鬼束ちひろ特集 ~不眠症にも神経症にも効く音楽処方箋~
◆ 前置き
更新ビジョン記事での予告通り、本記事では鬼束ちひろの音楽を特集します。8thアルバム『HYSTERIA』(2020)をきっかけに僕の中で幾度目かのブーム再燃が興っているので、この機を逃さずにアウトプットする次第です。副題は1stアルバム『インソムニア』(2001)から最新作までの流れを意識したもので、医学的な効能を保証するものではないと念のため注意喚起しておきますね。
◆ リスト公開
上掲画像に記載の楽曲群が現時点でのフェイバリットで、これを参考にレビューを進めていきます。鬼束ちひろに関してはnの値を10に設定しているため、10*3で30曲が紹介の候補です。nの意味等の詳細が気になる方は説明記事をご覧ください。
◆ 過去記事紹介
当ブログでまともに彼女の楽曲にふれた初めての、そして唯一の記事がこれです。ピックアップしたのは2ndアルバム『This Armor』(2002)収録の「茨の海」で、同曲はリストの「1st」に振り分けている上位のお気に入りなので、本記事を補完するものとして参照していただければ幸いに存じます。リンク先には駆け足ながら全般的なアーティスト評も記してあるため、先んじてイントロダクション風に読むのも一案です。
■ We can go
本特集は通時的に振り返っていくのが親切であろうと判断し、一番手には1st『インソムニア』から「We can go」を紹介します。何となくでしか鬼束さんを知らない方は「暗い曲ばかり歌っている」とのイメージをお持ちかもしれませんが、実際には明るめのナンバーも初期の頃から存在していて且つその場合はジャンルがカントリーロックに寄る傾向にあることは、彼女のファンなら好く気付いている点だろうとの認識です。アコギによるドライなサウンドには軽快さが感じられる一方で、ペダルスティールギターの味わい深い音色は反対にウェットに機能し憂いを生み、そこにゴスペルライクなコーラスワークが重なって多幸感に満ちた音像で孤独を癒していくというつくりからは、使用楽器的にも精神的にもカントリーへの希求が窺えます。
本曲で特に好きなセクションはAメロで、とても綺麗で落ち着く旋律だとのリアクションが初聴時から20年経った今でも不変です。このメロディの愛おしさは歌詞に照らせば納得で、幕開けの"私は非道くもがいてたから/救いの声さえ聞こえなかったの"が過去完了形であるところからもわかる通り、既に救いを見出した後に顧みる内容がゆえの晴れやかな心持ちで綴られていると言えます。しかし素直にポジティブな言葉繰りになっていないのは流石の鬼束節で、1番の"どうか完全なものたちが/そこら中に溢れないように"も、2番の"どうか光り輝くものたちが/二人を侵してしまう前に"も、一般的な感性の上では寧ろ歓迎したい類のものを相手取っているのに、それらに背を向けて"We can go to the place/Where we're forgiven"を目指していく様は実に強かです。結びの"羽根を失くしても/私は飛べるから"も真実であると得心が行きます。
■ infection
1st/2nd収録曲と来て、お次は3rd『Sugar High』(2002)から「Castle・imitation (album version)」を取り立てます。元のバージョンにはゲームとのタイアップが付いており、そちらは3rd初回盤付属の8cmCDか2枚目のベスト盤『SINGLES 2000-2003』(2005)で聴くことが可能です。僕は前者で所持していますが、短冊形CDとマキシCDの過渡期を象徴するようなプロダクトなので、メルクマール的な価値があると思っています。オリジナル版とアルバム版はアレンジ面で結構に趣を異にしていて、ゲームの主題歌なだけはあるそれ単体で成立するキャッチーな仕上がりと、アルバムの世界観に馴染ませた物語性の高い重厚なアウトプットでの差別化が特徴的です。
残念ながら『ブレス オブ ファイア』シリーズは全くの未プレイゆえに作品知識は皆無だけれど、本曲の歌詞世界は確かにゲーム的というか喩えるならTCGに係る文章のようなファンタジックさとロジカルさを兼ね備えていると感じます。例えば"有害な正しさをその顔に塗るつもりなら私にも映らずに済む/燃え盛る祈りの家に残されたあの憂鬱を助けたりせずに済む"には、海外のフレーバーテキストを翻訳したかの如き趣がありますし、"完全な醜さで自分を越えて行けるなら何度でも泥を纏おう/不完全な瞬きで綺麗なもの以外全てを消すのならこの眼を捨てよう"は、複雑な統語構造に因る回りくどさが効果やルールの説明文みたいです。句のスケールで見ても、"私の怒りを吸い上げるヴィーナス"や"乱れに棲み着く鼠達"などはカード名を彷彿させます。このTCG的解釈に大いに影響した歌詞は"焼け野原には 選択のカードが散らばる/それでも貴方の脳はケースの中に?"で、枢機はフィールド上どころかゲーム外に存在すると匂わせた示唆的な表現が好みです。
音楽面を語りますと、主旋律の正しさとピアノ伴奏の誠実さが互いの清浄たる神性を高め合い、淡々としかし力強く歩んで行くイメージで展開していくところを魅力的に思います。だからこそ、AメロBメロサビと美麗なラインの積み重ねの終着が、"生きて 生きて 生きて 生きて 生きて 生きて"のシンプルな繰り返しでも、祈りの文脈で愚直に心打たれるのでしょう。"わずかな覚醒を看取る日々さえ/愛して 激しさで見失う正義のナーヴァス"に代表される、冷静と情熱が共存したフローは一度Cメロで断ち切られますが、勇壮なメロディに伴われた"海を開けて 二度と振り向かないように/闇へ続く道でも 後ろなど振り向かないように"は、従前の条件塗れの歌詞とは打って変わって純粋な未来志向の内容であるため、当該部に於ける流れの逸脱は意図的だと理解が出来ます。
■ BORDERLINE
3rdからもう一曲、アルバムのラストを飾る「BORDERLINE」は個人的に鬼束さんの楽曲の中で一二を争うほどのお気に入りで、その旨は「茨の海」のエントリーでも述べていました。同記事には3rdに対する総評も載せており、「非常にコンセプチュアルな内容に感じられ、一本の小説や映画を鑑賞した後のような良質な余韻が印象深かった」との文脈を引き継げば、本曲の大義はストーリーをドラマチックに締め括るところにあると主張します。その重責に相応しいだけの熱量が歌詞にもメロディにも演奏にも歌唱にも込められていると聴けば瞭然のサウンドメイキングが、本曲に神懸かり的な傑作の座を与えたくなる所以です。
不穏当な進行で緊張感の漂うピアノをバックに、"雑音が静けさに変わる瞬間を/絆が少しずつ欠ける惨劇を/切り裂けば楽になれた証拠を"と、深淵に臨んで薄氷を踏むが如しのギリギリ加減で境界線上の出来事が連ねられる序盤だけでも、「BORDERLINE」の題をこの上なしと思えます。一連の描写に続くのは警告で、"どうか見逃さないで/置き去るのは過去だけでいい"と先達の口から発せられしは蓋し金言です。V-C形式の楽想なのでここで早くも最初のサビに移行し、鷹揚に歌い上げられる"FEEL ACROSS THE BORDERLINE"だけならば手放しで喜べそうですが、続く"NOW YOU'RE SAVED AND YOU UNDERSTAND/さあ 神の指を舐めるの"で雲行きが怪しくなります。物語に擬えた立脚地を前提として、後に"歯車が音を立てる時には"や"シナリオも次第に変形を急ぐ"などの歌詞が出てくる点を考慮すると、英語詞の状況は「デウス・エクス・マキナへの屈服」だと解釈したいです。劇中の人物としては、この誘惑に身を任せるか否かで今後の世界の見え方が180度変わるため、ボーダーラインを前に揺らぐのも当然の反応でしょう。
チェンバロの絢爛なれど物憂げな音色で物語世界に一層の奥行が生まれる2番、次第にハードなタッチになる鍵盤に煽られるように細かく刻まれるストリングスが決断を迫る間奏、弦の奏でるラインがあたかも"自分"に次なるアクションを起こさせようとする神からの囁きに聴こえる3番と経て、タブラないしフレームドラムのトライバルな一音を合図に"FEEL ACROSS THE BORDERLINE"の波状攻撃が始まり、ここからの長尺アウトロこそが本曲で最も雄弁なセクションだとの認識です。レイヤードなコーラスワークがサンクチュアリを構築し、感極まったストリングスで神との対話が為され、全知全能の一端にふれた影響か戯曲的な大仰さで正しく聞き取れない"NOW YOU'RE SAVED AND YOU UNDERSTAND"が重なり、金切り声に近付くボーカルに圧倒されて鳥肌が立つというシークエンスからは、越境に対する畏怖と超越存在への畏敬が綯い交ぜになって、一線の先に足を踏み下ろすかどうかの瀬戸際の光景が浮かびます。
■ 惑星の森
ここで一気に7年半ほど時を進めてゼロ年代を見送りまして、10年代のトップバッターに据えるナンバーは「惑星の森」(2010)です。スタジオ音源としては3枚目のベスト盤『"ONE OF PILLARS" ~BEST OF CHIHIRO ONITSUKA 2000-2010~』が唯一の収録先で、ライブ音源であれば7th『シンドローム』(2017)の初回盤付属CDかライブアルバム『Tiny Screams』(2017)で聴くことが出来ます。どちらも内容は2016年の公演に基いており、上掲動画も同様であるためセトリの一曲に連ねられているわけです(4曲目:16:31~)。レコード会社やレーベルを転々としているキャリアのせいか矢鱈にベスト盤の数が多い鬼束さんですが、既出曲を揃えているファン向けの販促要素にされがちな未発表曲には中々どうして名曲が多いとの経験則に鑑みても、本曲のクオリティの高さには腹落ちするしかありませんでした。その美点はシンプルに、サビメロの流麗さにあると評価しています。
鬼束さんのメロディセンスが衰え知らずなのは言わずもがなとして、編曲者である坂本昌之さんが旋律の機微を見事に引き立てているのも、僕からこの感想を引き出した重要なファクターでしょう。ここまでに紹介した4曲は何れも羽毛田丈史さんがアレンジを務めていて、(ミーハー層的には)全盛期に当たる3rdまでのサウンドは氏を中心にプロデュースされていたため、鬼束ちひろというアーティスト像のベースを形作った一部に、羽毛田さんの多彩な編曲術の因子が組み込まれているのは間違いないと見ています。これに対して坂本さんのアレンジャーとしての手腕は方向性が異なる印象で、トラックで聴かせるよりもボーカルを主軸に脇を固めることに長けているとの分析です。「茨の海」の過去記事に書いた全般評では5th『DOROTHY』(2009)にふれ、「この頃のシングル曲が特にお気に入りで、全盛期級の良曲が揃い踏みしている」と敢えてのミーハー目線を披露したけれども、6th『剣と楓』(2011)も含めてこの期間のナンバーに対する好きの根源を探ってみると、上述した坂本さんの長所に行き着きます。
歌詞の直向きさもまた作編曲との相性が抜群です。"惑星の森"のビッグスケールで"貴方"を待つ途方もないシチュエーションに多難を覚えてなお、"レット・ミー・ダウン/飲まれて行く/レット・ミー・ダウン/どうかこのまま/愛の元でひざまづきたい"と為されるが儘に身を預け、"レット・ミー・ドラウン/溺れて行く/レット・ミー・ドラウン/助けも呼ばずに/貴方の元に届きたい"と自らを省みない危うさが提示されると、求める答えが死の中にあると解せる部分に於いては一途な想いも空恐ろしく感じられます。三度登場するサビメロの美しさは不変ながら、数を重ねるほどに深みを増すアレンジが"愛"の輪郭をぼやけさせ(歌詞に沿えば"飲まれて"、"溺れて"、"溢れて"、"こぼれて"の順で)、次第に"貴方の元"へと近付ける一方で己の存在は希薄になるというジレンマを意識すると、繰り返される願いの旋律もその都度様態が違って聴こえませんでしょうか。
■ This Silence Is Mine
20thシングル曲「This Silence Is Mine」(2013)はアルバムへの収録先がゲームのサントラか5枚目のベスト盤『REQUIEM AND SILENCE』(2020)に限られるため、オリジナルアルバムしか追っていないリスナーには知名度が低いかもしれません。しかし個人的には「BORDERLINE」の再来と形容したいほどに、強大な神々しさにノックアウトされるタイプのナンバーとの評価です。制作陣にも特筆性があり、本曲の編曲者はなんとMONACAの岡部啓一さん(ストリングスアレンジには帆足圭吾さんも参加)で、音楽制作プロダクションごとファンである自分にとってはまさに俺得のタッグでした。僕は『ドラッグ オン ドラグーン』シリーズもプレイしたことがなく、初代の有名な新宿エンドを動画で観たミーム的な知識しか持ち合わせていませんが、『DOD3』は主題歌のみならず劇伴もMONACAの面々が担当しているので、音楽好きとして『DRAG-ON DRAGOON 3 ORIGINAL SOUNDTRACK』(2014)も併せておすすめしておきます。
先に「BORDERLINE」の再来と表現したのは主にアレンジ面についての話で、その二番煎じとか焼直しというネガティブな意味では決してありません。その証拠に本曲の楽想は単純にV-C形式では片付けられず、歌詞上の表記を便宜的な区切りとすれば全てのスタンザがヴァースでありコーラスでもあると言いましょうか、徐々に激しさを得るトラックの性質に合わせてボーカルラインのフェーズも変わるプログレッシブなつくりです。イントロから2分半までは未だ平静を保っている風だけれど、その後のプログラミングの無機質さを忘れされるほどにリバーブへのこだわりが窺える雷轟の如きビートメイキングと、寂然から断続的に牙を剥き禍々しさを見せてくる弦楽との衝突を音景にしたセクションでは、基本は同一のメロディでも後半に向かうへつれて変化量が大きくなるため、新鮮に聴こえるだけでなくボルテージの上昇を感じて魂が滾ります。
"哀しみを捨てて"~は素直に新規のパートと捉えていいレベルで旋律が暴れ出し、箍が外れた状態で"身体が囁く 囁く 囁く 囁く 囁く/(your symphony is never-ending)"と内なる交響曲を浴びせられると、脳内に浮かぶは無響室で発狂する我が身です。アウトロは大先生室屋ストリングスの本領発揮で歌詞通りシンフォニックに展開し、呼吸音が織り成すバイオロジカルなリズムパターンも相俟って、エンディングの"THIS SILENCE IS MINE"には心臓を貫かれた気になりました。本曲のメッセージは"私"の構成要素が次々と削ぎ落されていった果てで、自己が完全に消え去ったとてそこに残る静寂は私のものだという確固たる存在証明だと読み解け、並のセンスであれば物質的な肉体までは奪わなさそう(身一つだけは不変で尊いを着地点にしそう)なものだけれど、"WHERE IS MY HEARTBEAT?"と鼓動まで失せていることを考えると、容赦なくその一歩先が描かれていると思えます。となると、先の「心臓を貫かれた気に~」は幻肢痛ならぬ幻心痛かもですね。
■ 夏の罪
次に紹介するのは花岡なつみへ提供した楽曲のセルフカバー「夏の罪」(2016)で、初出は21stシングル『good bye my love』のc/wです。実に13年越しで再び羽毛田さんが編曲を手掛けたという点で、本曲もまたサウンドプロデュース面に語り甲斐があります。オリジナルを歌う花岡さんがリリース当時は19歳の若さであったこと、或いは鬼束さんにとって意外にも初めての他アーティストへの書き下ろしだったことに起因してか、本曲のつくりは全体的にキャッチーです。花岡さんのVer.はアレンジがロックで疾走感があるため余計に訴求力が高く、それに比べると鬼束さんのVer.は随分しっとりと生まれ変わったように聴こえるけれども、十年以上前の羽毛田ワークスと並べてみるとボーカルの聴き易さに於いて変化が感じられ、SSWとしての鬼束さんをより前面に出す方向でバランスが取られていると分析します。要するに前々項に示した坂本さん的長所まで備えた羽毛田さんの進化が垣間見える本曲は、初期(3rdまで)と中期(6thまで)のキャリアが幸福な融合を遂げた結果の産物であり、以降の鬼束さんの音楽性に期待を持たせるのに充分だったということです。
本曲への所感は「惑星の森」へのそれと近く、サビメロの綺麗なラインにとかく惹かれています。とはいえ同曲に抱いた破滅的な美しさとは違い、本曲の旋律は哀しくも優しさに満ちていて別れの歌とはいえ先の展望を窺わせるため、より"愛"を"愛"らしく受け取れるのはこちらです。サビ始まりの美メロっぷりだけで既に名曲の予感が過り、"どうせ裏切るなら涙くらいみせて"の往年の進行に「これぞ鬼束ちひろ!」と懐かしくなり、間奏~Bメロのピアノで王道と原点回帰の良さを再認識し、サビに入ってからの繊細なパーカス遣いに羽毛田サウンドの完全復活を確信するという流れは、長くファンを続けていれば皆通ることになるだろうと勝手に同族認定します。物理的な距離では断絶があるのに精神的には折れていない健気な歌詞内容も素敵で、"砂漠に埋もれた恋の矢は/錆びることなく日々を越える"や、"どんな果てよりも 貴方は遠いひと/揺れる蜃気楼 真夏の囁き/どうせ裏切るなら/行方も知らない 私のやわなひと/続け物語 褪せない物語/どうせ叶わぬなら夢でさえもなくして"を手掛かりにすると、幸せなifに救済を見た思いです。
■ 焼ける川
タイムラインが漸く20年代に移りまして、続いては配信限定シングルの5th「焼ける川」(2020)をレビューします。後に8th『HYSTETRIA』に収められるナンバーで、同盤の制作背景の特殊性および本曲の素晴らしさについての短評が本記事の前置きにリンクしたエントリーの中に既に存在するため、アルバムの解説も兼ねて以下に一部を改変した上でセルフ引用させてください。
同作はオリジナルアルバムながら制作背景が特殊で、代表曲「月光」を発表した頃には存在していた未発表曲の数々を、20年越しで完成形まで持っていく形で作られたそうです。だけあって、流麗な美しさと荒々しい熱量が同居する旋律の妙味は若々しい感性の儘で堪能出来る一方で、現在の鬼束さんによる円熟した言語能力で紡がれた深みのある歌詞世界にも共にふれられるという、コンセプトの素晴らしさが功を奏したディスクだと絶賛します。とりわけ衝撃を受けたのは「焼ける川」で、なぜこのレベルの楽曲が今まで伏せられていたのかが不思議でなりません。メロディの力強さだけでも圧倒されること必至ですが、アレンジャーの兼松衆さんによる物語性の高いサウンドプロデュースが更なる絶頂へと誘ってくれます。歌詞の"嘘なんかで無事に行く方が/僕はとても怖い/僕はとても怖い/儚くて遠くて/君はいつだって向こう岸"には、感動と絶望が同時に押し寄せてきて言葉を失いました。
バックグラウンドの細部はソースありのWikipedia(外部リンク)に詳しいと丸投げしまして、上述のようにトラックの骨子が20年前に形作られていたことから来る懐古の情は時間の経過上当然ながら、1stを10代の頃に聴いて育った世代が編曲・演奏を担っている点で、目指すサウンドが初期のキャリアを意識したもので極自然に一致したのであろうと推測可能なところが、原点回帰のムーブに一層の説得力を与えています。余談ですが僕は兼松さんと全くの同い年なので、このサウンドが大好物なのも道理だと首肯しきりです。ここで言及を終えると昔は良かったおじさんの感想になってしまうためフォローをしますと、歌詞を認めたのは不惑の境地に至りつつある最新の鬼束さんであることと、若いミュージシャンによる当時代感覚が反映された新鮮な音作りとがシナジーを生んで、懐かしくも新しいという見事な質感への落とし込みに成功しているのは、過去に縋るタイプの後向きな思い出補正とは全然違います。
「焼ける川」という曲名からしてもう本曲が内包するエネルギーの大きさを察せて、"僕らが試した空が/こうして現実をも越えそうになる"の切迫感に焦る立ち上がりに、此方と彼方の間に横たわる隔絶を示すモチーフに"夕日に焼ける川/君はいつも向こう岸"とベタながら川が使われていると、僕の中で神曲の基準になっている「BORDERLINE」が否応なしに想起されるため、期待値が上昇しないほうが嘘になるという話です。感情豊かに"僕"の胸中を語るピアノと宛ら水流と同期して静的にも動的にも振る舞うストリングスを中心にしたナラティブなアレンジに煽られ、"激しく焼ける距離/君はいつも向こう岸/光の中じゃ上手く踊れない/そんな弱音なら燃えてしまえ"の激しい言葉と歌唱に気持ちが昂る一方で、フラジャイルな"「ここへおいで」呼ぶ声の方が/僕は今も怖い/ずっとずっと怖い/闇なら果てしない/君は何処でだって向こう岸"の恐怖と安心の描き方には共感を覚え、鼓笛隊然としたドラムスに心が漣立って曲中世界が現実に溢れ出して来たかのような錯覚に陥り、"嘘なんかで無事に行く方が/僕はとても怖い"の強烈なメッセージ性を一段と迫真に噛み締め、"君はいつだって向こう岸"の余韻に打ち拉がれるエンディングで、期待以上に感動したと結びます。
■ UNCRIMINAL
最後に8thからもう一曲、「UNCRIMINAL」も結構なお気に入りです。本曲に関しても過去に少しだけ言及しており、そのまま1stに収められていても違和感がない往年の美意識が感じられて好みとの旨を書いていました。僕の嗜好が凝ったアレンジに偏りがちなのはここまでに紹介したラインナップからも明らかでしょうが、本曲に於いては過剰な装飾が排されそのサウンドは幾分抑制的に聴こえるため、純粋に鬼束さんの領分つまり作詞作曲歌唱のマルチな才媛ぶりを評価したいのだと思います。翳が射しているのは確かながら暗く澱み切らず何処か刺々しく展開していくサビ始まりの旋律は、"償えるなら ホログラムの嘘にして/天使になどなれないままな/悪い何かの囁きにして/罰する時は 陰から陰へと響かせて/世界になど居れないままな/悪い何かのまぼろしにして"と転嫁的なフレーズのオンパレードにマッチしていて、こうすることで正常を保とうとしているのが透けて見える意味深長な歌い出しです。
興奮を努めて隠して状況を解説する喩えるなら供述調書らしいリズム感で、"片眼にゆれる小節達の死骸/すぐには理解らなかった/苛立たしい 幸福のせいで"と奇妙な世界観が提示された後に、表題に係る"ふたりは確かな非犯罪者"とこれまた含みのある言い回しが清らかなメロディと歌声に載せられて登場すると、本曲の主人公(達)はやはり何かを隠していると疑いたくなります。「無罪」や「潔白」ではなく"非犯罪者"とニュースピーク的な置き換えが適した;単に「犯罪者でない」を意味する対比的或いは未然的な使用とは違うと目される状況とは、本来罰せられるべき罪人が見過ごされた時ではないでしょうか(尤も『1984年』の世界なら敢えて見逃すポイントかもですが:犯罪中止)。対比的というのは「犯罪者」と二分する文脈、未然的は「中止犯」か『PSYCHO-PASS サイコパス』でいうところの「潜在犯」の概念です。傍から見ればラッキーに映るため"それでもよかったの"には一理あるけれども、当事者がこれを自己防衛的愚鈍だと自覚している場合には認知的不協和に苛まれることになりますよね。濫りに小説やアニメに結び付けてしまった感は否めないものの、鬼束さん独特の言辞で真意が掴みにくい歌詞だけに言語表現に非凡さのある作品を引用したということでご寛恕いただければ幸いです。
◆ おわりに
以上、過去記事の「茨の海」も含めてリストの「1st」に振り分けている上位10曲のレビューでした。中期のキャリアをすっ飛ばしてしまったので網羅的な内容とは言い難いですが、リストの「2nd/3rd」を参考にすれば「育つ雑草」(2004)や「帰り路をなくして」(2009)や「夢かも知れない」「An Fhideag Airgid」(共に2011)は高く評価していますし、リスト外でも「ラストメロディー」「陽炎」「ストーリーテラー」(全て2009)などはその頃のお気に入りです。
また、自身の若い時と比べると好みの変遷が見て取れるのも個人的に面白く、中学生までの感性に基いたフェイバリットは「Cage」(2000)に「眩暈」「イノセンス」(共に2001)に「ROLLIN'」「everything, in my hands」「流星群」「Rebel Luck」「Tiger in my love」(全て2002)と、現在ではリストの「2nd」に集中しています。リスト外でも「Our Song」(2002)や「Beautiful Fighter」(2003)は当時のヘビロテ対象でしたね。反対に昔は良さに気付けず大人になってから好きになったナンバーもあり、「シャドウ」「声」(共に2002)や「嵐が丘」(2003)はその代表格です。
こうして曲名を連ねてみると改めて層の厚さに驚かされ、良曲が揃い踏みしていると太鼓判を捺せます。デビューから20周年を迎えてもSSWとしての能力に限界を感じさせないだけでなく、常に時宜に適ったアレンジャーとの出逢いに恵まれているおかげでアルバム毎に新鮮な魅力が引き出されているため、飽くことなく今日まで聴き続けられるのでしょう。いちファンとしてはリリース間隔に斑が生じるのも鬼束さんらしさだと捉えているので、最新曲に絡めて「スロウダンス」(2021)でも愛して今後の作品を楽しみに待ちたいと思います。