ようのプロフィール | A Flood of Music

ようのプロフィール

最終更新日:2024.3.7 記事作成日:2018.4.21


◆ この記事は?

 アメブロのプロフィールページ内にかつて存在していた、マイプロフィール欄の内容に即したものです。従前の投稿に於いて「同ページを参照」とリンクを貼って説明を丸投げすることが度々あったため、導線維持の目的で本記事を立ち上げました。


◇ 留意点

 ① 記事化によりフォームの字数制限に縛られなくなったので、具体的に書きたかった部分は詳細に改めました。

 ② 主に個人の特定防止を意図して、設問自体を省略したり敢えての曲解を披露したりしています。

 ③ 音楽およびアニメ(=当ブログで特に取り立てうるコンテンツ)の嗜好に関しては、同じくかつての存在であるフリースペース欄の内容に即した別の記事;更にその一部を発展させたまた別の記事に詳しいので、それぞれをご覧ください。



◆ 基本情報

ニックネーム:よう

 → ブログ開設当初から変えていません。

性別:男

 → 体も心も一致しており指向もヘテロです。

誕生日:19█年█月█日

 → 昭和世代とも平成世代とも主張できます[隠す意味なし]。

出身地
:██都

 → 生まれは██都[隠す意味なし2]だけど育ちは近郊の██県、一時期住んでいた雪国の██県も自身の一部、贔屓の旅行先である██県と留学先の███████州はアナザースカイということで。

出身校:院卒

 → 前期課程までだけどね。



◆ 定番

趣味
:大別すれば音楽と二次元

 → 音楽鑑賞:当ブログが何よりの証拠です。好きなミュージシャンについては留意点③のリンク先を参照。
 → DTM:2014年を最後に何も創作していないのでかつての趣味です。公開作品一覧はこちら

 → アニメ:好きな作品については留意点③のリンク先を参照。
 → 漫画:以降に別項あり。
 → ゲーム:同上。

 → 映画:同上。
 → 読書:同上。

 → 地球科学[地震学・気象学]:自分の分野とは一切関係がなく趣味としての学問で好き。


長所:知的探究心旺盛、几帳面

 → 院まで出ているのでまぁ。

短所:心配性、刹那主義

 → この相反する性質のせいで人生観が独特。


ちょっと自慢できること:長い学生時代と偏った男女比のおかげで役得の青春を過ごせた

 → 7年のモラトリアム[学部4年間+修士2年間+ダブり1年間]はでかい。女子が優勢の環境は高校からずっとだからか、生物学的性と性自認が男で性指向がヘテロでも性表現に女性的な面があるのは否めないかも。

○○なタイプです:【定番の二択質問で選ぶ方は…】海、猫、字幕、冬、都会、ご飯、紅茶、たけのこ、こしあん、うどん、先に食べる

 → 何れも強いて言えばで他方を度外視するわけではありません。例えば[字幕or吹替]はジャンルによりますし、英語なら字幕(聞き取りと並行理解)/それ以外は吹替との基準もあります。[紅茶or珈琲]では紅茶派を標榜しますが、毎朝夕は珈琲を喫しますしそもそも好きなのは緑茶です。愛飲は九州産で霧島も八女も嬉野も知覧も嗜みます。



◆ 好き嫌い

好きな食べ物は?:【和食】牛鍋、金平牛蒡|【洋食】バターチキンカレー、グラタン|【中華】腰果鶏丁、油淋鶏

 → こだわりポイント①[すき焼きじゃなくて牛鍋]、②[腰果鶏丁は鶏肉のカシューナッツ炒めの通ぶった表記]。

好きなスポーツは?:陸上競技、野球

 → 中学生の時分には陸上部でした。観るほうはミーハーレベルなら何でも好みですが、レギュラーシーズンにも興味があるのはNPBです。


好きなマンガは?:【漫画家[原作者含む]・男性】冨樫義博、西尾維新、大暮維人、葦原大介、鬼頭莫宏、つくしあきひと、荒木飛呂彦、相田裕|【女性】CLAMP、冬目景、黒田bb、ももせたまみ、秋★枝|【性別不明】舞城王太郎

 → 他多数ですがとりあえず打ち止め。同人作家も対象にして整理したいです。

好きな雑誌は?:Sound & Recording Magazine

 → ブログテーマ「複合記事」に何本かレビューがあります。


好きな本:【小説】アルジャーノンに花束を、1984年、日本沈没、死都日本、天使の囀り、ドグラ・マグラ、残像に口紅を、モモ|【音楽本[副題省略]】音楽がわかる世界地図、アニソンが持つ中毒性の秘密、TECHNO definitive、90年代アニメ&声優ソングガイド|【その他】幸福論(ラッセル)、日本文化私観、実験する小説たち、道迷い遭難

 → 小説はテクストや言語の可能性を敷衍するような実験的な作品が好みです。音楽系はレビュー執筆の参考になるものを幾つか。


好きな映画:キング・オブ・コメディ、見知らぬ乗客、シン・ゴジラ、パシフィック・リム、シャイニング、地獄の黙示録(特別完全版)、鑑定士と顔のない依頼人、モダン・タイムス、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ、アルファヴィル

 → アニメは除いて取り敢えず10作を挙げました。上記も有名作ばかりだとは思いますが、より大衆的な映画も普通に好むタイプです。


好きなテレビ番組は?:【バラエティ】ピエール瀧のしょんないTV、モヤモヤさまぁ~ず2、神さまぁ~ず[式・ホリ・マル]、ゲームセンターCX|【ドラマ】相棒、リーガル・ハイ、ショムニ、半沢直樹、Mr.ビーン、孤独のグルメ、CITY LIVES|【音楽】ラジオスターの悲劇~Video Killed The Radio Star~、ロック歴史秘話~Rock Legends~、関ジャム 完全燃SHOW(EIGHT-JAM)|【その他】テクネ 映像の教室、サブカルチャー史[ニッポン戦後・世界]、キンシオ

 → バラエティはニッチなテーマやくだらない企画に全力で挑んでいくのが好きな傾向。ドラマは社会派の作風とエンタメ性の両立が取れているものが面白い。音楽の前二つはMUSIC AIRの番組です。歌唱と歌詞以外の要素(作曲編曲演奏)にもフォーカスしてほしいタイプ。その他は傍流でありながら知識やモノの見方に幅が出る番組をチョイスしました。


好きなゲームは?:家庭用ゲームの遍歴はPS2/64/GBAあたりで止まり、その後フリゲにハマった時期もあったけれど今は専らソシャゲです。

 → プレイ中または済のソシャゲ[略称表記]:【現行】マギレコ、ポケ森|【引退】アドパラ、ナナシス、スクフェス2、ハチナイ|【サ終】スクフェス、スクスタ、ぷちぐる、SB69、ショバフェス、シンフォギアXD、歌マクロス、きらファン、キュアぱず、物語ぷくぷく

 → 特にハマったフリゲ:作者に迷惑をかけたくないので文字数だけ開示すると、███████████シリーズと█████です。前者は制作中のバージョンや現在は非公開の作品も全て保存してあり、後者は某動画サイトで有名になる前からのファンを主張します。

 → 好きだったCSゲー[略称表記]:エリーのアトリエ、チョコダン1・2、スーパードンキーコング1・2・3、ポケモン[第2世代まで]、ぷよぷよ[無印・通・SUN]、モンファー2、もんレー、MGS2、メガテン3 


好きなブランドは?:服飾やインテリアに関してはブリティッシュスタイルが好み

 → 人からもよく「ファッションが英国風」と言われる。特にチェックやユニオンジャックを取り入れているわけではないのですが、全体的な印象がブリティッシュトラッドに見えるからだろうかと自己分析。



※ 以下、イデオロギー大爆発なので閲覧注意です。自身のアンガーマネジメント的なメモを兼ねており、腹立たしく感じる言説にふれた際に参照しています。自己批判や自己矛盾も含まれる非常に痛々しいもので、誰に向けたものでもないということをお含み置きください。


好きなタイプは?:論語からの引用で例示

 → 故きを温ねて新しきを知る人:老害にも若害にもならない指針。僕の定義する老害とは「自分の生きた時代のみが黄金期と錯覚している人」のこと、若害とは「自分が生まれる以前の時代考証を行えない人」のことです。ゆえに20歳の老害も80歳の若害も存在し得ます。

 敢えて同世代観(30~40代)を語るなら、最近は「ネットさえあれば何でもできる」と声高に主張する人が上述の害悪を同時に拗らせた存在だと感じます。技術の発展と共に一段とデジタル化が加速しているからこそデジタルの外にも重きを置ける時代なのに、アナログを無価値と断じたり従前のシステムを悪し様に言ったりするのは積み重ねのない人間の発想だなと。特にコロナ禍に託けて一理を得ただけの非対面の諸々が対面の価値を放逐すると本気で考えている人は、その内向きな性格に非常事態がたまたま噛み合っただけで何一つ最先端でない自覚があるのだろうかと疑問です。思考形態や行動様式のアップデートと言えば聞こえは好いけれど、先進的な何かが現れる度に従前の何かを忘れていく果てに出来上がるのは軸のブレた人間でしょう。

 保守と革新の二者択一に囚われ(=故きを温ね"ず"新しきを知った気になり)、時代を追い続けていればそれで良しと単一の指針に縋った時点で順調に老害化の道を歩んでいますし、実際に若い10~20代ならまだしも親世代の年齢になって尚これに気が付かず、自身が過ごした過去さえ否定する幼さは若害化の表れに映ります。例えばスマホを通じて種々のサービスとSNSを利用しているだけで、「これぞデジタルネイティブ!」と宣う人間の的外れ感がまさにです。書類がフォームになっただけ、ポイントカードがアプリになっただけ、硬貨と紙幣がトークンになっただけ、レンタルがサブスクになっただけ、噂と日記に上映装置が付いただけ、これで本質が変わったと感じるのは短絡的だと思います。この点を理解しデジタルの恩恵を正しく享受している人ほど、徒にアナログを否定しないものです。なぜなら主体は変わらず「人」なのですから。


 → 「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し」を胸に抱く人:前項が謳う道理への暗さを喩えて、実用書ばかり読み漁っている人が空想小説しか読まない人より使えない皮肉(想像力に欠ける=実用性に欠けるが成立するので)とするなら、後項が謳う独善の危うさは全く本を読まない人の浅慮に喩えられます。何方もよろしくないとの教えなので、僕は「実用書と空想小説の所感を共時に落とし込んだ自分の思想を基に行動を起こせてこそ大賢」と考えます。要するに学ぶと思うとをトレードオフと考える似非スペシャリストにはなりたくないのです。

 → 「君子は能無きを病う、人の己を知らざるを病えざるなり」の境地に居る人:後項は難儀なので究極の理想形として掲げていて、現実的に意識しているのは前項です。例えば自分の理解が及ばない知識体系に接した折に、それを二次的に解説・翻訳したものを通じて歩み寄った気にはなっても、一次の概念をそのまま理解できなかった自分の無能は呪います。

 シンプルは確かに正義です。しかし難しい事柄を解り易く変換することをそう呼ぶ人は疑います。難しい問題に対する真にシンプルな向き合い方は、難しいままに内容を理解することです。そのために専門的な言葉或いはハイコンテクストな言い回しが存在し、それらを正しく使い熟すには対象への正しい理解が不可欠となります。その努力をせず現状の知識に甘んじて得た安易な理解;自分に取り都合の好い語彙に置き換えたものは、コアが残っているため一見変質していないように見えても、その実それを支える多くの周辺情報が削ぎ落とされているものです。

 この「コアを残す」を「解り易くする」と履き違えた言説は「嘘が上手い」と同義で、その嘘に騙されるような人が「解り易い!」と群がるから理があるように見えるだけ、その嘘を見抜ける人からしたら滑稽に映ります。極端な例として、三者鼎立の状態をシンプルをお題目に二項対立にしたら本質が捻じ曲がるのは誰でも分かるでしょう。とはいえこれこそが難しいままに理解できなかった時に起きている欺瞞、換言して「解り易くする」に組み込まれたフィルターです。この点を意識して発信または受信するなら健全だけれど、シンプルに囚われて手早い情報の浸透と拡散が第一義となっているものは、発信側の言葉足らずと受信側の理解力不足が低レベルにマッチングしただけにしか見えません。



嫌いなタイプは?:インジャスティスコレクター

 本項には以前「劣等感からくる選民思想の持ち主」を掲げていましたが、より端的な言葉を知ったため置き換えました。同語は陰謀論者を描写する文脈に頻出だけれどその問題に限らず、他責思考の人が陥りがちな考え方として非常に核心を突いたものと我が意を得ています。本来ならワンワードで人を分類ないし評価するのは愚かしいレッテル貼りだけれど、この手の方々は皆似たり寄ったりの画一性を有す印象です。以下、その特徴を「こうはなりたくない」の自分事として説明します。

 → 下から上を見下す:この「下」とは当人の自己認識によるもので、誰かが能動的に見下した結果ではありません。自分で掘った穴に進んで埋まって、道行く人に「マウント取るな!」と喚くようなタイプが該当します。その人の心身を圧迫しているのは周囲の土壁であり、道行く人が土を被せたわけではないのに、他者を恨む転倒を指した撞着語法です。

 そも僕は安易にマウント被害を主張する人を信用しません(虎の威を借る狐にやられた場合は例外)。それこそが最大最悪のマウントと感じるからです。反論の文脈では「相手がマウントを取っている」の印象操作になりえますし、愚痴や皮肉の文脈なら「自分はマウントを取られる存在」または「マウントに関与しない自分」とアピールすることが第三者へのマウントに映りえます。由来に照らすと係る行為は「群れの中」或いは「群れと群れの間」で行われるとの理解ですが、濫用され過ぎて形骸化した今は「はぐれ個体が群れへの帰属意識を持つための言い訳」を疑うべきです。神経症じみたハラスメントの主張も同じ問題を内包していると感じ、セクハラパワハラカスハラなど大多数のコンセンサスが得られているものとは違って、議論の余地を残す言行動まで論い始める人は逆差別と悪平等を意にも介さない言わばハラハラの加害者に見えるため、その根底に自意識過剰の驕り高ぶりが潜んでいないかチェックします。

 → 「無い」を誇る:知識や経験に乏しく何事にも無関心な人がそうでない側の視野を腐すのは酸っぱい葡萄で説明が付くけれど、ここから誤った同一視ないし同族認定に走って偽の合意効果で何もかもを持たざる者の尺度で考えだすと一層厄介です。あるステータスについて「それしかない」人が、「それもある」人を矮小化するケースを指します。

 → 異端を自称する:真の才人は自ら凡夫を比較対象に取らないので、この宣言に至った時点で張三李四確定です。ダニング=クルーガー効果で説明がつく程度の寧ろありふれた存在と言えます。凡人にすら満たないがゆえに排他されただけの我が身を可愛さで取り繕い、恰も特別を演出したとて得られるのは単なる異常性です。

 例えば一般大衆を啓蒙せんと訳知り顔の賢者気取りが展開する主義主張や独自理論が、まともな知識に照らして四角い車輪の再発明としか思えなかった時に、その不勉強さと無教養さに閉口したことはないでしょうか。または自身が当事者でもないのに(=つまり殆どの報道や番組に対して)行われるメディア批判にふれた際、曲がり形にも法に縛られている発信内容を捏造だの低俗だのと断じる根拠が、何処の誰にも何にも保証されていない出所不明の言説だった場合に、低級な主観でそれらしい嘘を並べ立てている無法者は一体何方だと絶望感を味わったことはありませんか。これらの気持ち悪さの背景には、異端のふりをした異常が育んだ反知性があります。



◆ その他

どうしてもこれだけは譲れないものは?:本項に以前掲載していた内容はこの記事へと発展させました

 → これもまたイデオロギーに塗れた乱筆乱文です。アニメ鑑賞をテーマに書いたものですが、創作物全般に対する僕の向き合い方を記した哲学の開示でもあります。その補足として以下に連ねるのは、先掲の嫌いなタイプとはまた別の立脚地から明かす「嫌いな表現者」の特徴です。好きの思いは各記事で存分に語っているので、敢えてここに書くことはありません。

 「その人の創作が好き≠その人の思想が好き」を理解していない人:僕が本記事や留意点③にリンクした記事に名前を挙げている表現者の作品を理屈または感性で好んでいるのは事実ですが、その中にすら係る人間性については全く評価していない存在が少なからず(1人や2人の話ではなく10+人は)含まれます。この「作品と作者を何処まで切り離すか」という定番のテーマに於いて僕は、作品の出来が良ければその背後に何があろうと問題にしないタイプです。ゆえに作品外で語られる作者の言は無価値(=知らない他人の産物)と極論で割り切っており、共感できる内容なら支持しますしそうでないなら反駁します。つまり作品外ではあくまで一個人対一個人のはずなに、そこにまで発信側と受信側の関係性を持ち込んできて、「自分の作品が好きなら自分の思想にも共感できるでしょ?」と、勝手にシンパ認定をしてくる創作者には何か思い違いが…否、思い上がりがあるのではと怪訝顔です。

 とはいえ勿論こと創作に於いてはこれも問題にしないので、この手の勘違いまたは傲慢さを作者から感じたとしても、作品への評価に影響することはありません。ただ作者の人間性をしっかり嫌っておくだけです。当ブログでは「作品」に向き合っているため、本来的には無関係の「作品外での作者の言」をわざわざ扱き下ろすようなことはしておらず、引用するにしても作品理解に資するポジティブな形にしています。しかし僕が当ブログでその作品を大絶賛しているのと同時に、別のアカウントでその作者のイデオロギーを痛烈に批判していたとしても(仮の話ですよ)、それは矛盾でもダブスタでもないということを理解してほしいだけです。作者を軽蔑していようが作品への敬愛は持ち続けられるもので、これは「ファンを須く信者と思うべからず」を弁えていれば難なく共感できる普遍的なものだと主張します。

 自身の創作の不出来を受け手に転嫁する人:知識や経験の不足でコンテクスト理解に乏しい残念な受け手が居るのは事実ですし、その創作の真の価値を知るのは作者だけだと思うので、他人からとやかく言われるのを理不尽に感じること自体は何ら可笑しくありません。だとしても論うべき存在は、「不満があるならお前が創作してみろ」と、純然な受け手を勝手にワナビーに仕立て上げようとしてくタイプです。この「門外漢は黙ってろ理論」の正当性はよく議論の的になり、僕としては「理屈上は詭弁だけれど感情論では一理ある」との認識、つまりそれを言ったらお仕舞のマジックワードだと捉えています。発信側と受信側という対の関係性からくるのが批評の本質なのに、「同じ目線でモノを言え」の考えでは受信側も発信側に置かれ、先達たる創作者が確実に上に立つ構図が出来上がるので狡猾です。

 受け手の誰もが表現者になるために創作物に慣れ親しんでいるわけではないのに、「不出来と感じたならそれを創作の糧にしたら?」と嘯きなぜだか師匠面をしてくる作者は、受け手に尻拭いをさせたがっているだけのように映ります。その作品にふれて何を思うもどんな行動に出るかも全ては受信側の裁量で、その立場を奪う権利は発信側にというか他の誰にもありません。立場が違うからこそ成立する批評というものがあり、その作品についてアウトプットに充てている時間もインプットに充てている人間の視点を軽視するのは勿体ないことです。この違いがあるからこそ批評家という職業が成立するのではないでしょうか。



尊敬する人は?:坂口安吾

 → 人間や世の中の捉え方に共感を覚える。