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今日の一曲!スピッツ「夜を駆ける」~変容の『三日月ロック』が照らす先には~ [ある書評を副えて]
レビュー対象:「夜を駆ける」(2002)

今回取り上げる楽曲は、老若男女に愛される国民的バンドで在りながらその奏でる音楽は食み出し者まで包み込むという矛盾を止揚するスピッツの「夜を駆ける」です。過去に『とげまる』(2010)の記事では「アルバム一曲目の力学」の文脈に、『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』(2017)の記事には羽海野チカさんの漫画つながりで、それぞれ曲名を出したことがあります。
今般スピッツにフォーカスせんとする背景に特段の事情はなく心の随に従っただけなのですが、際してはとあるシンクロニシティがありました。当ブログ上に同バンドの単独記事を立てるのは「甘い手」(2000)のレビュー以来3年半ぶりで、その結びに備考として紹介した下掲の書籍が関係しています。
当時は未だ積読の状態で書評を載せたわけではなかったため、次にスピッツの記事を書くなら触れるべきだろうと考え遅蒔きながら先週中に通読しました。時を同じくして去る4日に上掲記事内のリンクを通じて同書の購入に至った方がいらっしゃったみたいで、これはもう巡り合わせが「言及するなら今!」と仕向けているに違いないと感じた次第です。
ということで主題たる「夜を駆ける」とその前置きとして収録先の『三日月ロック』について語った後に、伏見瞬著『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』の感想も併せて載せることにします。但しこの選曲は読み始めるより前に決めていて、且つ本書の内容は適従に値すると称賛こそすれ依存した文章を認めると僕個人の色が薄れてしまうので、本曲のレビュー(歌詞・メロディ・アレンジの項)に於いては直接文章を引用したり主張を援用したりを敢えて行いません。記事タイトルで書籍名を明かしていないのもこのためです。
収録先:『三日月ロック』(2002)
本曲の収録先は10thアルバム『三日月ロック』で、同盤に収録のシングル曲「遥か」「さわって・変わって」「ハネモノ」「水色の街」に関しては、「CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その2」の中でレビューしています。リンク先では「さわ変わ」のところに記してある通り、亀田誠治さんをプロデューサーに迎えてサウンドに顕著な変化が齎されたことに賛否両論あった記憶が蘇る一枚です。
中学生の時分にリアルタイムでヘビロテしていた思い出補正も相俟って僕はどちらかと言えば肯定派だけれど、従前と明確な線引きを可能とする起点になっていることは否定出来ず、先掲の書籍内[pp.89-96]で伏見さんが当時の困惑ぶりを開陳した記述とその裏付けとなる分析にも同意する部分があります。
曾ての自分は亀田さんが及ぼした影響を「これまでのスピッツにはなかったタイプの『圧』がサウンドに付加された」と表現しており、これはプログラミング(ロックバンドが鳴らし得る基本的な音像以外のスケープ)が介入することへの許容度増について述べたものでしたが、そういった音楽の構成要素とは切り離してリスナーの受け止めに話を敷衍させた場合にも、「圧」という言葉の持つネガティブな側面は正しく機能するため手前味噌ながら当を得ていると思いました。
自作のプレイリストに照らして嗜好から僕のバランス感覚を明かしてみますと、本盤からは上位30曲までに「エスカルゴ」「ガーベラ」「ハネモノ」「ババロア」「夜を駆ける」を、上位60曲までに「水色の街」を、上位90曲までに「ミカンズのテーマ」を登録しています。
シーケンサーに拠るダンサブルなアプローチで一貫している「日なたの窓に憧れて」(1992)や、実はブレイクビーツがポップさを下支えしている「運命の人」(1997)のような例を過去に取れるとはいえ、「ババロア」や「ハネモノ」のレベルでエレクトリックに振れた楽曲は紛れもなく新機軸で、「ガーベラ」にも装飾として電子音が効果的に使われており音の積み重ね方もテクノ的です。
「夜を駆ける」と「水色の街」は何方も劇伴の如き豊かなサウンドデザインがこれまでにない深い聴き味を供していますし、「ミカンズのテーマ」は別バンドをifする曲名通りのテーマ性からして係るアウトプットもスピッツにしては多弁のきらいがあります。純粋にバンドサウンドのみの「エスカルゴ」ですらそのプレイは多層的です。
総じて従来のスピッツにプラスアルファする仕上がりで、これを好意的に受け取れたものには適切なシナジーを覚えて絶賛する傾向にあれど、反対に過干渉気味に感じられる「さわって・変わって」や「けもの道」などは、詞曲の素晴らしさに対するアレンジの大仰さに身構えてしまうためにリスト外になっていると理由付けます。
ただ、本作『三日月ロック』に限ってはプログラミングないしマニピュレーションの担当が中山信彦さんであるという唯一性があるため(以降の11th~12thでは亀田さんがメイン、13thのみ亀田さんと豊田泰孝さんの分担、14th~17thでは豊田さんがメイン)、結果として殊更に異質さが強調されている面はあるかもしれません。
上掲リンクは懐かしの音楽雑誌『WHAT's IN?』(2002, vol.15, no.10)のもので、その[pp.132-134]にはアルバムリリース時の特集記事があります。そこではインタビュアー平山雄一さんの「いろんな面白い音が入ってる」に対して、ベースの田村明浩さんが「それはマニピュレーターの中山(信彦)さんのせい」と名指しており、これは勿論以下の通りポジティブな意味合いです。
次いでフロントマンの草野マサムネさんが「テクノロジーの音」の導入是非について葛藤を述べた後に、「中山さんは俺らに支配されるテクノロジーを考えてきてくれる」と信頼を寄せた言を副え、再びの田村さんが「人力な感じのテクノロジー(笑)」と端的に表してくれています。
歌詞(作詞:草野正宗)
自身の歌詞解釈を披露する前に先掲雑誌から関連記述を紹介しますと、草野さんが本曲の歌詞を書く前に昔アルバイトをしていた立川に赴いたそうで、その際には街の変容ぶりに驚いた旨が語られていました。曰く「すごい無機質になってて無気味なところだと思って歩いて」とまずは困惑が来るも、その風景にすら遊んでいる子供やスケボーを嗜む人がいて宛ら「映画の一場面みたいにイメージしちゃって」と回想されています。
このように具体的なエピソードから起こされた歌詞世界の場合、何処までが写し取った現実で何処からが隣り合わせた虚構かの分別に悩み勝ちになりますが、僕は予てから折々の経験(後述)に基づいて「非常にリアリティを伴った夜の逢瀬が描かれているもの」とストレートに捉えている節があるため、即物的な理解を主軸に据えつつ観念的な読み解きも連ねることにしましょう。大まかに三部構成でかなりの長文を予告しておきます。
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本曲の登場人物は"僕"と"君"の"二人"だけで、他の一切は"誰もいない市街地"で否定されることは揺るがない前提です。その上で両者の関係性は"似てない僕らは 細い糸で繋がっている/よくある赤いやつじゃなく"に過不足なく描写され、運命の赤い糸に非ずの自己認識は一見して色恋沙汰を排除しているかのように映ります。
しかし「何れ結ばれない二人の話」との過程に重きを置けばラブソングの線も消し切れず、実際僕は寧ろ愛だの恋だのに結び付けたい受け止めをしていて、そうでなければ仮令"でたらめに描いた"ものであろうとも"バラ色の想像図"という希望に満ちた言い回しが、態々歌詞カードに色付け*1(おそらくそのままカラーコード#FF007Fの薔薇色)されてまで登場しないと思うのです。
※ 1 本曲だけでなく『三日月ロック』の収録の別曲でも、色に関連する言葉には対応する色付けがなされています。例えば「海を見に行こう」の"若葉の色"や「遥か」の"夏の色"が、具体的にどういう色なのかを知れるのは現物ならではのアドバンテージです。
ちなみに先の"赤"には#FF0000が宛がわれていて、ここアメブロの編集画面に於いても文字色を決めるカラーパレットのカスタム機能に採用されている、12時の位置に赤が来るタイプの色相環(円に内接する正三角形△ABCがあるとして、Aが赤[R, 255-0-0|0°, 12時]、Bが青[B, 0-0-255|240°, 8時]、Cが緑[G, 0-255-0|120°, 4時]となるもの)に当て嵌めて比較をすると、薔薇色は330°*2でつまり11時(下掲画像で○の位置)を指し示します。
※ 2 そも#FF007F=薔薇色の出典が不明(色としてのroseを翻訳した?)で、ブライトピンクや鮮やかな赤紫色と表される値でもあるようですし、色相環/カラーホイール/カラーサークルおよびHSV/RGBの概念が混交している図があったり、色の相対的な関係さえ合っていれば良いからか同じ概念図でも表示に統一性がなかったりと、参照先が恣意的な点はご寛恕ください。
"いつしか止まった時計が/永遠の自由を与える"とあるように、"バラ色"を夢見たまま23時(=今日)に止まって居られれば、"よくある赤いやつじゃなく"が残酷に突き付ける「午前0時以降(=明日)に持ち越せない関係性」を超えられるかもしれないとの、いじらしい気付きが色相を時間に変換することで浮かび上がって来ます。まぁここまで捏ね繰り回さなくても、赤を到達点と見做した時にピンク系統の色がそれ未満を表すことは腹落ちし易いでしょう。
ここで"バラ色の想像図"を未来に位置付けていないのは、それが訪れないもの即ち想像の域を出ないと解しているからです。そのことは直後の"西に稲妻 光る"によっても補強され、タイムラインの西とは要するに過去方向(X座標でなら負の方向)ですから、反未来の圧力が強いがゆえに"滅びの定め"にも自覚があって"破って 駆けていく"決意に身を委ねているのだと思います。
この"破って"すら未遂で捉えているのは時が止まっているからで、実際の時間の流れから切り離された"永遠"の中に、更に言えば現実の空間からも切り離された"誰もいない市街地"に活路を見出している以上、いざ時が動き出したら"二人"に待ち受けているのは別離の運命のみです。係る"永遠"を文字通り永遠に留めておけるなら、"駆けていく"必要性がありませんからね。
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続いては"二人"に想定される年齢から話を広げていきます。"甘くて苦いベロの先 もう一度"という官能的な一節が認められるとはいえ、個人的に思い浮かべるビジョンは成る丈ジュブナイルなものです。これは収録先の項でアルバムに対して述べた、「中学生の時分にリアルタイムでヘビロテしていた思い出補正も相俟って」が同じく理由として機能します。
自分語りに伴う俄な俗っぽさと性指向の限定をご容赦願いまして、"目と目が合うたび笑う"の関係性にはなりつつも結局付き合うには至らなかった異性と夜の街に繰り出して二人きりで遊んだ経験が、中高大院社の各フェーズに存在するくらいには月並みな遍歴を歩んでいるのが僕という人物です。本項の冒頭で後述とした、「非常にリアリティを伴った夜の逢瀬が描かれている」との所感はこの手の過去に基いています。
目下の文脈では「至らなかった事実」こそが肝要なので、経験が積み重なって確率的に成功体験のほうが優勢になる大院社のケースでは一般論でも説得力に欠く気がするため除外*3していくと、必然的に未熟な"二人"で在って欲しい気持ちが残るわけです。"転がった背中 冷たいコンクリートの感じ"から伝う無邪気さとの対比で、"甘くて苦いベロの先 もう一度"の生々しさが際立っているとも言えますからね。
※ 3 と言いつつ、甚く現実的な表現が散見される点で違いこそあれ本曲とシチュエーションが似ているBase Ball Bear「不思議な夜」(2015)の歌詞解釈では、「ザ・大学生感」の顕さと「満更でもない関係」をあるあるとして提示していました。加えて、下掲のMVでは制服の男女が主役となっており、次第に二人以外の人気(ひとけ)がなくなっていく流れと"夜を駆けていく"と言って差し支えない終盤のシーンは、以降の説明を絵的に補足するものとなります。
自分達だけではコントロール不可能な外的圧力に曝され易いという意味でも若さは必死さの根源たり得ますから、"夜を駆けていく 今は撃たないで"は率直に「この逢瀬を邪魔してくれるな」との懇願で、"君と遊ぶ 誰もいない市街地"は幸せな盲目の常套句「君しか見えない」がために群衆の解像度が極端に下がっていることの表現とも受け取れそうです。
要するに経験上このような自己陶酔に浸っていたのは多感な頃だったよなとのパーソナルな紐付けで、ゆえに他者による大人の解釈を否定するものでは決してありません。けれども洗練されるほどの経年を窺わせない"研がない強がり"や、"よじれた金網を いつものように飛び越えて"に幻視する軽快な動作感は子供らしいと感じます。
"壁の落書き"に意識が向くのも若さに繋がりそうで、ここで想起されるのは場所を特定しない無名のグラフィティだと思いますが、草野さんが着想を得た立川*4周辺に拘ってきちんとした作品を例示するのも一興です。駅の改札外コンコースにある壁画元い陶板レリーフ「光と緑の祀り」(1983~)だったり、都道55号線通称日産通りの一部(ニッサン夢通り)にある塀に当時の小中高生が原画を担って描かれた壁画「夢と希望」(1988?~2004?)だったりも、時期的な齟齬がないので大学生時代の草野さんの意識下に残っていたのではないかと妄想します。
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最後は状況設定をガラッと変えて新たな視点を持ち込みまして、戦禍の街が舞台の可能性について述べます。正直この解釈は本記事を書き始めるまでは殆ど念頭になかったもので、しかしWikipedia「三日月ロック」の頁(外部リンク)に出典付きで紹介されていた漫画『ワールドトリガー』関連の小ネタ;主人公のイメージソングとして曲名が挙げられていることを知った途端、そういえばリリース当時の自分も本曲から漫画『GANTZ』の世界観を連想したことがあるなと記憶が蘇りました。
ざっくり両作ともフィクショナルなシチュエーションでの市街戦をリアルに描いたSF作品と説明可能で、夜間の戦闘が一段と映えるつくりであるのも特徴のひとつと言えます(参考:下掲アニメ版ティザー動画)。共に大のお気に入りではありますが今は漫画語りがしたいわけではないため扨置きまして、"誰もいない市街地"が先述した盲目ゆえの解像度低下でもシンプルに深夜だからでも或いは空想上の存在だからでもなく、人が住めなくなった街だからという立脚地には一考の余地ありです。
その前提で街を見ていくと、"よじれた金網"や"止まった時計"は攻撃の爪痕に思えてきますし、"今は撃たないで"は比喩ですらないと空恐ろしくなります。より悪い想像を働かせれば、"転がった背中 冷たいコンクリートの感じ"の時点で"君"が撃たれたのではないかとの不安が頭を擡げ、2番サビ以降は負さるなり抱きかかえるなりの形で逃避を続行している"二人"の姿が浮かびました。
その状況下での"でたらめに描いた バラ色の想像図"とは僅かな希望に縋ってでも生き残りたい一心の急激な発露で、"西に稲妻 光る"は戦闘機かミサイルによる脅威が間近であることの追い打ちに映ります。"滅びの定め"が文字通り死を意味するなら"破って 駆けていく"と発破を掛けるほかありませんし、"目と目が合うたび笑う"にも事切れる寸前の人が気丈に振る舞って見せる類の笑顔がちらついて泣けそうです。
アルバムに於ける次曲「水色の街」を『CYCLE HIT』の記事でレビューした際には、「死を匂わせる歌詞内容」「寂寥感のあるサウンドに覚える刹那的なイメージ」「此岸と彼岸」「あの世の構造物の如き印象」「正道を外れていることの証左」と、悉く死に直結させる表現を多用していました。この流れが意識されているなら、上記の解釈を補強するものとなるでしょう。
メロディ(作曲:草野正宗)
当ブログのメロディ区分のルールに従うと、本曲の楽想はヴァース-コーラス形式で扱うと都合が好いので、本項に限っては所謂AメロをV|サビメロをCと表します。
主に舞台設定や状況説明を担っているVは、その役割に忠実なナラティブな進行が特徴です。美麗だけれど抑制的な旋律が二度繰り返された後に、"見上げた夜空"の歌詞に反して下降する音運びに機微を察せる旋律が来るのを基本としています。それを4セット積み重ねることで"君"と"落ち合"うまでのバックグラウンドが焦らしつつ物語られ、漸くの変化が"浸みていく"に訪れてその短いながらに期待に満ちたラインはCへの橋渡しとして的確です。
"君と遊ぶ"高揚感に舞い上がるCは対照的にメロディアスで、都度ピークを更新していく旋律が畳み掛けられるため、"僕"の喜びようが痛いほどに伝わってきます。山なりのメロディと表したい"夜を駆けていく"に走りの軌道(駆け出し→ トップスピード → 減速)を重ね、先の高揚感が一転して緊張感に変質する"今は撃たないで"およびその危機から救ってくれそうな誘惑の"灯り"に対する音の配置には、「足掻き」の性質が感じられてこれまたピークを上書きする構成が活きているなと感じました。間奏に逃避行の模様を引き継ぐ"駆けていく"の力強くも儚い着地のさせ方も抒情的です。
アレンジ(編曲:スピッツ & 亀田誠治)
本曲を初めて聴いた中学生の頃から23年後の現在に至るまで、演奏面でずっと衝撃を受け続けている要素があります。それはサビから間奏にかけてのドラムプレイで、主旋律またはその他の楽器に対してこんなにも独特なパターンが存在するのかと聴く度に感心するばかりです。
僕が時偶使う言葉で表すなら「ギャロッピング」(襲歩)な律動に属するフレージングで、馬の駆け方として最速のそれに擬えるのは楽曲のテーマからしても相応しいと烏滸がましくもその意図を正しく掴めている気でいます。収録先の項に紹介した雑誌中のインタビューでは、同じく歌詞の項に引用した草野さんによる立川でのエピソードを受けて、崎山龍男さんが「その詞の断片がリハのときに聴こえてきて、イメージが広がって演奏に反映したり、ヒントになったりしましたね」と応じているため、大きく外してはいないだろうと補足させてください。
しかしただそれだけでは上掲リンクの通り過去にもこの言葉でリズムやビートについて言及したことがある事実と相容れず、本曲の白眉たる所以を説明出来ていません。ゆえに独自性を考えてみたところ、符割り*5が殊更に技巧的なのではとの結論を得ました。そもギャロッピングと形容されるパターンは変則的になり勝ちとはいえ、その目的は疾走感の付与だと推察されるのでトップスピードを維持する連続性こそが肝要なのだと思います。
※ 5 漢字の違いだけで意味としては同じなのですが、メロディの話ではないことを強調するために「譜割り」とは異なる表記にしました。
その点で本曲はやや連続性に欠ける部分があって、それは緩急に鼓笛隊然とした規律が窺えるからというか休符が妙な位置に置かれているせいだと推測します。フィルの後に崎山さんだけが別のグルーヴに軸を置き、他の3人はそれに乗らないという意図的なズレが展開されるお蔭で、何処か不格好なギャロップで駆けていくサウンドスケープが滲むのでしょう。下手を打てば耳障りなアウトプットに陥りそうな音像を、全く心地好く奏でられるスピッツの高い演奏力に惚れ惚れします。
この一点を語りたいがために本曲をレビュー対象にしたまであるので残りは一挙に済ませますと、ピアノによる切なげなリフと幻惑的なパッドシンセが織り成す「夜に揺らめく光のビジョン」を基調として、アコギのシンプルな聴き味にリズム隊のタイトなプレイが重なってじわじわと音に厚みが生まれ、空間を満たすように次第に存在感を増していくギターが最後のピースとして嵌まるという、サビまでの下準備にも抜かりがないからこその深い物語性が秀逸です。
伏見瞬『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』(2021)
最後に小見出しの書籍に関して読む楽しみを奪わない程度の感想を載せます。予め「本曲のレビュー(歌詞・メロディ・アレンジの項)に於いては直接文章を引用したり主張を援用したりを敢えて行いません」と宣言した通りの記述にこれまで努めて来ましたが、本書を読了してから本記事を読み進めていた方なら事あるごとに「これも『分裂』だな」と指摘したい気持ちに駆られたことでしょう。…と見通したくなるほど、種々の観点から如何に「スピッツの音楽が『分裂』しているか」についての詳細な考察が根拠と共に披露される内容です。
この場での「分裂」とは字面や辞書的な意味から受ける後向きな印象に終始するものではなく、僕が本記事の冒頭に使用した対スピッツの形容「矛盾を止揚する」に窺えるような相容れないものが高次元で成立している様だったり、収録先の項に挙げた雑誌の中で田村さんが中山さんのプログラミングに関して「人力な感じのテクノロジー」と表現した撞着語法的なものだったり、係る分裂を違和感なく或いは良い違和感としてリスナーに提示出来ている凄さを謳っています。
別けても「(第4章)メロディについて―――〝反復〟と〝変化〟」[pp.103-126]に行われている「愛のことば」(1995)の徹底的な聴き解きは驚嘆に値し、メロディとコードの関係性を中心に歌詞と旋律の相互作用に関して楽典的に深く分析されているのは勿論のこと、歌唱力との兼ね合いや楽器の持つ役割にMVの世界観まで論証の材料としており、「これぞ音楽レビューの理想形」と言える冴えた文章に触れられるのは喜びです。
また、「(第8章)憧れについて―――〝人間〟と〝野生〟」の中で8thアルバム『フェイクファー』(1998)を取り立てるセクション[pp.229-232]では、直接引用して「ジャケット、歌詞カード、CDケースと、プロダクトデザインのあらゆる要素」への言及が見られます。そういった楽曲の周辺に鏤められているヒントも考慮に入れてこそ完全だと、昨今のサブスク全盛にアンチテーゼを投げ掛けることにも繋がるけれど「旧来からある当たり前の楽しみ方」を是とする姿勢は、本記事に於いても見習っています。
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以下、本書や著者に対するものではなく特定のリスナーを対象に取るクリティカルな目線を盛り込むため、文章が刺々しくなりますよと事前の注意喚起です。なお、こんな深層まで本記事を精読出来ている事実と絶対数の少なさに依る確率的に、今この記事をお読みになっている貴方には当て嵌まらないはずなのでご安心をと先んじてフォローしておきます。
スピッツはその歌詞世界が就中に読み解き甲斐があるからか、その解釈や考察を行うサイト・ブログまたはSNSでの発信が他のアーティストに比して多い印象です。先月の上旬にとある調べものをしていて、スピッツと直接的には関係がないもののサンプルに適した存在であるために、「スピッツ 歌詞」に加えて詳細も数も明かさないワード「○○」*6を付してSNSを検索する機会がありました。
※ 6 以下に頻出する「解釈」「考察」「意見」のような単語ではないため、探ろうとしても詮無いです。その時には未だ本書を読んでいませんしスピッツの記事を書く予定もなかったので、調べものに関する間接的なものでしかなく推測は不可能でしょう。以降も特定を防ぐ言い回しに都度手ずから変換しておりフェイクもありです。
そのうちの98%は個人の健全な意見の範疇だったがゆえに物申すことは特にありませんが、残る2%には僕が曾て「歌ウサギ」(2017)の解釈に付随して書き上げた歌詞創作に対するイデオロギー塗れの記事で糾弾した「毒電波」の使い手が紛れており、不快な思いをしたことを白状します(当ブログに対するものを見つけたわけではありません)。厳密には文脈が異なるため態々リンク先を確認せずとも子細なく、次のようなタイプを論っているとお含み置きください。
即ち「こんなものは歌詞解釈ですらない」とか「この歌詞を考察するのにこの要素に言及しないなど有り得ない」とかの、自分を草野正宗だと勘違いしているのか?と皮肉りたいレベルで自らの理解を無根拠に絶対視した発言です。それでいて己の解釈や考察は殆ど表明しておらず、意趣を返して「こんなものは批評ですらない」とか「他者の意見を批判するのに自分の意見を述べないなど有り得ない」とかの、カウンターワードを突き付ければ押し黙ってしまいそうな無責任さを窺わせる極々一部の人についてのみ適用されます。当然インプレッションにもエンゲージメントにも乏しいやつです。
そういうノイジーマイノリティにこそ突き付けたいのが前述した「音楽レビューの理想形」および「旧来からある当たり前の楽しみ方」の話で、他者の解釈や考察にケチをつけられるほど自説には強固な正当性が有ると主張するのであれば、まさか歌詞だけを玩んで一から十までを知った気になってはいませんよね?と、そもそもきちんと「音楽についての解釈・考察」が出来ているのかの問いに何と答えるのか意地悪な興味をそそられます。
誤解のないように念押しをしますと、特段他人の意見を必要とせずただ自分なりの意見を述べている大多数のもの、もしくは他者を否定するにしても自らの意見と共に論拠を示している真っ当な批評家のものであるなら、解釈や考察と称して歌詞のみを掘り下げていてもそれが不適格な代物とは微塵も思いません。飽くまで「他者に噛み付くのであれば」の前提ありきです。そのくせ自分の意見は満足に表明していなかったり、作詞者本人でもないのに謎の自信を伴って断定延いて断罪を繰り返したりしていたら、何様だよと呆れる以外に持ち得る感情があるでしょうか。
何より悲しく恐ろしいのは、一家言を持つほどにはスピッツの音楽に慣れ親しんでいるのに、他者の理解や感性についてそこまで無頓着になれる人間が、且つそれを全世界に発信してしまう人間が、僅かにでも居るという事実です。分裂からも溢れて分断に独り閉じ込められていることに気付かず、壁打ちの模様を生中継して耳目を集めたいちぐはぐさが違和感の正体かなという気がします。その状況を本心から受け容れている孤高の人ならば鍵垢でやると思いますし、ゆえに公開垢で孤立している類同は3%にも満たないのでしょう。
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話を本書に戻して、ともすればこの『スピッツ論』ですら制作者の意図を推し測り過ぎていると目されそうな記述がないわけではないけれど、そこは伏見さんの豊富な知識量と巧みな文章力で以て〝とげ〟が〝まる〟くなっています。
音楽に込められた意図を語る際には楽典的な根拠が示されていますし、類似性を指摘する場合にはその裏付けとなる情報が明かされているからです。大勢の見方から逸脱しそうな独自の意見を述べる時には、それを否定しない前置きを挟んだり断定を避ける言い回しにしたりと、とかく配慮が行き届いていて嫌な読後感は覚えませんでした。
3年半前の「甘い手」の記事で本書の序文のみを紹介した際には、「『作品の内実と音楽家の人生』[p.5]の力関係についてきちんとふれている」点を信頼に足る立場の表明だと期待を寄せていましたが、読了後には改めて筆者の音楽レビューに対する真摯な向き合い方には手本としたいものがあるなと得心がいっています。
先述したような「言葉だけを取り出して音楽を正しく論評出来るものか」との観点にふれた上で歌詞解釈(「言葉と音の相互影響」[p.6])に重点を置く旨が示され、更には楽典的な要素も棄て置かない(「音の鳴り方も蔑ろにはしない」[p.6])と宣言された通りに充実の内容でしたので、ここまで網羅して尚謙虚なスタンスで居られてこそスピッツのリスナーであるとの解釈が一致しました。