だけふれておきたいのは、アウトロで唐突に挿入される日本語ネイティブ丸出しの英語パートの面白さで、曲名と組み合わせた検索サジェストに「日本人」があるほどには、国内のリスナーに強いインパクトを与えたことが推して知れます。笑


05. Winjer

 エッセイにも記してある通り、ここからアルバムの流れに明確な変化が生じ、内省的な趣が強くなっていくことに留意です。本曲はその代表格とも言える不思議なトラックで、エッセイでは「Peter Gabrielの初期ソロ作のような実にイギリス人らしい奇妙さがある」と評されていました。この感覚を日本人の僕が根本から理解するのは難しいですが、洋楽の括りではイギリスのサウンドを最も好んで多く聴いているため、なんとなくのレベルではわかる気がします。インダストリアルなビート構築と、霧の中を漂っているかような不明瞭な音作りの調和が、実にブリテン的だとの受け取り方です。

 冒頭からひたすらリピートされ続けている文言(歌詞不明)が催眠的で、浮遊感のあるパッドの質感とも相俟って何処か不安な気分に陥ります。カールのボーカルもボコーダーが重なっているのかレイヤードな聴き心地で、脳内に浮かぶのは次元の狭間で迷子になってしまうビジョンです。良い意味でファジーなこれらの要素に対して、ビートは細かくストイックな強さを誇っているというギャップも美点たりえます。僕だけの感想かもしれませんが、本曲はまるで途中から始まっているかのような;0:00の段階で既にアウトロっぽさが出ている気がしていて、ある程度の盛り上がりを見せたトラックのクロージングに据えられそうなセクションを、敢えて冒頭に持ってきたのかなとの想像を棄てられません。このことによって得られる貴重なリスニング体験は、結びの儚さに延々と浸れる奥深さでしょうか。


06. Skym

 本作の中では最もアンビエントなトラックです。エッセイでは『dubno~』収録の「Tounge」との類似性が指摘されており、'stark'が正しく訳せているか不安ですが、おそらく「剥き出しである」という点で彷彿させると言いたいのだと推測します。静かな癒しに満ちたノイズ、方向感覚を希薄にさせつつ重なり合うボーカル、優しさと悲しさを併せ持った鍵盤、回転を思わせるシーケンスフレーズ、これらは自分の感性から捻り出した表現ですが、エッセイでも同じような形容がなされていて、この音解釈は普遍的なのかと嬉しくなりました。


07. Bruce Lee

 本作から最も遅くリカットされたシングル曲です。ヒップホップ的な要素が強い異色作だと言え、06.からの落差で余計に意表を突かれます。後のキャリアではこの手の楽曲もUnderworldらしさの一形態として定着を見せ、たとえば「Ring Road」(2007)や「S T A R」(2019)を比較対象に出来ますし、以前のキャリアでも「River of Bass」(1994)は伏線的なトラックとなるかもしれません。しかし、この時点のUnderworldとしては意外なアプローチに映るため、当時から好き嫌いが分かれていそうです。

 エッセイの記述で面白かったのは、終盤に登場する女性のダウナーな語り口調が、'dead-eyed female'なるワードで形容されていたことで、的確な語彙選択だと思いました。適宜挿入されるギターの音作りも地味に格好良いですし、エレクトロニックなサウンドが次第に熱量を帯びていく点も芸が細かく、英語版Wikipediaの同曲の項目にあるジャンルが'experimental hip hop'にされていることにも納得します。


08. Kittens



 可愛らしい曲名からは想像しにくい、壮大且つトリッピーな名曲です。本曲には「電子で奏でるオーケストラ」との表現がしっくりくるようなトラックメイキングが披露されており、随所にクラシック的なマナーを感じ取れます。最もわかりやすいのはクロージングの部分で、楽団を幻視しそうなほどには実に正しい締め方です。オーケストラっぽさに言及したレビューならば他人のものも目にしたことがありますし、エッセイでもCoplandの「Fanfare for the Common Man」(1942)が例示されていたので、解釈としては割とポピュラーなのでしょうね。もっと感覚的に述べれば、本曲を聴くと当時代性が曖昧になるというか、リリース時の1999年より遥か前から存在している古典の如き印象を受けるのです。

 ただ、音だけで判断するならば完全にテクノ志向でして、特に前半はビートの積み重ねで聴かせるつくりとなっているゆえ、ともすれば地味と解する人がいてもおかしくはない気がします。しかし、後半の光彩陸離なサウンドスケープが展開していくにつれて理解が可能となる、隠されていた主題が徐々に顕になる感覚に魅入られてしまうと、本曲が内包するハイエナジーと多幸感を唯一無二と認めざるを得なくなるのです。エッセイには電子音楽的なファクターに関する言及もあったのですが、'Stadium Techno'のくだりは用語の定義も含めて意味がよくわかりませんでした。そこでは「半侮蔑的な用語」とされていて、Scooterのアルバムを婉曲に提示したものなのか、或いは文字通りスタジアム向けテクノへの皮肉でしょうか。フェスないしアウトドアシーンへふれた文脈に出てくる語なので関連はあるとの理解でいるものの、筆者の立場が捉えにくいんですよね。ある意味では陳腐に聴こえるメインストリームのサウンドに、Underworldなりのインテリジェンスを加えたら斯様な名曲が誕生した、といった話の流れを見出せそうではありますが、正確な翻訳に自信がありません。
 

09. Push Downstairs

 曲名と歌詞の共通性から明らかであるように、02.と関連性の強いトラックです。エッセイでは02.に対する本曲は「写真のネガ」で表現されており、同時に『クラシックダブで言うところの「バージョン」と同種のもの』ともされています。この場合の「バージョン」とはレゲエ界隈の用語で、言わんとしているのはオフボーカルのことだと思いますが、本曲にはきちんとボーカルが存在しているため、素直にアナザーバージョンと捉えるのが手っ取り早いかもしれません。02.にあった攻撃性を宥めたような、もしくは暴走の果ての消魂のような、物憂げな質感の楽曲へと変貌を遂げています。

 輪郭のぼんやりとしたサウンドに反して、ボーカルトラックの存在感は強く、これによって本曲が02.を踏襲していることが強調されているとの認識です。「即席の街頭演説台に立つ牧師」の喩えを継続させるならば、未だ使命が道半ばであることが察せます。02.に使われていた音も再利用されており、例えば4:15から右で鳴り出す乾いたシンセは、02.では0:29から左で鳴っているものと同じで、このパンはまさに陰画的ですよね。4:28からのスペイシーな音作りも心地好く、インナースピリチュアルの流れに身を委ねたくなります。


10. Something Like A Mama



 Underworldの全楽曲を比較対象としても、かなりの上位に食い込むフェイバリットナンバーです。仄暗さと疾走感の両立に真骨頂を聴いた思いで、細やかなビートメイキングと陰鬱なベースラインだけでもゾクゾクします。時折挿入される、ストリングス性を帯びたパッドの寂寥感も素晴らしいです。しかし、これらの美点を敢えて差し置いてでも僕が本曲で最も高く評価したい点は、次々とボーカルトラックの質が変化していくところにあります。

 まずメインを担っているカールの歌声は、トラックのイメージに過不足なく寄り添っており、"Mama"の発声に滲む哀愁を聴けばその技量の高さは瞭然でしょう。これに対するサブはいくつかあり、第一は1:22からの女性ボーカル(Underworld楽曲のサンプルボイスでお馴染みのJuanitaさん?)です。僕の聴き取りゆえに間違っているかもしれませんが、"Have a nice"の三語をほぼ同時に発声しているかのような、奇妙な重なり方が癖になります。第二のサブは2:32からの女性ボーカル(「M.E.」(1994)などで日本語を担当しているSimon Taylorの奥さん?)で、Underworldファンであれば聴き覚えがあろうフレーズ"I am lonely bollock";これを和訳した「俺は孤独な睾丸」なるパワーワードで、鮮やかなラップが展開されるインパクトはあまりにも強烈です。その後に来る外来語発音としては正しい"ビリーバー"のループも、04.終盤のEngrishと同様のツボを刺激されて好みですし、引き伸ばされて細切れになるアレンジにもセンスを感じます。この手のカオティックなサンプリングは、過去曲で例示すれば「Deep Arch」(1996)の終盤が近く、同曲もまた大のお気に入りです。


11. Moaner



 ラストを飾る本曲は、ライブでもトリが定位置となっているアンセミックなトラックです。当時にはなかったであろう形容に改めていいならば、フェスアンセムというよりはクラブバンガーと表現したい暴力性があります。本作の収録曲でシングル化されているものの中では最もリリース時期が早く、アルバムの発表よりも前の1997年には世に出ており、更に遡ると初出は『Batman & Robin: Music from and Inspired by the "Batman & Robin" Motion Picture』(1997)です。このように収録過程がやや複雑だからか、バージョンの名称もややこしくなっており(特記されていない場合も多い)、本作に収録されている7分台のものが所謂「(long version)」、上記のサウンドトラックや後に出るコンピ盤『1992-2002』(2003)に収められている10分台のものが「(album version)」で、イメージ的に逆に捉えてしまいそうになります。ちなみに4分台の「(short version)」も存在し、こちらはシングルやコンピ盤『A Collection』(2011) で聴くことが可能です。

 過去にアップした「Dinosaur Adventure 3D」(2002)の記事、その中で述べた内容に本曲にも当て嵌まる部分があるので、以下に墨付括弧で引用します。【Underworldお得意(だと思っている)の、まずインストだけで曲の構成を把握させてから歌がスタートする…普通のロックやポップスで例えるなら1番はインストで2番から歌唱開始という感じの曲ですが、これってボーカルありのダンスチューンとして凄く親切だし発明だと思う】引用ここまで。本曲もこの手法で提示されており、ボーカルがスタートするのは3:40からとかなり焦らされるものの、その間にバックトラックの全体像を把握するのに十分なナビゲーションが行われているため、初聴でもすんなりとノれるのです。とはいえ、本曲の破滅的なアグレッシブさは生易しい表現に収まるものではないので、無理矢理ノせられるとしたほうが据りがいいかもしれません。

 早鐘の如き焦燥感に満ちたキック、不気味な巨躯が這い廻るかのようなソリッドなベースライン、瞑想の果ての境地まで飛ばしてくれそうな洗脳的なベルの連打、けたたましく不安を煽るシーケンスフレーズ(アプリの『iDrum Underworld Edition』に於ける「Attack 140bpm」の音)、チェーンソーじみた鋭利さで迫り来る単純なシンセリフ、これら全てに耳が蹂躙されていく感覚を覚えます。カールの鬼気迫るボーカルも全くトラックに負けておらず、その独特な歌唱法について僕は昔からよく「お経のような」といった形容を用いていたのですが、どうやらもう少しスマートな言い方があったみたいで、エッセイから引用して'stream-of-consciousness'に絡めるのがベストな表現ですね。日本語に直せば「意識の流れ」で、心理学または文学に明るい方であれば馴染み深い用語ではないでしょうか。エッセイではこの「意識の流れのようなボーカル」の前に、'frenzied'という形容詞が冠してあります。ポジティブに訳すならば「熱狂的な」ですが、ここでは「取り乱した」を正解としたく、本曲の狂気的なビジョンに相応しいのは、前向きな言葉ではないはずです。


 長くなりますが、更に歌詞解釈を披露したいと思います(参考記事)。Underworldの歌詞を論理的に読み解こうとするのはナンセンスというか、断片的な言葉の意味を拾って感覚的に処理するのが定石だと考え、それこそ意識の流れ的なアプローチが最適であるとの理解です。この曖昧性を踏まえたうえで、僕の本曲に対する解釈を端的に明らかにしますと、ストーカーの果ての殺しが題材ではないかと捉えています。以下、具体的に根拠を挙げていきましょう。

 まず仰けの"Hey kiss me I kiss you"からして、内容にそぐわない不気味な歌い方が耳に残り、甘いラブソングではないことは明白です。続く歌詞"I know about you/I've been told about you/I've been waiting for you"も、どうしても一方通行な見方をしてしまいます。本格的に雲行きが怪しくなったと感じるのは、"boy"と"She"が頻繁に登場するようになってからです。"Roamin' roamin' roamin' in the city/And crossway boy"が描く当て処の無さや、繰り返される"she's on the phone again"および"She's calling from America"に覗く執拗な精神が、やはり怖い想像に結び付きます。途中から"boy"ではなく"boyfriend"の頻度が多くなるのも露骨というか、事態の悪化が予期されて恐ろしいです。そして"Everyone is smiling"のあたりまでくると、現実が妄想に侵食されてきている気がします。その後の意味がわかりそうでわからない危うい歌詞も、幻覚や幻聴の類だと思えば納得のフレージングです。クライマックスが近付いてくると共に緊迫感も増し、同一の単語が錯乱気味に繰り返される"Without without without without again without again/Your telephone number"には、今にも切りかかりそうな嫌な勢いがあります。狂気の象徴たる"full moon"の連呼も、叩きつけるような"boys"の畳み掛けも、意味するのはカタストロフが間近であることでしょう。

 上述した内容はサウンドの面からも補強され、ボーカルセクションが全て終わってからのアウトロ、具体的に6:38以降の展開には殊更に恐怖を覚えます。ここまでの激しさが俄に終息し、ベルのループのみが不気味に鳴り響き、這い寄るベースラインが息を吹き返し、深くに落ち込んでいくようなパッドが彩るというサウンドメイキングは、殺ってしまった後の世界で流れる音楽の表現だと主張したいです。下品ですがわかりやすく言うならば、賢者タイムよろしく激しい情動の後の冷静の表現に映ります。先に紹介した7分台の「(long version)」と10分台の「(album version)」の違いはアウトロの長さにあるので、この余韻に長く浸れる後者のほうが一層に素敵です。



 以上、珠玉の全11曲でした。発表から15年以上の時を経てもなお、全く色褪せることのない名盤です。もう少し具体的な総評は、後続記事「Beaucoup Fish (2017 Reissue) / Underworld Pt.2」の最後に語るので、ここにはリンクを貼るだけにしておきます。「Part.2」では未発表&レアトラック集のDISC 2と、リミックス集のDISC 3と4をレビューの対象としていますが、DISC 1ほどの深掘りはしていないため、比較的ライトな内容です。