amazarashiのₙC₅「スピードと摩擦」「独白」「スワイプ」「タクシードライバー」ほか | A Flood of Music

amazarashiのₙC₅「スピードと摩擦」「独白」「スワイプ」「タクシードライバー」ほか

 

はじめに

 

 自作のプレイリストからアーティストもしくは作品毎に5曲を選んでレビューする記事です。第5弾は【amazarashi】を取り立てます。普通に読む分に理解の必要はありませんが、独自の用語(nの値やリストに係る序数詞)に関する詳細は前掲リンク先を参照してください。

 

 当ブログにamazarashiをメインとした記事を立てるのは;というより言及自体が初です。タイアップ先のアニメを全て視聴済みなので(TG√A, 乱歩奇譚, ヒロアカ2期, どろろ, 86, ニーア)、従前のアニソン記事で名前ぐらいは出しているだろうと思いきや記憶違いでした。それらの主題歌を通じて常々感じていたのは、「このバンドの歌詞は甚く気に入るか酷く嫌うかの二者択一になりそうだ」との極端なもので、アルバムにまで手を出すか否か長らく迷っていたと明かします。果たして今は最新作まで把握済みで、その圧倒的な言葉の質量を前に好悪は瑣事と化し、音楽として評価するならツボでしかないという結論を得ています。

 

 前置きは以上で、ここからamazarashiのₙC₅を書き始めます。現時点でのnの値は30/3[=10*3]、レビューするのは「スピードと摩擦」「百年経ったら」「独白」「スワイプ」「タクシードライバー」の5曲です。中盤の「独白」に対する異様な文章量とイデオロジカルな内容には面喰うでしょうが、他の4曲に関しては当ブログ比で並の文章量なので安心してください(短いとは言っていない)。

 

 

「スピードと摩擦」(2015)

 

 

 存在を知ったきっかけがアニメなので、タイアップ付の中でいちばん好きな「スピードと摩擦」から紹介します。『乱歩奇譚 Game of Laplace』OP曲。そもこのタイトルに込められたジレンマの向きに惹かれるものがあり、高校物理では「動摩擦力は速度に依存しない」と突っ撥ねられてしまうけれど、歌詞に照らすと本曲の"スピードと摩擦"は直接的には車のブレーキについての描写と受け取れます。つまり厳密には摩擦熱*1の話でこちらは速度に比例して発熱量が増大するため、"地球の裏の荒野へ 早く連れてってくれ"と急くほどに急制動時のリスクが大きくなるのは道理で、いざ事故れば"体内に発車の汽笛 血液は逃避の路線"と命が肉体を離れていくのを俯瞰に見る事態に陥るわけです。だとしても停滞を許されず突き進むしかないのが人間なので、係る焦燥と破滅の予感を見事に捉えて「スピードと摩擦」という曲名に集約させたのだと思いました。

 

 *1 ブレーキによる減速の本体は摩擦力ではなく、それによって生じた熱エネルギーが車体の運動エネルギーを奪う点にあるということです。動摩擦力はパッドとローターの間に発生しており、その大きさを滑り速度に依存せず一定とするのが初歩的な考え方と言えます。実際には例外もあり現実の運用には工学的な知識が求められるので、直感と理論のズレは珍しくないでしょう。斯く言う僕も物理の知識を忘れて久しく今般改めて調べる際には、以下に埋め込んだヤフー知恵袋と外部ブログ『高校物理からはじめる工学部の物理学』さんの頁が参考になりました。前者は質問の素朴さを否定しない回答の丁寧さで取っ付き易く、後者はより専門的に関連事項が網羅されており有益です。

 

 

 本曲の歌詞は場面場面で綴られているというか、何処か断片的に響いてきます。とはいえ2番Bメロまでは"この街"を出ようとする遅疑逡巡を、2番サビ以降は意を決して脱出した後を歌っているとの理解です。楽曲の主人公と作詞者を必ずしもイコールで結ばなくても良いのですが、秋田さんがずっと青森を拠点としている来歴に鑑みると、"東北に流転"や"北の山背"や"死ぬには早い降雪"などの‘らしい’情景も窺えます。"気管支炎の音符で/血を吐くまでは歌え"も、秋田さんの喉を傷めそうなエモーショナルなボーカルの比喩とするなら納得です。

 

 着眼点に唸らされたのは2番Aメロで、"砂場に子供らの神話体系 その一粒ごと神は宿って/絡まって 切れぬ社会性 みだりに越えて 唾を吐き掛け"は、文字通り神懸り的な一節であると評します。幼い頃に"砂場"から始まった世界の形が大人になるとそのまま"街"へと敷衍し、他者との関係性に良くも悪くも後ろ髪を引かれて一つ所に囚われてしまう気持ちは解るからです。この複雑さの背景には"我が塞がって"くるという誰しもに共通の成長があり、自他境界が明確になればなるほど越境行為は火種となる危険性を孕むので、これを弁えた人間同士でなら(見かけ上は)良好な関係を維持出来るものの、不器用な人は強固な自我ゆえか意図せず他者のテリトリーを侵しがちなため都度反駁に遭い、"来世疑って 無様に燃えて あとは何もねえ"と厭世家じみてきます。これに共感を覚えて評価したというより、"この街"を棄てる動機と棄て切れない未練の提示として実にリアルで端的な言葉の積み重ねだと感心した部分が大きいです。

 

 作編曲の面を語るならひとまず「摩擦」は扨置き、全体としては「スピード」に特化したつくりと言えます。楽想は各セクションを明確に区分するオーソドックスなものではあるけれど、その実連続性が高く「Aメロを発展させたBメロを発展させたサビ…」といった具合にボルテージが上がっていく音運びなので、これが疾走感の醸成に寄与しているとの分析です。プログラミングとバンドサウンドが調和したオケもやはりスピーディーで、ビートの細かさや手数の多さが早鐘ないし駛走の音に聴こえます。ここに感情を上乗せするのが叙情的に歌うピアノで、別けても2番サビのそれは歌詞と相俟って音の粒が輝きを増すほどに綺麗です。唯一連続性から外れるメロディアスなCメロが「摩擦」の担当で、歌詞も事故の場面ゆえ勢いが削がれるのは当然でしょう。タキサイキア現象の最中で嫌に冷静だからこそのスローモーションとも取れます。そして直後に迫り来る死を前に再び勢い付くのが残酷で巧いです。

 

 

「百年経ったら」(2016)

 

 

 お次はアルバム曲から『世界収束二一一六』(2016)に収録の「百年経ったら」をレビューします。本曲もまた"故郷"に対する複雑な心持ちを察せる歌詞内容で、更にSF的な視点が加わり舞台設定は一層に長大です。特に後者の要素が色濃くなり始めるCメロ以降が圧巻で、"荒廃したこの土地で もう生きていけないから/ノアの箱船的宇宙船 炎を吐く飛行機雲"の光景に「百年経ったら」を実感し、大規模且つ集団的な永遠の別れを何度も遠目に見送ったことを象徴するように繰り返される"みんな 地球を出て行った"に、幾星霜の孤独と強烈な憧憬を見て泣きそうになります。ここまで切なさを演出していたピアノが[4:15~]で決心めいてくるのも鳥肌で、"僕はそれに 手を振った/さよなら"で意志ある決別が歌われるところに、残された…否、残る者の矜持を垣間見ました。なればこそ"この町が燃え尽きて 百年経ったら起こして"と、次の"百年"に希望を託せるのですから。

 

 amazarashiの楽曲でも本曲のように旋律性に富んだものは童謡らしい趣を宿すことが多いとの認識で、とりわけサビメロに関して1番ではやや不明瞭であったその輪郭が2番で浮き彫りとなり、覚悟を決めた後のラスサビで力強くメロディのポテンシャルを引き出してくるという変化は、馴染み易さと奥深さを両立させた高度なものであると主張します。勿論これはメロディやコードだけで成せることではなく、精緻なトラックメイキングと雄弁なボーカルディレクションもあってこそです。歌詞も音楽的には韻律として作曲の領分に食い込んでくるので、作詞作曲編曲歌唱の全てで以て絶妙な音像を結べているのを絶賛します。

 

 

「独白」(2020)

 

 

 続いてはシングル『リビングデッド』(2018)のc/wに「独白(検閲済み)」として収録され、武道館公演および以降に専用アプリと特設サイトで検閲解除バージョンが聴けるという試みを経て、ディスクへの収録はアルバム『ボイコット』(2020)が初となる複雑なリリース過程を辿った「独白」にフォーカスです。amazarashiの音楽性を構成する一要素として、いわゆる歌モノとは別にポエトリーリーディングが主軸のトラックが挙げられます。その多くはアルバムの中で語り部的と言いましょうか、世界観を補強するために挿入された小品の印象で曲長は短めです。しかし本曲はポエトリー系でありながら5分を超える点で特筆性があり、曲名からして"言葉"が重要であると明白なので(公演名『朗読演奏実験空間 新言語秩序』も然り)、秋田さんの紡ぐ言葉の洪水に溺れたい自分には打って付けと言えます。

 

 

 歌詞の中で心底我が意を得たりと思ったフレーズは、"「言葉にならない」気持ちは言葉にするべきだ/「例えようのない」その状況こそ例えるべきだ/「言葉もない」という言葉が何を伝えてんのか/君自身の言葉で自身を定義するんだ"で、これは本曲のテーマそのものに深く言及した部分でしょう。"言葉は積み重なる 人間を形作る 私が私自身を説き伏せてきたように/一行では無理でも十万行ならどうか/一日では無理でも十年を経たならどうか"もキーとして、本項には言語表現に対して僕が抱えているイデオロギーの一部を開陳します。本曲の純粋なレビューとしては逸脱も甚だしい冗長な自分語りになるけれど、これは「僕自身の言葉で自身を定義する」試みの一環です。なお、こと歌詞に限ってはその表現方法に対して物申す記事をアップしたことがあるため、参考までにリンクしておきます(当該アーティストへの批判ではありません)。

 

 事前情報として僕は常人以上に言葉に一家言ある人間だとの自覚があります。その根源はアカデミアないしキャリアに係るので身バレ防止で詳細は伏せるものの、動画や画像での主張が情報量豊富と持て囃され文章もビジネスライクとハイコンテクストを言い訳に簡潔が美徳とされがちな昨今の風潮に於いて、SNSに比べると落ち目の感があるツールを通じて音楽レビューとしても異質な長文*2が書き連ねてある当ブログの存在が、代替として前述した自覚の証明を一助すれば御の字です。こういう性分だからか上記の言い回しにも若干の毒が含まれており、言葉を軽んじるありとあらゆるアクションには成る丈反抗的で居たいと考えています。

 

 *2 余談ですが僕が理想としている音楽レビューは、個人ホームページ全盛の頃にあった数々の素人ディスクレビューと、海外作品の日本盤に封入されているプロの手に成るライナーノーツの組み合わせなので、手もなく書いた感想文で満足する気は毛頭ないのです。前者はアマゆえに文章量も内容もついでにレイアウトも無制限のフロンティアでしたし、後者も背景情報で紙幅を稼いだり別アーティストの話に脱線したりと意外と自由であることを数多く読んでいる方なら知っているでしょう。

 

 閑話休題。管理人のプロフィール記事の深部には大凡他人に見せるべきではないイデオロギー大爆発の乱筆乱文があり、基本的には閲覧非推奨ともあれ読みたいなら閲覧注意と喚起の必要がある代物です。しかしその中の一部に本曲の歌詞で表せば、"「言葉にならない」"および"「例えようのない」"で良しとされてしまうことへの違和感に関連した記述があるため、当該部分を以下にセルフ引用しました。元は論語の話から続いているところを割愛し、「シンプル」または「解り易い」という概念に込められた欺瞞に意見します。

 

 シンプルは確かに正義です。しかし難しい事柄を解り易く変換することをそう呼ぶ人は疑います。難しい問題に対する真にシンプルな向き合い方は、難しいままに内容を理解することです。そのために専門的な言葉或いはハイコンテクストな言い回しが存在し、それらを正しく使い熟すには対象への正しい理解が不可欠となります。その努力をせず現状の知識に甘んじて得た安易な理解;自分に取り都合の好い語彙に置き換えたものは、コアが残っているため一見変質していないように見えても、その実それを支える多くの周辺情報が削ぎ落とされているものです。

 この「コアを残す」を「解り易くする」と履き違えた言説は「嘘が上手い」と同義で、その嘘に騙されるような人が「解り易い!」と群がるから理があるように見えるだけ、その嘘を見抜ける人からしたら滑稽に映ります。極端な例として、三者鼎立の状態をシンプルをお題目に二項対立にしたら本質が捻じ曲がるのは誰でも分かるでしょう。とはいえこれこそが難しいままに理解できなかった時に起きている欺瞞、換言して「解り易くする」に組み込まれたフィルターです。この点を意識して発信または受信するなら健全だけれど、シンプルに囚われて手早い情報の浸透と拡散が第一義となっているものは、発信側の言葉足らずと受信側の理解力不足が低レベルにマッチングしただけにしか見えません。

 

 本曲の歌詞が「検閲」というステップを踏んでいることと、初披露の場である『朗読演奏実験空間 新言語秩序』がオーウェルの小説『1984年』に影響を受けている*3ことを考慮すれば、上記で僕が批判したいものの一端には「ニュースピーク的な発想」が含まれると類推出来るでしょう。要するに「思考能力を奪うための簡略言語など唾棄すべき」との述懐で、言葉を平易に簡素にしていく過程でどれだけの価値ある情報が欠落したかが解らないような盆暗になるのは御免蒙りたいのです。何時でも何処でも「シンプルで解り易い」に馴染んでいると自分で考える能力は衰えるばかりですし、その点を利用されて悪意ある人間に害される確率もぐんと増していきます。

 

 *3 『1984年』は以前からの愛読書で、先にリンクしたプロフィールにも好きな本として挙げています。別アーティストの記事で過去にも引き合いに出したことがあり、この記事は同じく同作を題材としたアルバムに関してなので直接的に紹介していて、この記事では僕が恣意的に結び付けたに過ぎませんが「ニュースピーク」「犯罪中止」「自己防衛的愚鈍」と作中ワードを借用しています。つまり僕も大いに影響を受けているわけです。

 

 

 複雑で多面的な物事を都合の好いように歪めて単純化した言説は、本来なら直ぐに可笑しいと気付けるほどに穴だらけです。なのでこれを誤魔化すためには「単純化を可能にする強大な何か」が必要で、その多くは自身を強大に見せることで大鉈を振える存在だと誤認させる手口を使ってきます。一も二もなく宇宙や神霊や潜在意識などのスピリチュアルを持ち出せば解決と考える教祖様に野良カウンセラー、もしくは真面な権威を得る学も実績もないからと権威を演出するためだけに作られた資格や検定の合格証を経歴に載せる怪しい投資家や商材屋が典型です。彼ら彼女らはそうでもしないと「窮屈なシンプル」ないし「蒙昧な解り易さ」から修飾語を取り払えないからで、この見え透いた嘘にさえ騙されてしまう哀れさが「シンプル」と「解り易い」を追い求めた先に待ち構えている罠と言えます。

 

 この堕落から少しでも身を護るためには「自分の頭で考える」ことが肝要で、それ即ち「自分の言葉で物を言う」ことに他なりません。ゆえに"「言葉にならない」気持ちは言葉にするべき"ですし、"「例えようのない」その状況こそ例えるべきだ"と首肯出来ます。"「言葉もない」という言葉"の多義性も議論の対象で、僕はどうしてもそのままの否定的な解釈を優先してしまいます。勿論「感謝の言葉もありません」や「お詫びの言葉もございません」が最大級の謝辞を述べる用法なのは理解しているけれど、そう表現されるくらいなら仮令ぶっきらぼうでも「ありがとう」や「ごめんなさい」と素直に言われたほうが嬉しく思う人間です。或いは「感謝する」も「謝罪する」も遂行動詞なのだから単体でも使える利便性があるのに、それをわざわざ否定形にして強調されると「遂行したくないのかな?」と文法的見地から要らぬ想像を巡らす余地が生まれます。

 

 

 …と、このように表現ひとつ取っても曖昧なものや言葉足らずのものは誤解曲解の温床となり得るのです。元より曖昧なままに濁すのが得意な日本語の性質もありますし、他者への受け取られ方を気にする気にしないといった話者の性格も絡んでくるので、何でもかんでも意図や背景を詳らかにせよと強制するわけではありませんが、伝えたい内容を損ないたくないなら言葉を尽くしたほうが吉と勧めます。例えばこのパラグラフ自体別に書かなくても全体の流れには殆ど影響しない補足的なものとの認識だけれど、上記「~生まれます。」で当座のトピックを終えると下卑た人間に何らかの病名透視(国籍透視の類同)を許す隙が生まれると感じたので、牽制のためにわざわざ書いているのです。

 

 

 ここからの話は本曲のメッセージ性というかamazarashiの持つ反骨精神とは一部で矛盾します。「言葉」の価値を上げるために「行動」の価値を下げる書き方をするからです。しかしこの背景には「目下の社会は行動に囚われて言葉を省みていない」との認識があるので、僕が伝えたいのは「言葉と行動の価値を等価に戻すこと」の重要性だと断っておきます。行動が悪と言いたいわけではありません。

 

 先に述べた動画像偏重や短文礼讃に対する皮肉は、偏に「言葉が軽視されている」との危機感に根差しています。近年に於けるこの背景には「言葉より行動で示せ」の同調圧力(健全過ぎる社会圧)があると考えており、これを意識するあまりに「言葉は適当で構わない」との誤った解釈が幅を利かせていると感じられて暗澹たる気分です。端から言語化を諦めた行動原理はその意識や目的が酷く不明瞭なままであるのに、何はなくとも行動した者勝ちの精神で集団的に暴走するから手に負えないといった事例を昨今の分断社会ではよく目にします。言語による総括をせず行動の結果しか見ない人々の言語能力は当然ながら著しく衰退し、ますます文字情報に乏しい動画像や短文からしか情報を得られなくなって負のスパイラルに陥っているとの分析です。「動画像には文字だけより何倍もの情報量があって~」と言い出す盲信者には、「聡い人は文字からでも脳内に映像を結べますよ」と相手の主張そのものは否定せずに反論します。

 

 なお、本レビューをここまで読み進められた方は自明的に長文耐性を有しているとお見受け致しますので、ここに述べた批判は当たらないでしょう。下掲外部ブログの内容にも甚く同意出来るはずです。そもそも長い文章を受け付けない人に体系立った言語化など土台無理な話で、「行動でしか意思表示出来ない」のを「言葉より行動」という耳当たりの好い概念で隠して、言語能力に欠くことを恥じない合理化を図ったのだなと穿った見方(誤用じゃないですよ)をしています。

 

 

 また別の観点から行動第一主義の落とし穴を説きます。古くは「言うは易く行うは難し」、少し前なら「やらない善よりやる偽善」、最近では「シンパシーよりエンパシーよりコンパッション(=同情するなら行動を伴うほうが正義)」。それぞれは微妙に真意が異なるけれど、共通するのはアクションを天秤の片側に据えて相対的にノンアクションを悪し様に扱う点です。しかしこれらの金言は行動の尊さを説くことのみに使われるべきで、「言葉にした」事実を棄損するのに用いるものではないと考えます。良くも悪くも関心を持って意見を述べた人を「口だけなら何とでも言える!」と責めたり、無関心というニュートラルな状態を「加害と同義!」と断罪したりする人には、そう決め付ける前に自身が抱える問題意識について言語化する努力をしたのか?と問い質したいです。想定される反論は「言葉で言っても解らないから行動で示すのみ!」でしょうが、正しく言葉を副えれば尚効果的なのだから言語化を放棄していい理由にはなりません。目的は何であれ味方を増やすために活動しているはずなのに、未だ何方でもない人を敵認定してから事に当たっていては、アンチ以上に支持者が増えることはないと思います。これこそ過ぎたアクティビストが軽薄な弁舌家にも劣って見える所以です。課題を正確に言語化して広く社会に訴えを起こし、潜在的な味方を増やしてから行動を起こしたほうが社会を動かす力は大きく働くと言えます。

 

 とはいえ現実には言葉と行動は不可分なことが多いですし、上記のようにトレードオフで説明されるものでは本来ないでしょう。例えばある社会問題についてシュプレヒコールを上げながらデモ行進をするのは言行動がセットに見えるけれど、中にはデモに参加するぐらいでは行動と認めず政治活動レベルで初めて行動の要件を満たすとする人も居るでしょうし、或いは世論を巧みに捉えた文章が多くの読者の共感を呼んで係る問題への意識改革に繋がったなら、そちらのほうが声高にスローガンを叫んで練り歩くより行動的だと見做されることもあります。そも「言葉にする」もアクションのひとつなので、行動を伴わなければ意味がないとの比較は前提からして不自然です。問題の性質によっては「声を上げる」こと自体が称賛される場合もあるのに、具体的に行動しなければ無価値というならその勇気ある声も浮かばれませんね。序でに言えば「アクションを起こさない」もひとつの行動形態であり、ゆえに能動的に無関心を貫いている人を「見て見ぬふり」だの「学習性無力感」だのの言葉で勝手に意志薄弱者に仕立て上げるのも傲慢で、説明不足の主義主張を掲げているのに行動だけは積極的な個人・集団について、「よく観察し学んだ上で関らないようにする」のは賢いノンアクションです。言葉を軽んじると行動にも説得力が生まれませんし、理念なき行動派の人は得てして無能な働き者と謗られます。

 

 

 以上、僕が言語表現に対して抱えているイデオロギーについて;換言して「言葉が軽視されている」と感じる根拠の提示でした。結びに「独白」の歌詞に戻りまして、斯様な思いを抱えているからこそ"奪われた言葉が やむにやまれぬ言葉が/私自身が手を下し息絶えた言葉が/この先の行く末を決定づけるとするなら/その言葉を 再び私たちの手の中に"の仮定には「そうであれ」と願いますし、反知性的かんたん言語主義者や放言派アクティビストから"言葉を取り戻せ"と息巻くのは"言葉"の可能性を信じる者の責務だと適従します。

 

 最後に音楽的な面にもふれまして、本曲のオケはメッセージ性の強さに見合うエモいピアノロックサウンドが象徴的です。クラップとキックが織り成す宛らタップダンスの力強いリズムに身体も心も疼き出し、別けても勢い付く"流れていった涙や後悔の時間に"~のスタンザは覚醒的で素晴らしく脳汁が溢れてきます。"この物語はフィクションであり"~の定型句パートも、発声前のブレイクが生む緊張感が極上のフロウを形成して虚構と現実を綯い交ぜとするまさに神韻です。

 

 

「スワイプ」(2023)

 

 

 4曲目には最新のディスコグラフィーから配信限定シングル曲「スワイプ」を据えます。邦画『ヴィレッジ』とのコラボレーションソングで、アルバム『永遠市』(2023)の収録曲では最たるフェイバリットです。その歌詞は「日本の闇詰め合わせセット」といった趣で、しかしそれは常に傍らに在ってともすれば誰もが落っこち得る「我が国の病んだ日常」でもあります。「百年経ったら」の項でamazarashiの楽曲傾向として「旋律性に富んだものは童謡らしい」と述べましたが、本曲もそのキャッチーなメロに乗せて"不景気な地方自治体 おばあちゃんかかる特殊詐欺/週明け上がる水死体 大人のせいで子供死んだり"と絶望的な内容が紡がれるので感情はぐちゃぐちゃです。この混乱は続く"全て忘れて踊れと怒鳴る祭り囃子"が導いていて、言葉の上でも楽典の上でも喜怒哀楽全部乗せと言えるこのラインを聴くと涙が零れてきます。直視するにはキャパオーバーの脳と心を守るために、"僕らせめて夢を見たい"と現実逃避するしかない哀しい前向きさです。

 

 表題の「スワイプ」はスマホ用語としてのそれで、ニュースアプリやトレンドブログを通じて確かに存在する暗部の情報にふれたとしても寸時という習慣もまた、個人が抱えられる不幸の限界を炙り出しています。"いつか僕も数字になる スワイプで過ぎ去る記事になる/ここに存在する確かな想い 数行で語られる幻"は、如何様なコンテクストがあろうと全ての媒体に(=メディアのスペースにも前述した個人のキャパにも)制限があるため残念ながら事実でしょう。その"数字"に言及した"自殺者は年何万人 多重債務者の行く先/孤独死は何パーセント 記事では見えない想いないがしろ"には、映画『気狂いピエロ』の近しい台詞群を想起させられました。ラジオが報じるベトナム戦争の死者数にふれ、個々人の人生に関して何も解らない点に恐れを覚えるシーンです。もっと遡れば新聞に対して同様の思いを吐露したより古い例が見つかるかもしれませんね。ともかくその時代から現在に至るまでずっと、無名の人間は死して数字と化す虚しさから逃れられないのです。そう考えるとお悔やみ欄の存在が良心的に見えてきます。

 

 

 

 「死」については"平穏の舞台裏に 出番を待っている死神"が無慈悲にその通りと思えるのが嫌で、今日亡くなった人の殆どは自分の命が今日潰えるとは微塵も想定していなかっただろうな…と遣る瀬無い想像を巡らせた経験は多くの方にあるでしょう。それでも不慮の事故や前触れなき災害や劇症化する病への怯えは、自分と自分を取り巻く人間関係の分だけで精一杯です。ゆえに赤の他人の人生は"今日をスワイプ 今日をスワイプ あらすじに閉じ込められた生涯"で片付けるしかなく、"今日をスワイプ 今日をスワイプ 忘れ去られた叫びと贖罪"と目を滑らせ耳を塞いで誰か贖ってくれと嘯く狡い自分が居ます。

 

 平歌部が1番2番3番でアレンジを異にするナラティブなトラックメイキングも好みです。ギターが左隣で多弁に歌い出す1番のそれを基本にすると、陰鬱なシンセベースとディストーションされたピアノで実験音楽じみたスタブ系サウンドを奏で始める2番入りの変化には驚かされます。3番は歌詞内容を反映してか希望を思わせる優しい音遣いだけれど、"けどすり抜けたこの手もしかして いつかの罪悪で血まみれ"と手放しで喜べなくなって影を落とすのがニクいです。勘違いなのですがここの"まさかあの日と地続き"は、歌詞を見るまで『「まさかあの人」地続き』と聴き分けていました。"上手くやれてる自分"でも不意に転落するかもしれないことへの示唆と警鐘的な解釈です。「独白」の"「どこにでもいる真面目な子でした」「まさかあの子が」/世間様の暇つぶしに辱められた自尊が/良からぬ企みを身ごもるのも必然で"に引っ張られた可能性は否めません。

 

 

 
 

「タクシードライバー」(2016)

 

 

 再びアルバム『世界収束二一一六』から「タクシードライバー」を取り立ててラストです。先にレビューした「スピードと摩擦」「百年経ったら」も同作に収録されており、且つ今回は見送りましたが「花は誰かの死体に咲く」もリストの1stに入れていることから僕の中で名盤認定されています。既に同盤のAmazonリンクは埋め込み済なため、amazarashiを聴く方なら馴染みがありそう or 好みそうとの偏見から映画『タクシードライバー』のそれ*4を代わりにしました。「スワイプ」の項では同曲が映画とコラボしていることに託けてゴダール作品での例示をし、本作もまた間接的にベトナム戦争が出てくる点から紹介し好い流れかなと。

 

 *4 客と運転手で立場が違うので本曲が同映画をモチーフにしたとは思わないものの(タイトルは意識したかもですが)、危うい主人公像には共通のものを感じます。"ニュースの紛争、ネットに流れた死体のjpeg 痛みを無視出来るなら人は悪魔にだってなれる"を、画面越しでなくリアルで見た人もしくは手に掛けざるを得なかった人のトラウマを描くのは往年のテーマですよね。ちなみにスコセッシ×デニーロ作品なら『キング・オブ・コメディ』がとかくお気に入りで、ヤバイ奴が主人公のフィクションは現実世界が狂えば狂うほど翻ってリアルに映ります。

 

 本曲の歌詞には実に様々な視点が盛り込まれているので、順不同にいくつかピックアップしましょう。まず"排他主義反対と疎外する人間が居て 暴力反対という暴力には無自覚な奴がいて"の鋭い指摘は、「独白」の項で批判した「言葉を軽んじた行動」が逆差別と悪平等を撒き散らすことを示した好例です。続く"不良になる為には、まず良い人間にならなければ 家出する為には、まず家に住まなければ"は、無意識に見落とされた前提に於いて恵まれた境遇があるとの皮肉に善悪を考えさせられます。「百年経ったら」の"価値のない物に価値を付け/価値観とうそぶくものに 支払いの義理はない"や"良心があってこそ 良心が傷むのだ"も同じく、立ち返って物事を見る姿勢に秋田さんは長けていると脱帽です。

 

 "四号線"で"東京"と結ばれているという地理的条件から"地方都市と呼ぶのもはばかられる様な町"がやや具体性を帯びるのに技巧性を見て、同じ国に住んでいても地域によって都市観は多様だと気付かされる部分にも含蓄があります。僕は東京生まれ近郊育ちなので東京に対しても一部の郷土愛があり、ゆえに倦むほど聞かされた「巨悪都市東京」の安易なイメージには反感を覚えなくもありません。この点は過去に別アーティストの記事で持論を展開しており、坂口安吾のエッセイ『日本文化私観』と冒頭の「上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す」を武器に東京を擁護しているため興味のある方はご覧ください。そんな立脚地に居る(更に言えばアンチ物質主義にも異論を呈す)自分でさえ、"窓から六本木の高層ビルがいけ好かねえ 物質主義が貫通してる、東京の楔として"には衝撃を受け、巧みな言葉繰りの前に自分軸が揺らぎました。一時期は東北の某県に居を構えていたこともあるため、"青い青空が青過ぎてもはや黒で"の気持ちも解らなくはないのだと言い訳しておきます。

 

 

 amazarashiを聴いて尾崎豊を連想する人は一定数居るようで、僕も曲に拠ってはそう感じることがあり本曲も一例です。特に"飲み過ぎてくだまいて"~は進行にも歌唱にも面影を幻視します。サビの始めと終わりで切実のほどが歌い分けられている"タクシードライバー"~に関しても、感情の積み上げ方に思わせるところがあるとの所感です。とりわけ後者はギターの流麗さが感動的で、"流れる都市の景色があまりにもきらびやかで"のサウンドスケープが賑やかに切なく浮かびます。他のセクションでもハイスキルな演奏が魅力の一端を担っており、"この車両に凝固してる"の裏からやおらインしてくるギターの細やかさや、ラスサビ"将来も未来も視界不良の道半ばで"以降のピアノ伴奏は論功行賞モノです。

 

 上記も含めて最後にまとめて言及するのは出羽良彰さんの功績で、本記事内に述べた編曲面への讃辞には氏に対するものが多分に含まれています。長らくamazarashiの音楽にアレンジャーないしプロデューサーとして携わっているため、その世界観およびサウンドの良き理解者として音を鳴らしているのは勿論、他のアーティストや作品を通じて既知の出羽さんらしい色、即ち繊細さと大胆さを兼ね備えた音作りもきちんと感じられるという自他共に立てる姿勢が素敵です。当ブログ内に名前を出している記事ではやなぎなぎ「砂糖玉の月」(2017)を、以外では同「三つ葉の結びめ」(2016:『Follow My Tracks』収録の別アレンジ)と、劇場アニメ『Tokyo 7th シスターズ -僕らは青空になる-』の劇伴を高く評価しています。

 

 

 

おわりに

 

 以上、amazarashiのₙC₅でした。レビューし甲斐のある楽曲ばかりなので書き始める前から一筋縄にいかないのは覚悟していたものの、「独白」のそれが予想以上に難産を極めて言葉の物量戦を仕掛けることになったので時間を要した次第です。これだけの文章を書かせるパワーがamazarashiの音楽にはあると短く結んで、ₙC₅では初となる限界文字数の壁を憎らしく思って記事を終えます。