誰得アニメコラム その1 | A Flood of Music

誰得アニメコラム その1

【お知らせ:2019.12.14】令和の大改訂の一環で、本記事に対する全体的な改訂を行いました。この影響で、元々の更新年月日以降に得た情報も含む内容となっています。


0. はじめに

 本記事(「その1」+「その2」)に於ける最大の目的は、僕が今までに視聴してきたアニメの一覧を作ることです。主に自分用の記録として執筆するものですが、当ブログではアニソンの取り扱いも多いため、レビューの対象となる楽曲の傾向を知る材料にはなるかと思います。しかし、ただ作品名を羅列するだけでは読み物としての面白みに欠けるので、僕のアニメ鑑賞に対するスタンスを明かすコラムを併せて掲載することにしました。

 話の組み立ての都合上、コラムを「その1」に載せて前置きとしていますが、非常に長文且つ文字数制限の問題もあるため、実際に作品名をリストアップしていくのは、後続記事にあたる「その2」からとなります。単純に視聴履歴に興味があって本記事を訪れた方、もしくはラインナップを把握してからスタンスを知りたいという方は、先に後者からご覧いただいても子細ありません。


1. 誰得アニメコラム

 先述の通り、本コラムで明らかするのは僕のアニメ鑑賞に対するスタンスです。個人的なこだわりやイデオロギーに塗れまくっており、多大な共感を得るよりは顰蹙を買う可能性のほうが高いであろう誰得な内容となっています。中には特定のファン層を痛烈に批判する表現も含まれていますが、作品そのものの良し悪しを論ずるような記述は一切ありません。また、クリティカル過ぎるセクションでは直前にその旨を喚起してあるので、あまり気負わずに読み進めていただければ幸いです。

 本コラムの構成をごく簡単に説明しますと、僕がアニメを鑑賞する際に設けている独特のルールを開示した後に、そのような視聴スタイルに至った根拠となる価値観を解説するといった流れになります。後者はアニメに限らずメディア文化ないしサブカルチャー全般への、延いては表現物に対するそもそもの向き合い方を問うようなタフな内容です。なお、以降で文字サイズが小さくなるセクションには、前のパラグラフに対する補足的な文章が書いてあるため、エッセンスだけを掴みたい場合には読み飛ばしても構いません。

 読むなら後で構わないと断っておきますが、本記事の音楽版(厳密には歌詞・文章創作に於ける問題を扱ったもの)とも言えるコラムを、過去にこのレビュー記事の中に展開しており、その内容からも僕の表現/創作に対する考え方の一端が窺えるので、参考までにリンクしておきます。当該コラム内に喩えとして出した表現が本記事に於いても便利な場合があるため、以降で「音楽版記事」という言葉が出てきた際には、上掲記事を指すとご理解ください。


1.1 視聴形態に関するこだわり

 現在はアニメを視聴するのにも様々な手段が存在する時代ですが、僕は未だに従来からの鑑賞方法である「TV放送(の録画)」または「BD/DVDの購入」を強く支持しています。従って、ネット配信やディスクレンタルやサブスクリプションを利用することは基本的にありません。手ずから選択の幅を狭めているのは自覚していながらも、わざわざこのようにしている理由は大別して二つに絞れます。

 ひとつは自分の住む地域が昔から鑑賞には便利で、新たなサービスを使わずとも事足りているだけの話です。関東住みなので民放は在京キー局が全て入りますし、独立U局も位置取りが良いのか南関東一都三県の放送を全てカバー出来ています。CSもBSも共に利用可能で、最近はJ:COMテレビもアニメに注力しているので(「アニおび」枠の新設)、現行の作品は勿論として旧作もかなりの本数をTV放送のみで賄えているのです。一時期は民放が3局しか入らず、しかも深夜帯は所謂「一部地域を除く」に当て嵌まるのか、上位のキー局では放送されているはずの作品も観られないというアニメ不毛の地に居を構えていたこともあるため、この有難みは甚だ実感しています。

 本コラムに於いて重要なのはもうひとつの理由です。僕にはアニメを含むサブカル作品の楽しみ方(コト消費は除く)に関する持論があり、それに適う視聴形態が前出の「支持する」とした二種しかないことが、「利用しない」とした三種を排する根拠になっています。本節に展開するのはその持論で、嘗てプロフィール記事の中に掲載していた文章;Amebaが設定した質問項目「どうしてもこれだけは譲れないものは?」への回答を基に、僕の立脚地を明らかにしようと試みる次第です。ただし、元々は近年の音楽の聴かれ方に覚える違和感を主軸に据えた内容であったので、言及や例示の一丁目一番地が対音楽になっている点には留意してください。本節に於いてアニメは映像作品に含まれると想定してあるため、アニメ鑑賞の場合はどうなるだろうと置き換えながら読み進めていくのがベターです。


1.1.1 鑑賞形態のランク付け

 ごく個人的な意見であると断っておきますが、ある作品(音楽・映像・書籍など)をどのようにして入手したかに起因する、種々の鑑賞形態に敢えてランクを付けるのであれば、僕は【 A:新品を現物で購入 > B:配信での購入  > C:中古での購入ないし現物でのレンタル > D:ラジオ放送の録音またはTV放送の録画 > E:サブスクの利用 > F:ネットを介したグレーな鑑賞 】だと考えています。A~Fまでの6形態がこの順序である理由は、「作品が物質的に手元に存在しているかどうか」の観点に基けば説明が可能です。

 ここで言う「現物」とは、「CD/LP・BD/DVD・製本されたもの」を指します。それらを新品で購入したならばAの、中古で購入したならばCの扱いです。なお、現物でのレンタルも実質的には中古品の使い回しと変わらないので、ここでは同じレベルにまとめています。AとCがフィジカルな入手方法であるのに対して、Bはネット上でデータのみをダウンロード購入するようなデジタルな入手方法のことで、当然ながら必ず新品の扱いです。Dの肝は録音と録画にふれていることですが、普通にラジオで音楽を聴いたりTVで番組を観たりする、旧来から当たり前の鑑賞方法もここに含みます。EはCのフィジカルなレンタルに対するデジタルな位置付けで、手元に現物が来ないタイプの一時的な利用の全般を、サブスクという概念に集約させた書き方です。アクセス権の取得に過ぎず、作品の購入にはあたらない点でBとも異なります。

 Fは本来設けなくてもいい形態で、ネットを介した法的にグレーな鑑賞方法への一応の言及です。権利者以外が無断でアップロードしているデータへのアクセスや、正規に提供されているデータであればこそ推奨されないであろう私的複製を行うことなど、違法とまでは言えないけれど問題が残るものを論っています。ただし、前者は対象物が音楽や映像の場合、ダウンロードまで行うと真っ黒です。後者は個人で楽しむだけであれば私的複製の範囲内でしょうが、サービス側の規約に反してダウンロードツールを使うことやデバイス上の音声や映像を直接レコーディングすることは、Cに於ける現物レンタル品からのデジタルデータコピーやDに於ける放送内容の録音録画とは、私的複製の性質が異なると認識しています。なお、Cの場合でも対象物が映像(現物がBD/DVD)であるなら、私的複製であってもコピーガードを破った上での利用は違法です。


 「作品が物質的に手元に存在しているかどうか」の話に戻りまして、[新品|現物]のパラメータを持つAを最高位とすると、次点に来るのは[中古|現物]のCとなります。しかし、元より[新品|データ]以外の選択肢がないデジタルリリースのみの作品が存在することも考慮し、ダウンロード購入の場合はデジタル上での物理的な所有と見做して、BはCより上の位置付けです。また、Cには現物レンタルのケースに於ける[一時的]の側面もあり、これを私的複製して[永続的]なものにすれば実質的にはDの録音録画と近い扱いとなるので、この点でもCはD側に寄せておく必要がありました。所有か否かで区別していくと、Eは購読を止めるまたはネット環境が失せれば何も手元に残らない[一時的]な利用方法となるため、複製すれば物質的なものが手元に残るCとDよりも下に置いています。Fは[非推奨]な性質上、例外的に最下位であるだけです。


1.1.2 「作品が物質的に手元に存在している」ことの利点

 上記した観点の何がそれほど重要なのかと問われれば、僕は「手元に物品があるからこそ深まる理解」を信じているからだと答えます。具体性のある事柄から言えば、参与メンバーの詳細なクレジットの把握やフィジカルなプロダクトデザインに宿る妙味は、現物を入手しない限りは享受出来ないものです。現物志向でない方でも、後者に関しては当たり前に納得していただけるでしょうが、前者には「ネットで検索すれば詳細なクレジット情報を拾うことも可能なのでは?」といったツッコミが浮かぶかもしれません。しかし、基本的に現物志向且つレビューのためにネット上の情報収集も積極的に行っている僕から言わせてもらえば、フィジカルなプロダクトには記載されている情報が、ネットでは容易に見つけられないということは間々あります。

 音楽作品で例示するなら、アーティストの公式サイトのディスコグラフィーやレコード会社の商品紹介ページを見ても、編曲者が記載されていないケースは割と多くありますし、下手すれば作詞者・作曲者すら載っていない、作り手軽視が透けて見えるページに出会すことは少なくありません。ならばお次はユーザー編集型のWikipediaやDiscogsにあたってみようと試みるでしょうが、詳細なデータが記載されているのは熱心な編集者がいた場合に限られ、大体は歯抜けの印象を受ける不完全なページで妥協するのみです。特にWikipediaではメインの書き手が途中で力尽きてしまっているケースが散見され、あるアーティストのディスコグラフィーで半分程度は個別の項目が作成されているのに、ある時期を境に項目名だけを親ページに記して子ページは未作成という、そのアーティストに飽きたことが察せてしまう仕事にげんなりすることが結構あります。もっと細かく、例えば「このアルバムの9曲目の第2バイオリン奏者の名前を知りたい」とふと思った時に、現物を所持していれば直ぐに引っ張り出せる情報に対して、まごついてしまうのはスマートでないよねと言いたいのです。

 「手元に物品があるからこそ深まる理解」が成立するのは、基本的に[現物]のパラメータを持つA[新品]とCの一部[中古]のみで、例外的にはデジタルリリースオンリーのB[データ]も含めていいでしょう(デジタル上でクレジット等を記したブックレットをダウンロード出来る場合もあるため)。一方で、現物が手元にないという点では、レンタルからの私的複製や録音録画などで[永続的]としたCの一部およびDと、サブスクを[一時的]の代表格としたEとの序列は、本来等しくあるはずです。それではなぜここに上下関係を設けているのかというと、その根拠は「通信に依らない確実性の有無」にあります。これは何も難しい話ではなく、突き詰めればお金の問題です。

 CとDは自らの所有物としたうえで作品を鑑賞する形態なので、支払いは一回だけで済みますし(Cはレンタル料・Dは記録メディア代)、ネット環境がなくても問題にならないのに対して、Eは日本語にすれば定期購読であることからも明白な永続的な支払いに加えて、ストリーミング形式での鑑賞であればネット環境と通信費も考慮しなければなりません。総合的なコスパで言えばEが合理的であるのは重々承知していながらも、僕の価値観では「作品だけに対する一度きりの支払い(買い切り)」の選択肢が取れるならば、そちらに将来性があると旧来的な考え方を是とします。何処まで行っても[一時的]であるぐらいならば、A~Dまでの手段で[永続的]を得たほうが精神衛生上好ましく思うと換言しても構いません。

 また、これとは別の側面から見た確実性の観点として、2019年に頓に考えさせられるようになったのは、関係者が不祥事を起こした場合に於ける作品の扱いについてです。某グループのメンバーが逮捕されたことで、レコード会社がフィジカルのみならずデジタルも含めて市場に出回っている作品を言わば「なかったこと」にする措置を取った際には、つくづく現物で所持していて良かったと思いました。これに関してはITmedia上にある「物理メディアの強みとデジタルコンテンツの危うさ」にふれた記事が参考になったので、興味があれば「某グループの名前 + 物理メディア」で検索してご覧になってください。余談ですが、店頭から新品が撤去されネット上から配信コンテンツが消え、現在の入手方法が中古品の購入しかないと嘆いている方に供せる朗報がありまして、実は今でも現物レンタルであれば某グループの作品を借りることが可能です。貸与権周りの事情が特殊なのかなと勝手に納得していますが、レンタルにこのような強みがあったのは新発見でした。


1.1.3 鑑賞形態により変質する「物にする」の意味合い

 具体的な例示が出来ていた前項とは異なり、本項に述べるのは完全なる精神論です。物質主義じみた主張であると自覚はしていながらも、僕は所謂「物にする」という経験の表現は、物質的な所有と精神的な理解の双方が揃うことでその真価を発揮すると信じています。別にどのような入手経緯と鑑賞方法を取ろうが、同じ内容物にふれているのであれば理論上は同じレベルで精神的な理解に至れるはずです。とはいえ、現実的にはそうはならないと認識していて、A[新品|現物]で作品を鑑賞した人間とF[非推奨]で同じ作品を鑑賞した人間とでは、前者のほうが質の高い経験を得ていると断言します。A vs Fは極端な対比なので共感も得られやすいでしょうが、記録メディア代だけで作品に対しては一銭も支払っていないDよりも(厳密には私的録音録画補償金が含まれていますが)、再生数という形で作品に累積的な金銭貢献をし続けるEを下に位置付けていることの不可解さは、偏に僕が物理的な所有を優位にしているからにほかなりません。精神論ゆえにこれ以上の理論武装は出来ず、得心がいくかどうかはあなたの感性に委ねます。

 ただし、上記だけでは乱暴過ぎるきらいがあるので何点か補足をしましょう。まず1.1で「コト消費は除く」と断っておいた通り、本節で議論の対象としているのはあくまでもモノ消費についてのみであり、端から入手する物質的な対象がないものを批判したいわけではありません。ライブやイベントに参加する形での消費行動には、何ら優劣はないと考えています。加えて、「物にする」ことにこだわってはいますが、「物にならなければ意味がない」と認識していると、即ち過程の大切さを否定する意図で受け取られることも本意ではありません。言葉遊びのようで恐縮ですが、『「物にならなかった」という経験』にも質の差があり、その場合でも現物入手から遠ざかるほどに意義が薄れると思っているだけです。イメージとしてわかりやすいのは「身銭を切る」という言葉で、その金額が大きいほどに失敗した時のダメージも重くなるので、リスクに見合った経験値を最も多く得られるのはAだろうといったロジックになります。とはいえ、この観点で作品あたりに支払われる金額の多寡をよくよく考えてみると、【永続的に累積していくE > レンタル料のみのC > 私的録音録画補償金だけのD】となるため、僕自身でもC~Eの序列認識は曖昧です。

 また、本節ではやけにサブスクを槍玉に挙げてはいますが、何もサブスクの利用を全否定するつもりはなく、許容出来るケースもその実多くあります。例えば、試聴や守備範囲の拡大が目的の利用なら非常に健全だと感じますし、A~Dにも馴染みがある人がEにも手を出すのであれば、それは貪欲に「物にする」を実行せんとする探究者の姿勢であると好印象です。Eだけの利用者であっても、その背景に経済的な理由(単純に収入が低かったり)や地域的な理由(1.1でふれたような不毛の地に住んでいたり)があるのなら、これをわざわざ腐すこともしません。限られたリソースの中で最大限遣り繰りしようとするのもまた、効率よく「物にする」スタンスだからです。僕が真に嫌なのは、ここまでに説明してきた非現物ないし一時的な利用により被っているデメリットには一切の意識を向けず、Eのみでこの世のあらゆるエンタメやサブカルを手中に収めたかのような全能感に浸り、旧来からの鑑賞方法であるA~Dを不必要に否定してくる層で、音楽版記事で言うところの「愚鈍な受け手」が撒き散らす毒電波を批判しています。



1.1.4 本節のまとめ

 かなり大回りをしたうえに対音楽の文章をベースとしていることから、アニメだけにしか馴染みのない方には不親切な内容となってしまいました。要するに、本節で述べた「物質主義的な考え方を是とする姿勢」に反しない鑑賞形態とは、音楽の場合はA~Dまでが許容範囲になるのに対して、アニメの場合は私的複製で[永続的]になるD「TV放送(の録画)」か、商品として[現物]を手元に置けるA[新品]もしくはC[中古]の「BD/DVDの購入」に限られるということです。

 Bの[データ]購入もポリシーには反しないものの、1.1に書いたように環境に恵まれているおかげで、あまり利用する機会が多くないため除外しました。Cにはレンタルによる[一時的]の側面もありますが、CDと異なりBD/DVDからの吸出しに法的な難があることは1.1.1に記した通りで、[永続的]にならない点で考慮外なのはEと同じ、[非推奨]である点で論外なのはFと同じです。以上のことが、アニメ鑑賞に於いて僕が配信とレンタルとサブスクに頼らない理由となります。なお、話がややこしくなるので敢えて最初から無視してきたのは、その時点での鑑賞手段が非現物的なものしかない;例えば劇場版作品や配信限定作品についてで、これらは例外的にポリシー違反とは見做しません。劇場版作品は円盤になるまで意地でも映画館には行かないとか、配信限定作品は何が何でも観ないとかいった、謎のこだわりはないということです。


1.2 視聴作品の選定に関するこだわり

 先に「その2」の視聴履歴からご覧になった方は既に把握しているでしょうが、僕が1クールあたりに観ているアニメの本数は相当多いと言えます。特に8年近いブランクを挟んでアニヲタに出戻った2016年からは(詳細は「その2」にあり)、アニメの放送本数自体が増えていることも相俟って、過剰インプットと言っても差し支えない膨大さです。これを象徴する考え方として、次期に放送されるアニメの視聴計画を立てる際に、おそらく殆どの方は「どれを観るか」で作品を選ぶと思うのですが、僕の場合は「どれを観ないか」で作品数を減らしていくのが常でして、基本的に当該クールに放送される作品は全て視聴したい気持ちでいます。

 とはいえ、実際は種々の理由で所謂「0話切り」してしまう作品も多く、現実的にはクールあたりに放送される新作のうち、視聴しているのはその半分程度であるとの認識です。当ブログでは2016年から年末年始にかけて「アニソン振り返り記事」をアップするのを恒例としており、試しに2017年の視聴分(新作に限る・非30分番組も含む)からクールあたりの平均視聴本数を計算してみたところ、(15+28+21+22)/4で21.5本という数字が出てきました。Wikipediaの「Category:2017年のテレビアニメ」に含まれているページの数(235本)をその年の総数とすれば、86本/年でも全体の約37%しか視聴していないことになります。実際はこれらに加えて、クール毎に開きがあるとはいえ再放送されている作品も大体10本程度は平均で観ているので、つまり1クールに30本前後は新たな作品にふれているわけです。

 この本数を異常と感じるかどうかはあなた次第ですが、僕はその殆どを録画且つn倍速で視聴(所謂「早見再生」)することで、社会生活に支障が出ない範囲で楽しめています。コツはどんなに仕事や学業で疲れていたとしても、撮り溜めは可及的速やかに消化することで、週末や休日などにイッキ観しようとは思わないことです。先述した8年近いアニメ空白期間に差し掛かろうとする頃に、まとめて視聴するスタイルで両立出来ないかと試したことがありますが、遅かれ早かれ立ち行かなくなります。イッキ観のデメリットに関する研究も検索すれば出てくる通りなので、録画後遅くとも2日以内はちまちま消化していき、時間を多く取れる際には寧ろゆっくり過ごすなり外へ出かけるなり人と会うなりしたほうが有意義でしょう。前節ではふれませんでしたが、この手の時短機能を手軽に利用出来るのも、円盤および録画での視聴に於ける大きなメリットだと考えています。ただ、視聴本数の多寡や倍速視聴の是非については個々人で様々なこだわりが入り乱れるセンシティブな点であるため、その辺りの異論反論はここでは本筋ではないと扨措いていただれば幸いです。



1.2.1 選定にちらつく他者の影

 前節の流れと同じく、ここからはアニメに限らずサブカル作品と向き合う際に僕が意識している持論を展開します。その内容を端的にまとめるなら、「他者からの評判をあてにせずに鑑賞する作品を決めることが最善」といった理念の表明です。極論じみた言い方をすれば、人から聞き及んで良作と評判の作品や既に人気を博している作品だけをいくら鑑賞し続けていても、審美眼は鍛えられないし価値観の涵養にもならないと考えています。反対に、誰かの後追いではなく自らの感性のみで視聴作品を選び、且つそれらが現行で放送中(最終的な評価が定まっていない段階)であるならば、たとえ駄作と評するに至った作品があったとしても、その過程は財産であるとの主張です。勿論、最初から最後まで自己完結で良作と評せる作品と出逢えたならなお良しで、それは他者の評判が入り込んだものより尊いと言えます。

 本格的な言及に入る前に、いくつかの用語を解説しておきましょう。第一に、ここまでにも当たり前に使用している「視聴した」という表現をアニメ鑑賞の文脈下でしっかりと定義付けますと、これは「第一話から最終話まで全て観た」ことを意味します。前出した2017年の視聴分である86本にも、途中で視聴を打ち切った作品は一切含んでいません。第二に、視聴の打ち切りに関連する用語としての「4話切り」ですが、これは俗に「3話切り」と呼ばれる慣習と同種のものと捉えていただければ結構です。鑑賞中の作品をこの先も視聴し続けるかどうかのボーダーを、僕は第3話ではなく第4話に設けています。そのことによる利便性については割愛しますが、今ここで押さえておいてほしいのは第4話で切らない選択をした作品への扱いです。面白いと思って視聴継続を決めた場合には何の問題もありませんが、極端な例として第5話で既に限界だと感じた作品が通年放送だった場合でも、僕は残りの40話以上も付き合う選択をします。この「第4話までに切らなかった作品は、たとえその後どんなに苦痛だったとしても最終話まで観続ける」というスタンスが、以下で「4話切りルール」なる言葉が意味するところです。

 ただし、上で極端な例とした作品であっても、それは今後も一定以上の水準は担保されるであろうことを期して観続けるものであり、第4話までにそれすら見出せず本当に鑑賞に耐えかねると感じてしまうような作品に対しては、早々に切ることで得られる有益性(精神衛生上の利点や時間的損失の回避)を否定しません。前出の「4話切りルール」は文字通り第4話まで観続けた作品に対して適用されるもので、それ以前に切ってしまうことも往々にしてあるからです。しかし、第4話の時点で視聴継続の判断に迷う作品に出会したならば、観続ける選択を取ったほうが理念の上では利口であると判断します。



1.2.2 多種多様な作品を鑑賞する意義 -内省的なもの-

 このようにして苦しみを味わってまで視聴する作品の本数をなるべく減らさないようにしている背景には、大きく分けて二つの理由があります。ひとつは内省的なもので、多種多様な物語世界および表現技法に馴染んでおきたいという、創作物に対する僕の基本的な姿勢を動機とするものです。キーとなっている考え方は、単に「○○が好きな人」と「○○という表現媒体が好きな人」は全く別種の存在であるとの対立で、僕は後者の立場を支持しています。

 共通する「○○」には各人で何を当て嵌めても構わなくて、二次元趣味の範疇ならば「アニメ・漫画・ゲーム・コスプレ・フィギュア」などを、より大衆性を帯びさせれば「本・映画・ドラマ・芸能・音楽・演劇・ダンス・お笑い」などでもいいですし、日常に密接させて「ファッション・グルメ・建築」の衣食住でも、拡大解釈をすれば「学問・スポーツ・レジャー(余暇の過ごし方)・ライフスタイル(平時の過ごし方)・宗教・イデオロギー」あたりまで含めてもOKです。言わんとしているのは、突き詰めれば何れも「自己表現」に関わるものであり、違いは何を通じてそれを発信または受信しようとしているか;つまり媒体に依存するということで、これを「表現媒体」と呼称しています。

 自己表現を経た成果物(シンプルに言えば「作品」)そのものを愛して已まないのが「○○が好きな人」であるのに対して、「作品」が成立するまでのプロセスないしバックグラウンドとして確かにある自己表現ごと評価の対象とするのが「○○という表現媒体が好きな人」になるとの認識です。後者は好きの気持ちが各作品にだけでなく、それらを包括する上位の概念にまで及んでいるため、より多くの作品に意義を見出しやすくなり、結果的に鑑賞作品数も増えていくといった好循環が、前者に比べて顕著であると言えます。先程の「○○」にわざわざ多量の例示を行ったのにも狙いがあり、ある人の「自己表現」を構成するファクターには多種多様なものが存在するということに、とりわけ意識を割いていただきたかったのです。矛盾するような物言いをしますが、とどのつまりは空想の産物と言っていい創作物に数多くのめり込める人ほど、そこに至るまでの現実世界で多くの経験と知識を肌で得ているものとの理解でいて、自分以外の千差万別の価値観とふれあってこなかった人間は寧ろ、のめり込める創作の数も種類も貧弱になる傾向にあると分析しています。

 この視点にふれたものでは、糸井重里さんがゲームの攻略本に寄稿したというメッセージの画像を引用したあるツイート(2019年の5月頃にバズっていたもので、「糸井重里 シャベル」で検索すればTogetterのまとめがあります)の内容に甚く共感出来まして、バズ=必ずしも賛同とは限らないものの、強い訴えとなって広く拡散したのだとすれば、前出の矛盾するような物言いに共感を覚える方も実は相当数いるだろうと安堵の心持ちです。1.2でも何度か匂わせましたが、僕の過去には二次元趣味から距離を置いていた空白の8年間があり、そのブランクの最中にかなり濃くて幸福な人生経験を積んでこれたことが功を奏してか、以前よりも更に様々な作品への許容度が増していた喜びを、身をもって実感出来ています。加えて、このステージまで進むと、先述の通り「作品とは他者の自己表現を経た成果物」であるとの認識が強まるので、多量のインプットを擬似的な人生経験のレベルで受け取れるようになり、連鎖的に興味や嗜好の範囲が拡大していく開けた視界を得ることが可能です。なお、創作物のインプットを人生経験に置き換える見方は、文脈は違えど音楽版記事の中でも展開しているため、この点を深く知りたい方には参考になるかと思います。


1.2.3 多種多様な作品を鑑賞する意義 -対外的なもの-

 多くの作品を視聴する背景にあるもうひとつの理由は、「周りからどう思われるか」を意識した対外的なものです。前節で述べたような理想を掲げているからこそ、同時に「こういうタイプの受け手は気に入らない」といった仮想敵像も明確なので、正確には「周りからこうは思われたくない」との意味合いで対外的と表しました。一見すると1.2.1で否定した他者の影に怯えた書き方に映るかもしれませんが、対作品の話ではなく対人同士での文脈となるため、混同しないでいただけると助かります。お察しの通り、ここからが1.で注意喚起しておいた「特定のファン層を痛烈に批判する表現」が含まれるセクションになるので、不快耐性度を充分に上げてからご覧ください。とはいえ、本記事の内容をここまで頷きながら読み進められた方は、以下で槍玉に挙げたタイプの人間であろうはずがないと信頼しているため、過度に構えずとも大丈夫だとフォローもしておきます。あなたの中に問題意識があるなら、本項で展開する批判は全くあたりません。

 さて、特定の受け手を牽制する類の文章はこれまでにも記述しており、1.1.3の「E(注:サブスクのこと)のみでこの世のあらゆるエンタメやサブカルを手中に収めたかのような全能感に浸り」や、1.2.1の「人から聞き及んで良作と評判の作品や既に人気を博している作品だけをいくら鑑賞し続けていても、審美眼は鍛えられないし価値観の涵養にもならない」などは、これから展開するクリティカルな目線から出た言葉たちです。その枢機の説明には音楽版記事内の文章を取っ掛かりにするのが端的なので引用しますと、「実際はごく一部の要素aを好んでいるだけなのにも拘らず、集合Aの全てを把握したような気になってい」る姿勢こそが、僕が嫌う受け手の最たる特徴と言えます。わかりやすく書き直せば、実際はごく一部の作品(それもかなり有名なものに限られる)にしか馴染んできていないのに、そのカルチャーの本質を見た気になって趣味を謳歌出来ていると信じて疑わない、視野の狭さに自覚がない層に違和感を覚えるのです。

 これはともすると初心者・ニワカ・ミーハー・若年層批判に思えたかもしれませんが、この手の言葉で誰かが形容される場面では他称であれ自称であれ「未熟であること」が前提となっているので、その場合は上記の批判の対象にはなりません。ビギナーズは別に「本質を見た気になって」はいないでしょうし「視野の狭さ」にも自覚はあるでしょうから、更にそのカルチャーを深く知りたいといった欲求が旺盛な好ましい状況の中に居ると考えています。要するにファン歴の問題ではなく、仮に10年20年と年季が入った受け手であっても、依然として先述したスタンスで居るならば批判の対象となるのです。肝心なのは「自覚」の有無で、自分が「未熟かもしれない」との想像力をきちんと働かせられるならば、全く健全な受け手であると認識します。何事に於いてもそうですが、物事を深く知れば知るほどいかに自分が未熟かが浮き彫りとなるもので、安易に真理や本質の境地に辿り着いたと錯覚してしまうのは、自称中上級者が陥りやすい典型的な罠です。


1.2.3.1 視野の狭さに自覚がない層の特徴

 「特定の受け手」の特徴をアニメ鑑賞の文脈下で詳しく解剖していきましょう。といっても、別に新たな観点を立ち上げる必要はなくて、「1.2.1~1.2.2で僕が是とした姿勢とは真逆の選定方法に基いて視聴作品を決めている人達」とだけ説明すれば一文で済みます。1.2.1では「他者の評判をあてにするな」、1.2.2では「(現実で様々な経験をしたうえで)多種多様な作品にふれろ」と説いたので、これらに反する存在とは「他者の評判を聞き及んでからでないと観る作品を決められない人」、もしくは「どれだけ観る作品を厳選するかに価値を見出している人」です。時間的・地域的・経済的な理由から視聴する作品を限定せざるを得ない場合があるのは重々理解しているつもりながら、それらの儘ならない事情を押してでも気を付けていただきたい視点は、「評判と厳選を鑑賞の是非に持ち込むことの危険性」の中にあります。なぜなら、これはコスパを意識したシステマティックな選定スタイルである反面、視野狭窄の果てに選民意識を肥大させることにも繋がりかねない諸刃の剣だからです。

 1.2.1~1.2.2で述べた理念で肝要なのは、自分自身の物差しで鑑賞にあたれということなので、これをなるべく歪みのない状態に保っていたいのであれば、評判と厳選は大きな障壁だと感じます。どう評価されているか(或いはこれからされるか)わからない作品の価値は自らが決めるものとの意識があれば、作品へ下した最終的な評価が芳しくなかろうと、最後まで鑑賞した意義を否定することにはなりません。このことを1.2.1では、「その過程は財産である」と表現しました。例えば、改善点の考察をしながら「自分ならこうするのに」といったクリエイター目線に立って視聴をすれば、どんな駄作でも有益な反面教材へと早変わりしますし、自分の時間や金銭を消費してまで観続けたことを考慮すれば、思わぬところから作品への愛着が湧いてくることもあるでしょう。言葉は悪いですが、クソアニメ愛好家的な楽しみ方も出来てこそ、真に審美眼を鍛えることになると主張します。駄作や凡作を知っていればこそ良作や佳作の魅力も一段と際立つもので、この過程を飛ばした結果だけの良作判定を誰ぞから受けた作品だけを鑑賞し続けていると、気付かぬうちに自身の「物差し」が大きく変形して、悪い意味で「型」になってしまう虞を拭えないのです。


1.2.3.2 「型」となってしまった価値観の恐ろしさ

 「型」という言葉は文脈によってはポジティブな意味になるけれども、ここでは「典型」や「量産型」を「簡単に説明がつく無個性なもの」として批判的に用いるケースと同様にネガティブに扱います。僕の悪趣味な面を開示することになりますが、自分と同じものを好いていながら相容れない価値観で生きている人達の存在は、観察対象としては非常に興味深いです。とりわけSNS文化の隆盛以降は一億総メディア時代とも言われるほどに、日々あらゆるところで叫ばれている自己主張を目に出来ます(本記事もそのひとつです)。僕が1.2.3からディスり続けている「特定のファン層」と目される人々も例外ではなく、というか寧ろ声高にSNSを利用している傾向にあるとの認識なので、能動的に調べなくても「彼らがどういった志向を持っているのか」が、おぼろげながらにも見えてきているのが実情です。そこで本目には、僕が独断と偏見に塗れて導き出した「彼ら」の生態に関する研究結果を文章で発表します。

 先述したように彼らはSNS上での発信が多く、暇さえあれば二次元趣味に関する投稿をしており、活動は非常に活発です。違法アップロードなど何のそので、アイコンやらヘッダーやらブログ背景やらに自身に著作権のない画像を無断であしらい、法的に更にリスキーとなる動画の切り抜きの投稿も厭わないといった、権利意識への希薄さが窺えます。その遵法精神のなさにはひとまず目を瞑るとして、それだけ視覚的に「二次元好き」を大々的にアピールしていながら投稿内容に目を向けてみると、やれ「キャラクターの見た目が可愛い」だの「声優さんのラジオが面白い」だの「グッズを全種類揃えた」だの「イベントに連日参戦した」だの、面白いほど作品の中身に対する言及に乏しいのです。キャラの造形美も確かに二次元作品の魅力には違いありませんが、性格や内面まで意識したキャラメイク論は話題に上りにくいようですし、声優への評価は元来であれば声の演技を第一義に据えるべきなのに、それよりも外見の良さであったりトークのセンスだったりの副次的なものが重視されていると見受けられます。グッズ購入やイベント参加への言及もそれ自体は構わないのですが、作品内容が好きでその消費行動に至ったとは思えないような感想(円盤さえ購入の動機がイベチケやシリアルコードにある哀しさ)が優勢です。また、1.2.2では僕の創作物に対する基本姿勢として「多種多様な物語世界および表現技法に馴染んでおきたい」との動機を述べましたが、彼らはこの点についてあまり多くを語りません。監督・撮影・世界観・設定・シリーズ構成・脚本・キャラクターデザイン(外見)・キャラクターメイキング(内面)・作画・動画・CG・背景美術・プロップデザイン・色彩設計・演出・カメラワーク・声の演技・音楽・音効…等々、アニメに関して語れるポイントは実に様々あるけれども、彼らはキャラを形作る外面的な美のみに主眼を置いているのか、【キャラデザ、作画・動画・CG、(可愛さや声質などの表面的な)声の演技】を三本柱として、他は二の次の節があります。

 どのようなタイプのアニメファンであっても、多少は上述したような特性を持ち合わせているものだと思うので、作品の中身に深く言及する表明以外は許さないと自治厨を気取るつもりはありませんし、個々人の素直な「好き」の形を否定する意図もありません。上で「やれ~だの」の形で批判の対象とした意見も、他に表明している多くの感想の一部に過ぎないのであれば得心がいきます。加えて、業界への金銭的な貢献といった観点では、消費行動が頻繁な彼らに正義があるのも揺るぎない事実です。しかし、僕はどうしても彼らの「打っても響かなさそう」なところにモヤモヤしてしまい、「実はアニメが好きなわけではないのでは?」との疑問が過ることがあります。彼らにとってのアニメとは単なるコミュニケーションツールでしかないのではないかと、もっと厳しく言えば、現実の何かから逃げた先のコミュニティに於ける共通言語がたまたまアニメだっただけではないかと、理由の考察として浮かぶのはこのような空虚なものばかりです。この代償行動がただのきっかけに過ぎないならば、趣味への入り方としては王道ゆえにとやかくは言いません。しかし、延々と代償のステージに止まっているのは明らかに不健全です。正確には「止まれていること」が問題で、彼らがこの状態のまま事もなしと振舞えているのは、仲間内で話せるだけの語彙や文脈を獲得すれば目的達成だからで、1.2.2で述べたような多種多様な作品を鑑賞する意義なぞは、宛ら日常会話に不必要な専門用語との位置付けになってしまうのでしょう。この構図の歪さはどの界隈でも当て嵌まるものの、特に二次元趣味はダシにされやすいので特筆性ありと判断しました。

 言語の喩えを継続させていることによる回りくどさは扨措き、似たような仲間だけが属すコミュニティ内に響き渡るエコーによって価値観が「型」になってしまった彼らは、視聴している作品も笑えるくらいに似たり寄ったりになります。いずれも超が付くほどの人気作品で、具体名を出すことは諸々を考慮して自重しますが、「女性キャラが同人誌でしょっちゅうひん剥かれている作品」と形容すれば、僕がここに列挙するのを堪えた作品群の8割はカバー出来るでしょう。作品そのものに罪はなく、中には僕も好んでいるものがあるくらいですが、人気があることが人気の理由となっているような作品は、とりわけ彼らの興味を引き易くなります。語れる人数の多さ然り、大手の資本的な後押しによる持続可能性然りで、費用対効果が抜群だからです。だけあって、彼らは常に最も盛り上がっている界隈に身を置いていると言えますが、その僅か数~数十作品を天井と定めて悦に入っているのであれば、その姿勢は1.2.3に述べた「実際はごく一部の要素aを好んでいるだけなのにも拘らず、集合Aの全てを把握したような気になっている」になります。前半までなら当人が勝手に損をしているだけなので無害なれど、後半の勘違いは外部(エコーチェンバー外)に発信されると失笑ものです。



1.2.4 本節のまとめ

 フォーカスした観点があまりにも多岐に亘るため、総括的なものではなく発展的なサジェストとしてまとめます。僕が本節で真に伝えたかったのは特定の受け手への批判ではなく、せっかくアニメという「ひとつの世界を大人数で創造する複合的な自己表現の芸術」にふれているのなら、表現媒体自体へのキャパシティが増えるような向き合い方をしたほうが、色眼鏡で鑑賞する作品を絞っていくよりもよっぽど楽しいよという、快適なアニメ鑑賞ライフのススメなのでした。相対評価が上位の作品しか語れない人よりも、中下位の作品まで含めて;出来ればその良さについて語れる人のほうが何倍も魅力的だと思うので、そのためにはなるべく多種多様な作品にふれることが不可欠だと言えます。

 興味関心の拡充や守備範囲の拡大を目的とするのであれば、1.1.1に示したような鑑賞形態による差は特にないと考えるため、個人的なこだわりとは相容れませんが、レンタルやサブスクを利用してこれに努めている人のことは大いに尊重します。とはいえ、アニメ鑑賞に限らずネットを介したサービスを利用することには、長所兼短所として「自分の興味のある分野ばかりが優勢になる面」(cf. フィルターバブル)があるので、雑多な情報に見境なく暴露されることで起こる成長性に関しては、未だにTV放送に分があるとの認識です。勿論、本人の使い方や意識次第ではネット利用にも同様のメリットを見出せますが、TV放送に対して起こる「興味がなくても取り敢えず観てみるか」といった気軽な気持ちは、旧態依然なものとして捨てるには惜しい価値観だと主張します。例えば、固有の名称がある枠内で放送される作品をクールを跨いで観てみたり、複数の作品が連続でオンエアされる時間帯を丸々鑑賞にあててみたりの、言わば「作品名ありきではない視聴体験」は、アニメに対する知的好奇心が旺盛な方にとって有益であるはずです。


1.3 おわりに

 以上が、僕のアニメ鑑賞に対するスタンスの全貌となります。1.で予告しておいた通り、本コラムに述べた事柄は実質的に「僕が物事とどう向き合うべきと考えているか」を明らかにする哲学です。それだけ非常に個人的なものであるため、今更ですがあまり本記事の内容に絶対的なリアクションを抱かないほうがいいと警告しておきます。現物志向でない鑑賞方法をあてにするのは邪道であるとか、他者からの評判や視聴作品の厳選作業が全くの無価値であるとか、多くの作品を観ていなければアニメ好きとは呼べないだとか、そこまで極端に捉えないでいただければ幸いです。

 ここまで複雑に考えるのはナンセンスだと一笑に付して、アニメのエンタメ性だけに浸れている自分を誇らしく思っている人は、その価値観を大切になさってください。本コラムは何かしらの違和感を抱えている人に向けて書いたもので、そうでないとここまでの長文を読み進めることも不可能でしょうから、必要としている人にだけ届いていれば充分です。




 0.で予告しておいた通りの文字数制限の壁によって、本コラムの第2章以降に関しては「その2」の記事へ引き継ぎます。アニメ視聴履歴の掲載を中心として、「その1」よりは気軽に読める内容となっているので、暇つぶしにおすすめです。