CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その4 | A Flood of Music

CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その4

記事作成日:2019.10.19 ※ 投稿日時を過去の年月日に変更しています。


 本記事は、「CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その3」という記事の一部(コラム④)を独立させたものです。同エントリーを令和の大改訂の一環でリビジョンした際に限界文字数の制限に引っ掛かってしまったため、改訂前には存在していなかった「その4」を作成する必要に迫られました。

 具体的には、スピッツのシングルコレクション『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』(2017)のDisc 3「2006-2017」の14曲目に収められている「歌ウサギ」の歌詞解釈パートに付随した内容なので、「その3」に於ける当該箇所の引用から始めます。従って、一部記述が重複することになりますが、新出部分は「コラム④」からであるとご理解ください(スキップ用リンク)。




14. 歌ウサギ

 本作が初出の新曲・第二弾。TNにはメロディ構成上のチャレンジングなポイントに関する記述があり、僕も本曲を初めて聴いた際には、今までのスピッツにはなかった楽想に驚かされました。「その1」と「その2」の記事でも案内済みである通り、当ブログに於けるメロディ区分のルールはこの記事に詳しいです。リンク先には本曲を例とした項目があるので、2019年の改訂時に相互言及の形になったと補足したうえで、僕が本曲の構成をどう認識しているかに関しては、「3.2.5.2 Cメロにならない特殊なケース」を参照してください。

 従って、いきなり自己流の表現を交えながらの解説となって恐縮ですが、僕の区分では「サビ後半」に相当するセクション;TNでは「大サビ(ミドルエイト)」とされている箇所の複数回登場は、従来のスピッツであれば選択しなかったメロディの組み立て方であると主張します。というのも、スピッツの楽曲に於いて「Cメロらしい振舞いをするセクション」は、その曲の中でピークを演出する役割を担っているものが多く、一瞬だけの大熱量の儚さに美学を見出していたため、それが二度登場するのは意外中の意外でした。本作の収録曲で言えば、たとえば2-13.や3-01.で2番サビの直後に来る最高潮のパートが、ラスサビの後にも再度出てきたとしたらどう感じるでしょうか。おそらくは冗長と思うはずです。ゆえに実際にはそのような楽想になっていないわけですが、本曲では2番サビ後とラスサビ後に二度のピークが設定されており、攻めた楽想だと言わざるを得なくなっています。

 しかし、現実には僕は本曲に対して冗長といった感想は抱いていません。この理由を考えてみるに、Aメロの平坦さとサビの地味さ;正確には【Aメロ → サビ】への移行がさり気無さすぎるところに秘密があると睨んでいます。初聴時の印象を明らかにしますと、一度目の"今歌うのさ"~のスタンザを丸々聴き終わった後は、「もしかして今のがサビだったのか?」と、あまりにもいぶし銀なメロディラインに正直戸惑いました。てっきり"今歌うのさ"が極短いBメロで、ワンクッション置いてから盛り上がるサビメロが来るものと予想していたため、二度目の"今歌うのさ"~のスタンザを経て、その全体がサビだと理解出来た際には、「やっぱりここがサビなのか…」と不思議に思った次第です。とはいえ、前述したように新たなピークとなるラインがその後に二度控えているとわかった上で聴くのであれば、本曲の狙いも理解の範疇に収まります。なぜなら、当該のセクションを僕は「サビ後半」と、TNでの竹内さんは「大サビ」と無意識的に表していますが、【[Aメロ → Bメロ]×2 → サビ → Bメロ → ラスサビ → Aメロ】という区分にスライドさせれば、J-POPで一般的な曲構成に落ち着くので、取り立てるほどのことでもなくなるからです。


 ここから歌詞解釈パートとなります。…が、その内容が本曲のレビューとしては脱線を極めたものになったため、詳細は以下に載せたコラムに委ねることをご了承ください。取っ掛かりとした一節は、"「何かを探して何処かへ行こう」とか/そんなどうでもいい歌ではなく"です。他の曲で言えば、たとえば「グリーン」(2016)の歌詞、"コピペで作られた 流行りの愛の歌"も同系統の表現であると分類して、直球のヒットチャート批判が展開されていることの意味を考えていきます。

 この情報だけでも何となく察せるでしょうが、以降のコラム④は非常にクリティカルな内容です。Ⅰ. 拙い表現者、Ⅱ. 腐敗したエンタメメディア、Ⅲ. 愚鈍な受け手の三者三様を容赦なく斬っていきます。Ⅰ.はつまりアーティストサイドへの文句で、槍玉に挙げるのは作詞者です。Ⅱ.はそのままマスメディアに対する文句で、お茶の間に流す音楽を決定出来る強権力が批判対象です。Ⅲ.は即ちリスナーサイドへの文句で、凝り固まった音楽の聴き方しか出来ない人への皮肉です。このようにヘイトチャージのリスクが満載となっていますが、あまり気負わずにご覧いただければと思っています。

 というのも、スピッツを含めて僕が当ブログに紹介しているアーティストについては、基本的にⅠ.にカテゴライズされるような面々ではないとの認識ゆえ、Ⅰ.に記す批判があたることは殆どありません。そもそも、批判の文脈下では具体的なアーティスト名や作品名を挙げていないため、名指しのディスは皆無です。また、ここまでの長文を読み進められる方は、音楽的な知的好奇心が相当に旺盛であるとお見受け出来るので、Ⅲ.に規定されるようなリスナーであろうはずがないと信頼しています。従って、「俺の好きなアーティストが馬鹿にされている!」だとか、「これってもしかして私のような人間のことを言っている?」だとか、そういった読後感は今この文章を読んでいるあなたには無縁であろうと、先んじてフォローする次第です。それでも頭に過ってしまって、不快な思いをさせたならごめんなさい。


コラム④:表現の場に巣食う三大害悪

Ⅰ. 表現したいことがあるのか疑わしい自称表現者

 Ⅰ.の主旨は基本的に、「表現者または創作者側への批判」です。音楽についてのみ言えば、それは作詞家・作曲家・編曲家・演奏家・エンジニア etc.、様々な立場の人間が発した表現が絡み合う創作物なので、本来は複合的な捉え方をしなければなりません。しかし、本コラムは3-14.の歌詞解釈パートに継いで執筆したものであるため、前置き部にも記したようにここで槍玉に挙げるのは「作詞者」です。この点を念頭に置いて、以下読み進めてください。

 当ブログでは普段から、嫌いな音楽を態々扱き下ろすようなことはしていません。ゆえにこうした意見を開陳するのは僕としては非常に稀ですが、TVや雑誌などの旧来からあるメディアで広く紹介されているようなアーティストの音楽;とりわけその歌詞内容に関しては、年々違和感が大きくなってきています。ここで言う「歌詞内容」とは、描写されているテーマやモチーフを指すのではなく、歌詞を文学作品と見做した場合に於ける「表現力」にフォーカスしていて、使用語彙の幅であったりレトリックの多彩さであったりの、即ち「文章力」に関係するものです。複雑であればあるほど良いなどと短絡的な主張がしたいわけではないものの、近年のヒットチャートを賑わせている楽曲の歌詞群をひとつのデータセットとして、文章表現の平均的なレベルを明らかにしようと試みてみると、あまりに陳腐なものに溢れ過ぎている現実に閉口します。


 いきなり視点を変えることになってすみませんが、この文脈上での「陳腐」を定義付けるために、Ⅲ.を一部先取りして「受け手側への批判」を展開させてください。先述した通り、上記の「陳腐」はあくまでも「表現力・文章力」に対しての形容なので、何を表現しようとしているのかといった、テーマやモチーフそのもへの拒否反応から出たものではありません。たとえば「恋愛を扱っているから陳腐」だとか、「綺麗事しか歌われていないから陳腐」だとか、少し前向きなものが出てきただけ上手く扱えなくなってしまうような、狭量な受け取り方はしていないということです。

 これは「普遍」を歪んだ認知で捉えているだけで、このような独り善がりの評価を恥ずかしげもなく発信するよりも前に、努めるべきはもっと社会の成り立ちや他人の生い立ちを知ること;つまりは人間世界に遍くある特性を理解することだと吐き棄てます。なぜなら、音楽に限らず人間の手に成る創作物への理解度は、どれだけ人間の普遍性を理解しているかに比例し、この下地がないと本当に陳腐かどうかの判断も、反対に独創的か否かの認定も、本来は不可能であるはずだからです。それなのに安易に「特有」を主張する人もいますが、それは単なる知識不足か想像力の欠如、またはイデオロギーから来る別種の問題ゆえ、これ以上の詳細な言及は省略とします。ともかく、この「陳腐 vs 普遍」の対立は以降でキーとなる概念なので、頭に留めておいてください。


 視点を元に戻して、表現者側への批判を続けましょう。上で「人間の普遍性」なる言葉を用いたことが一種の証拠かもしれませんが、そのようなものが存在すると信じられる程度には、人類には今日までの長い歴史があります。その間に生み出された創作物の数も果てしなく、歌詞という一点にのみ絞ってみても、普遍的なものほど既に手垢に塗れまくっているであろうことは、想像に難くないはずです。理論上と大仰に言うまでもなく、後年の作詞者ほど独自性を生み出すのが難しくなるのも、至極当然でしょう。しかし、だからこそ問われるのは、作詞者の持つ「表現力・文章力」なのです。その多寡や程度が、そのまま作品の出来不出来に繋がるわけですからね。

 ただ、この点は突き詰めていくと、作詞の質は個々人の才能ないし努力によるものとしか言えなくなり、特に近年のものだけを批判する根拠は弱くなります。ゆえに、先達ては「文章表現の平均的なレベル」と対象を広く取り、敢えて曖昧性を残しました。つまり前出した「陳腐なものに溢れ過ぎている現実」とは、ここで言う平均的なレベルの低下が、近年は頓に著しく感じられるといった話になります。とはいえ、元来は文字通り個性的な産物ではるはずの歌詞は、そもそも平均を取れるようなものではありません。従って、「平均的なレベルの低下」との表現自体にもおかしさは残りますし、そのレベルというのも僕の主観に過ぎないことは断っておきます。一応は「表現力・文章力」として、使用語彙や修辞技法の妙による複雑性に限定し、陳腐かどうかを判断するある程度の根拠にはしていますが、歌詞群をコーパスとするような言語学的なアプローチで、実際に調査や研究を行ったわけではないため、科学的な根拠に基く客観性は残念ながらゼロです。

 それでは何をもってして、平均が陳腐化していると嘆くのかと問われれば、印象として「他と区別がつかない似たような歌詞が増えているから」だと答えます。類似性の換言は如何様にも出来、「作詞者の顔が見えない歌詞」「いくらでも代用の利く没個性な歌詞」「機械学習で書かせたみたいな歌詞」「定型文だけを利用したような歌詞」等々、その陳腐さを表す術は皮肉にも豊富です。要するに、何か平均的なものが存在するのではないかと思えてしまう時点で、プロが戦う表現のフィールドに於いては異常だと考えています。平均値μも標準偏差σも異様に小さくなっているというか、それは気のせいであくまでデータは正規分布に従っていると仮定しても、μ+2σ~3σではなくなぜかμ±σが持て囃されているような、そんな違和感を覚えるのです。


 具体的に曲名やその歌詞を引用する例示では角が立つので、3-14.で"どうでもいい歌"とされている"「何かを探して何処かへ行こう」"とのフレーズを、実際に存在する「ある曲Aの歌詞」と見做して話を進めます。このケースで作詞者にまず問いたいのは、「あなたが書いた歌詞は本当に自分が独自に表現したものだと言えるか?」ということです。僕は別の曲Bでも或いはCでももしくはDでも将又Eでも、分野を違えて書籍Fでも映画GでもドラマHでも演劇Iでもお笑いJでも、創作物ですらないネット上の書き込みKでも日常の会話Lでも、殆ど変わりのない表現に見覚えや聞き覚えがあるのだけれども、リスナーの立場ですら容易に意識がいくようなことを、プロたるあなたが気付いていないのはどういう了見かと、オリジナリティに対するクエスチョンを投げ掛けます。草野さんが3-14.の当該部で展開しているのも、音楽を生業とするプロとしての立場と音楽を愛するリスナーとしての両面の矜持から来る、「あなたは本当にプロなのか?」との皮肉ではないでしょうか。

 勿論前出のA~Lはどれだけ表現がありふれているかの喩えであるため、実際の例としてA~Lに共通するフレーズを引用してみろと迫られたら厳しいものがあります。しかし、たとえばパーマ大佐の「J-POPの歌詞あるあるの歌」(2018)が好例であるように、この手の歌詞の陳腐化は最早お笑い種になっており、アイロニーが成立してしまうほどには、似たような表現に溢れ返っている現状に辟易している人が多いのは事実でしょう。Googleの検索サジェスト(2019.10.16時点)でも、「J-POP 歌詞」に続くトップスリーは「特徴」「ひどい」「あるある」で、純粋なディスである「ひどい」以外の二つも、おそらくは批判の意図で検索されたものだと推測します。




 同じテーマやモチーフを扱っていても、書き方次第で普遍にも陳腐にもなるということは、ここまでに記してきた通りです。普遍的なものだけを正義と言うつもりはありませんが、「共感」が歌詞内容を評価する際の大きな指標になっているとするならば、同じ「ありふれている」でも陳腐よりは普遍と受け取ってもらえたほうが、素直な感動に繋がりますよね。この分水嶺をきちんと見定めて言葉を巧みに繰ることこそが、まさしく作詞者冥利だと言っても過言ではないと認識しています。しかし、今はこの意識に乏しい作詞者が特に多くなっている印象で、そう考えでもしないと今直面している惨状の説明はつけられないと思うのです。

 またも"「何かを探して何処かへ行こう」"を例に取りますと、このフレーズを思い付いた時にまともな作詞者であれば、「この言い回しは他の楽曲や媒体でも見たことがあるな…」とブレーキがかかり、「ならば自分は違う表現をしよう!」と独自性への希求が芽生えると見ています。一方で、批判の対象となるような作詞者に関しては、ブレーキの部分がまさかのアクセルに挿げ替えられていて、「他の曲や媒体でも見たことがある言い回しだから共感を得られるな!」となり、更に「ならば自分の表現にも取り入れてみよう!」と畳み掛けられ、まるでそれが作詞のノウハウであるかの如き受け取り方をしているのではないかと、空恐ろしい想定が頭を過ってしまいます。無意識の剽窃とでも言いましょうか、そこに悪意は全くなさそうなだけに余計に質が悪く、「定番」「王道」「ありのまま」「等身大」などの耳触りの良い言葉に収束される類の自己流の表現であると、本心からそう思っていそうな怖さすら覚えるほどです。従って、先に「まず問いたい」とした「あなたが書いた歌詞は本当に自分が独自に表現したものだと言えるか?」には、おそらく「言えます」で返してくるのでしょう。


 指摘されるまでもなく、上記は惨状に対する理由の推測に過ぎず、有り体に言えば妄想です。それでも、似た内容の歌詞ばかりが増えている原因のひとつとして、こうした言わば「創作の希釈」は確実にあると分析します。表現者としてプロになった以上は、その人にも好きなもしくは影響を受けた先達や作品が存在するのが当然で、それ自体はとても健全なことです。ただ、先行組の「模倣」に終始している…だけならばまだマシだと思えてしまうくらいに、普遍と陳腐を混同した「質の低い模倣」でアウトプットする後発組が愈々幅を利かせてきて、現在の惨憺たる状況を作り出しているとも同時に考えています。

 作詞というか音楽に限らず、他の分野でもこの観点で説明を付けたい陳腐化は近年に顕著ではありますが、横道ゆえこれ以上の言及しません。また、こうなってしまった環境要因のひとつには「SNS文化の隆盛」があると見ており、このことは時期的な合致によって「近年」のみを批判対象とする理由になるのですが、この点を語り出すと僕の旧態依然とした姿勢を長々と述べなくてはならなくなるため、こちらも申し訳ありませんが省略とします。これらカット扱いとした他分野およびSNS文化からのアプローチでも、拙い表現者がなぜ「質の低い模倣」即ち「陳腐なアウトプット」に陥るかの説明は可能であるものの、どちらも回りくどいので本記事にはもっとシンプルな理由付けを用意しました。それはずばり「表現者に表現したいことがないから」といった絶望的なもので、Ⅰ.の小見出し「表現したいことがあるのか疑わしい自称表現者」に繋がるのもこの観点です。


 ここで先に「受け手側への批判」と前置きした文章に戻ってほしいのですが、そこに記した「音楽に限らず~本来は不可能」までが、実は拙い表現者が生まれてしまうメカニズムを解説したものなのでした。自分の書いた歌詞がどれだけありふれているかに意識がいかないということは、要するに「何が陳腐で何が普遍なのかを区別出来ていない」のと同義で、文章中から引用する形で提示すれば「この下地がない」状態のことを指しています。この下地の形成には、如何に多量のインプットに晒されてきたかが肝要で、これも引用するなら「努めるべきはもっと社会の成り立ちや他人の生い立ちを知ること;つまりは人間世界に遍くある特性を理解すること」がインプットへの、「人間の手に成る創作物への理解度は、どれだけ人間の普遍性を理解しているかに比例し」が多量への換言です。様々な音楽や創作物にふれていることも含めて、この文脈でのインプットは「人生経験」と置き換えても構いません。

 セルフ引用の連続で恐縮ですが、先に「表現者としてプロになった以上は、その人にも好きなもしくは影響を受けた先達や作品が存在するのが当然」と書いたように、いくら拙い表現者といえどルーツや憧れは持っているものだと信じています。ただ、この程度や認識が恐ろしく曖昧なままプロとなり(特にモラトリアムに不寛容な日本では、人生経験とプロへの切符がトレードオフになっていることが多い)、その時点からまるで向上せずに既存のものと変わり映えしない作品ばかりを量産している表現者には、残酷でも「そもそもあなたに表現したいことなどないのでは?」と問い質したいです。具体的に名前は出さないものの、僕の中で陳腐認定を下しているアーティストが特に理由のない活動休止(病気や家庭の事情などによるものではなく、且つ「やりきった!」と言える解散でもないケースという意味)に入る度に、「ようやく表現したいことがないことに気が付いたか」と、心の中でほくそ笑んでいました。某バンド、某グループ、某ソロと…枚挙に遑がありません。

 創作が絡むものであれば何事に於いてもそうですが、自己の中に真に表現したいと思えるものが存在しない限りは、どれだけ多く作品を発表し続けていたとしても、創作の真似事の域を出ないと理解しています。ただし、これが素人であれば創作意欲が尽きた時点で創作も止まるので、作品の出来不出来はともかく、表に出したものは全てその人なりの表現物と扱っていいでしょう。一方で、プロの場合は各種の締切という時間的な制約と、意欲がなくとも作品を仕上げられる技術が憖っかあるだけに、表現物未満の何かでも表に出てきてしまう構造になっています。この状況に自覚があって、陳腐化に苦しむ意識があるならまだしも、手数を増やして一応の成果物を量産し続けることだけが正義と捉えている表現者が、陳腐化に気付かないまま不出来なアウトプットを繰り返しているとの認識です。その一例が"「何かを探して何処かへ行こう」"で、これに対して"どうでもいい歌"だと思えない作詞者は、プロ失格だと言わざるを得ませんよね。


Ⅱ. 受け手の感性を矮小化するマスメディア

 Ⅱ.の主旨は小見出しの通り、「マスメディア批判」です。この文脈下での「マスメディア」とは、前置き部にも記したように「お茶の間に流す音楽を決定出来る強権力」のことで、Ⅰ.の中から抜き出せば「TVや雑誌などの旧来からあるメディアで広く紹介されているようなアーティストの音楽」や、「近年のヒットチャートを賑わせている楽曲」などの一節が関係してきます。Ⅰ.で腐してしまった人達も、実はⅡ.の被害者なのではといった論旨なので、見方を変えればⅠ.への擁護となるセクションです。

 Ⅰ.では拙い表現者を痛烈に批判し、表現への意識の低さを招く諸要因のひとつとして、「インプット不足」をサジェストしました。これはつまり、表現者が受け手だった頃にフォーカスしており、この時に充分な「下地」が形成されなかったがゆえに、表現の質に致命的な欠陥が生じているのではないかという疑いです。インプットについては先に「人生経験」に置換してもよいと述べているので、この問題も突き詰めれば個々人によるとしか言えなくなります。とはいえ、ミュージシャンにとって最も密接なインプットは当たり前ながら他人の音楽であるため、素人の時代に延いては表現のプロになってからでも、「どういう音楽に接してきたのか」は非常に重要なファクターです。ここまで説明すれば、「お茶の間に流す音楽を決定出来る強権力」と書いた意味を何となく察せるでしょう。


 マスメディアが発信する音楽は全て不可だと極論を言うつもりは毛頭なく、様々な制約の中で良いと思えるものの紹介に努めようとする熱意を持った方々がいるのも知ってはいます。しかし、拙い表現者と独自性のある表現者を分けるポイントのひとつには、「どれだけマスメディアの提示が全てではないと気付けているか」の見地があると、即ち「メインストリーム以外の表現にどれだけ馴染んできたか」の観点があると主張したいです。多種多様なインプットが表現に於ける強固な土台を形成することは言わずもがなで、メインとサブ(フリンジ)の両ストリームに慣れ親しんでいるこそが、大切な立脚地だと考えています。

 なぜなら、このバランスが取れていないと、Ⅰ.で述べた「本当に陳腐かどうかの判断も、反対に独創的か否かの認定も、本来は不可能である」に抵触するからです。「メインとサブ」または「普遍と陳腐」の差異がはっきりとわかるほどの審美眼を養うためには、なるべく多量のインプットに晒されている必要があり、況してや自身が表現者の側に回って広く評価されたいのであれば、これは必修科目であると断言します。Ⅰ.で批判の対象としたのは、言わばこの科目の落第者です。端から特定の層にのみ響かせることが目的ならば、敢えてどちらかに偏向するのもアリかもしれませんが、その手のビジネスライクな考えから来る表現は、得てして普遍性を欠いた陳腐なものになります。


 上述したものを前提として、ここからの記述がⅡ.の肝です。ここまでの主張を織り込んで端的にリサーチクエスチョンを提示するならば、「なぜマスメディアで広く紹介されているようなアーティストの音楽(とその歌詞)には年々陳腐さを感じるのか」で、これについて自分なりの考察を以下に載せます。キーとなるイメージは、ストリームを水の流れに擬えて、「水先案内人の喪失」です。

 唐突ですが、本記事の内容はおそらく若年層ほどピンとこないものになっていると推測します。年齢的にインプットの絶対量が少ないことに由来する面も勿論あるけれども、マスメディアの影響力が衰えている;特にそれが顕著な現代の音楽業界に於いては、今の若い音楽好きの人達がメインやサブの差異を論じること自体、そもそもあまりないのではないでしょうか。音楽から一旦離れまして、たとえば「サブカルチャー」なる言葉についても、これに属すとされているような文化に生まれた時から当たり前に馴染んでいる世代にとっては、「何がサブなんだ?」という疑問を抱いたとしても何らおかしくはありません。また、音楽に戻して似た例示をしますと、ロックのジャンルとして存在する「プログレ(ッシブ)」や「オルタナ(ティブ)」に関しても、リアルタイムでジャンルの変遷を追っていた人でない限り、このような言葉('progressive';革新的な、'alternative';代わりとなる)で形容されることの意味を、実感を伴っては理解出来ないでしょう。


 例えで余計にわかりにくくなったかもしれませんが、ここで押さえておいてほしいのは、「音楽を含む文化は今やあまりにも多様化していて、メインストリームの存在が曖昧になっている」ということです。そして、ここからの言及が近年のマスメディアの罪深い点となります。上に「マスメディアの影響力が衰えている;特にそれが顕著な現代の音楽業界」と書いたのは、偏に彼らが「嘗てのメインストリーム」に依然縋っているように映るからです。ここまで散々と近年に蔓延っている拙い表現者を批判してきたので誤解されていそうですが、僕は近年の音楽にも高い評価を下しており、面白い楽想や凝ったサウンドの楽曲の数で比較すれば、寧ろ近年のものに軍配をあげたいとすら思っています。でなければ、年単位の休止期間を挟んでいるとはいえ、音楽レビューブログを今日まで9年も続けていません。Ⅰ.で数学的な表現として出した平均値μと標準偏差σを再び持ち出せば、μ+2σ~3σに入るデータは年々増えているとの認識です。

 それなのに、「嘗てのメインストリーム」の信奉者たるマスメディアは、未だにμ±σに収まるデータこそが最も多くの人に響くものだとの経験則を捨てられず、態々陳腐なものばかりを推し進めている気がします。確かに一昔前(SNS文化の隆盛が起きる前)まであれば、今日ほどの文化や価値観の多様化は起きていなかったので、その戦略が刺さる受け手も多かったのでしょう。しかし、僕はそもそも近年はμもσも異様に小さくなっていると感じているため、その程度も低く範囲も狭い区間に、果たしてどれだけの人が共感を覚えるのだろうと疑問です。加えて、上の文脈での「文化と価値観の多様化」も曲者でして、それらを等しく認めようというのであればポジティブな意味合いになりますが、現実的には各人が信じたいものを信じるだけの仲間内でエコーチェンバー現象が起こり、それぞれの先鋭化が加速度的に進んでいるだけといった印象なので、それこそマスメディアが文字通りマッシブリーに受け手を揺さぶること自体が難しくなった時代だと感じます。


 この状況にもメリットはありますし、これはSNS文化の隆盛で明らかになった本来の姿(昔から本質はこうだった)と言えなくもないため、そのこと自体の是非は議論しません。しかし、後に表現者となる受け手にとっては、現状のマスメディアが及ぼす影響は、その後の表現者人生に弊害となり得るとの認識です。影響は相反する二方向に及び、マスメディアの提示を追い続けた側にも、逆にとことん反発を貫いた側にも、陳腐化の罠は待ち構えています。

 前者はつまりメインストリームの殉教者で、時代が変わってもμ±σに正義を求め続ける人達です。ここには、Ⅰ.で論ったような拙い表現者が多く入ります。というのも、具体名を出せないため説得性には欠けますが、僕が陳腐認定を下しているアーティストの発言を追ってみると、その口から「好き」もしくは「影響を受けた」とされている先達も、これまた僕が陳腐認定を下したアーティストであることが多いからです。陳腐な表現にしかふれてこなかった人がプロとなり、更に陳腐な表現を量産していくという、悪夢のループに嵌っている状態とでも言いましょうか。

 この背景には、マスメディアが受け手を軽んじる悪しき姿勢が透けて見え、某放送局を辞めた人間の暴露話や、某広告代理店社員の失言からその一端が窺える通り、受け手のレベルを過剰に低く設定して行き着いた先で、反知性が反知性を招く負のスパイラルに陥ってしまった一例だと思っています。なお、ここで言う「反知性」とはそのままの意味で、原義たる反エリート思想とは異なります。ゆえに「主義」は付しておらず、米国も関係ありません。"「何かを探して何処かへ行こう」"というフレーズに、微塵も知性を感じられない点を指しての「反知性」です。これを草野さんが"どうでもいい歌"と断じたことに共感を覚えるのであれば、あなたにもきちんとした知性が備わっているとお見受けします。

 
 一方で、サブストリームばかりに熱をあげてきた人の手に成る表現も、それはそれで歪な場合があるとの認識です。メインに背いた代償ゆえか、彼らには普遍性が欠けている或いは敢えて無視している側面があり、限定的にありふれたアウトプットに終始しがちとなります。歌詞に限って言えば、文章表現そのものには非凡さがあるのに、特定の音楽ジャンルや活動フィールドなどの狭い界隈でのみ似たような内容が氾濫しているといった、Ⅰ.で提示したものとは別種の陳腐さです。こちらは比較の段階を変えれば説明が可能で、Ⅰ.では議論の外に遣ってしまった「テーマ・モチーフ」のほうに陳腐さの原因があると見ています。従って、Ⅰ.に矛盾するような書き方になって恐縮ですが、どれだけ「表現力・文章力」に秀でていても、近しい立ち位置にある複数のアーティストが皆同じようなテーマに基いて歌詞を書いていたのなら、確率的にその他大勢に埋もれてしまうのも自明です。この落とし穴を回避するために、サブで活躍したい表現者でも、メインを知っておく(悪感情でも構わない)必要があると考えます。

 メインに流され過ぎて溺れてもダメ、かと言ってフリンジに迷い込んで滞ってもダメとくれば、やはり重要なのはバランス感覚です。昔はこの感覚の指南役としての役割を、部分的にはマスメディアが果たしていた面があり、メインに提示されたものも平均的なレベルが高く、且つサブへの導線もきちんと敷かれていた記憶があります。加えて、本記事と同じく「表現物」へのイデオロギーを爆発させているこの記事で、『ネットを介したサービスを利用することには、長所兼短所として「自分の興味のある分野ばかりが優勢になる面」(cf. フィルターバブル)があるので、雑多な情報に見境なく暴露されることで起こる成長性に関しては、未だにTV放送に分があるとの認識です』と述べている通り、受動的に楽しむメディアも使い方次第では未知の表現と出会すために有益だったのです。

 しかし、今はありとあらゆる方向に支流が延びまくったせいで本流の流れも混迷を極め、誰も状況をコントロール出来なくなった結果、無理してメインストリームに止まる一派は滑稽に見え、サブストリームへ引き籠った各派は姿すら見えなくなってしまいました。この光景を喩えたのが「水先案内人の喪失」で、こうなると頼れるのは「己の感性」しかなくなります。それでバランスよく多種多様な表現にふれられれば御の字ですが、そのためには自ら能動的に激流の中を泳いでいく必要があり、それが可能な表現者だけが広く受け入れられる独創性を得るのでしょう。


Ⅲ. Ⅰ.とⅡ.に騙されて勝手に絶望する受け手

 Ⅲ.の主旨は総括的な内容で、「受け手側への批判」です。表現物を鑑賞する立場の人という意味なので、音楽の場合は「リスナー」に置き換えても構いません。Ⅰ.でも「一部先取り」といった形で、特定のリスナー像への否定を展開しましたし、Ⅱ.でも「表現者が受け手だった頃にフォーカス」と前置きしてあり、部分的には既にクリティカルな目線を提示しています。騙された(と目される)人を害悪呼ばわりは心苦しいのですが、Ⅰ.とⅡ.をのさばらせた存在はⅢ.であるといった論旨で話を進めるため、ここでは悪として扱うことをご容赦ください。Ⅰ.より上の前置き部で先んじてフォローをした通り、本コラムをここまで真剣に読み進めてきた方が「愚鈍な受け手」であろうはずがないので、単にⅠ.とⅡ.を纏めるセクションなのだと捉えていただければ幸いです。

 かなり間が空いてしまったがゆえに、今一度改めて本コラムの全体像を振り返りますと、タイトルは「表現の場に巣食う三大害悪」で、Ⅰ.の「表現したいことがあるのか疑わしい自称表現者」と、Ⅱ.の「受け手の感性を矮小化するマスメディア」に続く三番目として、Ⅲ.「Ⅰ.とⅡ.に騙されて勝手に絶望する受け手」を規定したという流れになります。Ⅲ.がⅠ.とⅡ.にどう騙されているのかと問われれば、その答えは「マスメディアの提示が全てだと思わされている」です。これに近しい形容はⅡ.の中にも登場させていて、『拙い表現者と独自性のある表現者を分けるポイントのひとつには、「どれだけマスメディアの提示が全てではないと気付けているか」の見地がある』というのも、同じポイントについて述べた文章なのでした。


 この欺瞞には二つのフェーズがあり、表現者側へ作用するものと受け手側へ作用するものがあります。前者は既に説明済みの事柄で、Ⅰ.からずっと「拙い表現者」として、更にⅡ.では「メインストリームの殉教者」として、その陳腐さを指摘されたようなアーティストのことです。彼らはまさに「マスメディアの提示が全て」だと未だに思っているため、時代と価値観が変わって従来の方法論が通用しなくなった今なお、それしかリスナーの「共感」を得る術がないと誤解している節があります。既に旧くなった価値観を模倣し続けることはⅠ.に出した「創作の希釈」にほかならず、創作を重ねれば重ねるほどに陳腐さが加速していくのは当然です。後者の受け手側に作用するものに関しても、リスナーの立場でこの手の陳腐さを良しとしているのであれば、それは同じ欺瞞のフェーズと見做します。

 では受け手に作用するもう一つのフェーズとは何なのかと言えば、「マスメディアの提示が全て」だと思うところまでは同じだけれども、そこから飛躍して「これが現在の音楽の全てである」との拡大解釈に至り、音楽への向き合い方を絶望で歪めてしまうことです。表現者側で換言すれば、Ⅱ.に出した「サブストリームばかりに熱をあげてきた人」はこちらに該当しますが、その反骨精神が創作の意欲になるかもしれない表現者のケースとは異なり、単なるリスナーの場合は新たな良質の音楽との出逢いを自ら放棄することに繋がるので、老婆心ながらそのスタンスは改めるべきだと忠告します。マスメディアが発信する陳腐な音楽を否定し、自身の価値観で既知の音楽を楽しみ続けるのは、一見して健全ですしマスメディアの策略に乗っていないようにも映りますが、否定の出発点に「マスメディアの提示が全て」が居座っていたなら話は別です。それを前提にすると、マスメディアに踊らされている人と実質的には差が無いということになります。テレビ世代だった人間がネットをし始めて、所謂「ネットde真実」に目覚めるのと構造的には同じで、これは自身の中に価値や真偽の判断基準が無いままであることの証左です。


 本コラムの中にはこれまでにも度々、特定の受け手を牽制するような文章を載せており、たとえばⅠ.の「少し前向きなものが出てきただけ上手く扱えなくなってしまうような、狭量な受け取り方はしていない」だったり、Ⅱ.の「僕は近年の音楽にも高い評価を下しており、面白い楽想や凝ったサウンドの楽曲の数で比較すれば、寧ろ近年のものに軍配をあげたいとすら思っています」だったりは、僕が「昔は良かった」的なノスタルジーだけで近年の音楽(とりわけ歌詞内容の稚拙さ)を批判しているわけではないことを意味しています。続く「でなければ(中略)音楽レビューブログを今日まで9年も続けていません」も、現在に希望を抱いていればこそ書けるものですし、「μ+2σ~3σに入るデータは年々増えているとの認識です」とも述べたように、今でも高偏差値の音楽を探すことに楽しみを見出しているわけです。

 当ブログを訪れる方の多くは、短文や画像・動画がメインのSNSが幅を利かせているこの時代に、長文テキストに抵抗を持たない読者層であるため、知的好奇心の旺盛さでは勝手に同志だと想定しています。しかし、少し外に…それこそ上掲タイプのSNSに目を向けてみると、現在の音楽を殊更に批評し続けている「嘗ては音楽好きだったのであろう人々」が、結構な確率で目に入るのです。SNSを利用して何かを発信しようとしている以上は、彼らも音楽に対して一家言あるのだとは思います。しかし、現代にも確かに存在するμ+2σ~3σの領域には一切目を向けようとせず、今なお能動的に新しい音楽に向き合おうとしていない人々が、何処かの一時代の一部の音楽だけを切り取って過剰に持ち上げ、僅かな伝聞の情報やイメージだけでそれ以外のものを無責任にディスっていた場合には、その発言内容は全て毒電波だと認識して切り捨てたほうが吉です。


 上記した仮想敵の例はかなり条件でガチガチに固めていますが、特に注視していただきたいのは「何処かの一時代の一部の音楽だけを切り取って過剰に持ち上げ」の部分になります。たとえばの話で、以降では「何処かの一時代の一部の音楽」として「90年代のJ-POP」を規定しますが、僕自身がこれを嫌っているわけではありませんし(寧ろ大好物です)、純粋にこれを好んでいる人を否定する意図はありません。この文脈下で批判したいのは、90年代のJ-POPに多大な思い入れがあるというだけで、そこを称賛するためにJ-POP以外のジャンルは時代に関係なく、J-POPでもそれ以前と以後のものに関しては何は無くとも否定するような人達のことです。勿論先に条件として示した通り、現在でも新たな音楽との出逢いに積極的である人が種々の音楽を聴き比べたうえで、「やっぱり90年代のJ-POPが最高!」と語る分には何もおかしなところはありません。ただ、音楽に限らず娯楽物に関して、人は自分が多感な時期に慣れ親しんだものだけが至高であり、それを育んだ期間こそが黄金期であると錯覚しがちです。この感覚を絶対視し過ぎると、その時より古いものは古いから劣っている、その時より新しいものは新しいから飽和していると、トートロジーを含んだ詭弁を弄するようになります。

 まともな思考力があれば、これは「甘いレモン」という言葉で説明がなされるような思考停止の一種だと気付き、その閉じた範囲の外にも価値を見出していけるものなのですが、それを知ってしまうと自身が損をした気になるかもしれないといった怯えがある(自分の持つ甘いレモンが比較されるのが怖い)からか、頑なに特定の何かに固執してしまう人も残念ながら存在するのです。受動的ないし消極的といった点では、同時に「酸っぱいブドウ」も拗らせているのかもしれません。どちらも自分の中で留めているならば、当人が勝手に損をしているだけなので害はないものの、このような考え方の下では肯定が単なる肯定でなくなってしまうため、何かを発信した際には無意識に否定を撒き散らすこととなり厄介です。「甘いと酸っぱい」および「ブドウとレモン」の2×2の全てに意識を払った人が発信する肯定「やっぱり90年代のJ-POPが最高!」はそのままの意味ですが、そうでない人の肯定では本来は暗の意味となるはずの「それ以外は等しく最低!」が際立ちます。これは実際に「甘いブドウ」があることを知っている人からしたら、ひどく滑稽です。


 先に「嘗ては音楽好きだったのであろう人々」という言い方をした通り、僕はこの類の受け手のことを「音楽好き」だとは見做していません。例に従えば、彼らは「90年代のJ-POP好き」であるだけです。「音楽 ∋ 90年代のJ-POP」なわけですから、別に彼らが「音楽好き」を自称するのは構いません。しかし、それは無用な否定を撒き散らさないならばといった条件の下で許されることで、そうでないなら素直に「90年代のJ-POP好き」を名乗ればいいのです。もっと具体的に、アーティスト名を出して「○○が好き」と宣言すればなおよく、世の中の多くの人は自然とこれが出来ています。そのうえで「○○は嫌い」と主張するのはそのまま否定を意味するだけなので、至極真っ当な批判です。肯定文脈だろうと否定文脈だろうと、言及の対象を広く取るならそれなりの根拠を示す必要があり、それが出来ないなら個別に言及したほうが賢いと言えます。

 Ⅲ.に当て嵌まるような「勝手に絶望する受け手」は、Ⅰ.とⅡ.に騙されて「これが現在の音楽の全てである」との理解に至っているため、実際はごく一部の要素aを好んでいるだけなのにも拘らず、集合Aの全てを把握したような気になっています。その勘違いが外部に発信されると、否定は根拠に乏しいレッテル貼りとなり、肯定も暗に否定が優勢の嫌味となり、要らぬヘイトを買ってしまうのです。このような愚鈍な受け手(Ⅲ.)が曇った眼でμ+2σ~3σの存在を希薄にし、残ったμ±σにこそ価値があるとⅡ.が誤認し、Ⅱ.に煽てられたⅠ.が更なる陳腐化を進行させ、新たに絶望するⅢ.が生まれるという、この繰り返しが今の音楽シーンを崩壊させたと見ています。



 コラム④は以上です。今更3-14.に戻っても何が何やらかもしれませんが、これだけ音楽的なイデオロギーに塗れまくっている僕にとっては、"こんな気持ちを抱えたまんまでも何故か僕たちは/ウサギみたいに弾んで"という歌詞は救いでした。この"僕たち"は素直に解すればスピッツのことを指しているのでしょうが、ファン延いては音楽を愛している人も含むと解釈すれば、どれだけもやもやを抱えていても良い音楽とは巡り合えるものだと、そう励まされている気がしたからです。


■ 同じブログテーマの最新記事