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今日の一曲!BUMP OF CHICKEN「HAPPY」~大人になって願う事~

 

レビュー対象:「HAPPY」(2010)

 

 今回取り上げる楽曲は、詞曲編の全てに物語を紡いで普遍的ながらに個人的でもあるナラティブな音楽性をトップシーンで奏で続けているバンド、BUMP OF CHICKENの「HAPPY」です。本曲に関してはリリース当時に収録先のアルバムを紹介する中で一度レビューしているのにも拘らず、今般改めて本曲に向き合う動機を次項に説明します。予告しておくと本記事は半ば特集と言えるほどに複数の楽曲へと話が飛ぶ構成なのでその質量にご期待ください。

 

 

 

背景:なぜ今「HAPPY」なのか?

 

 

 普段のフォーマットであればここは収録先について語るパートですので、初出のシングル『HAPPY』(2010)か初出のアルバム『COSMONAUT』(2010)の内容を掘り下げているところです。しかし前者は過去にc/wの「pinkie」をレビューした記事をアップしている点が、後者は15年前の拙い文章とはいえ一応は全曲にフォーカスしたディスク評が存在する点が、それぞれ見送りの理由となります。

 

 というわけで選曲の背景解説への代替をご寛恕願いまして、元より「次はバンプの楽曲を取り立てよう!」と心に留めていたがゆえの逡巡と変遷が以下の通り(フェーズ別に①~④)です。前置きにしては諄くて恐縮ですが、数曲を例示する気軽なアーティスト評としてご覧ください。

 

 ① 最初の候補曲は同じく『COSMONAUT』収録の「イノセント」で、更にサブレビュー対象として「キャラバン」(2010)も据えて、歌詞創作のイデオロギーに塗れたタフな記事を執筆するつもりでした。これは前々回のスピッツの記事にセルフ触発されたからなので、言わんとするところはリンク先に丸投げします。

 

 ② けれど当ブログを振り返ってみると最後にバンプの楽曲をメインにした記事は約3年半前の「Stage of the ground」(2002)のもの、加えて過去の11記事に於けるレビュー対象をリリース年で比較したら殆どがゼロ年代とテン年代初期、最新でも10年以上前の「(please) forgive」(2014)という時期の偏りないし狭さが浮かび上がって来ました。

 

 

 ③ であれば新しめの楽曲を紹介するべきだろうと考え、令和以降に限っては最も琴線に触れるものがあった「窓の中から」(2023)をレビューすることにほぼ決まりかけます。ちなみに自作のプレイリストに照らすとバンプは20*3の全60曲編成で、そのうち令和から登録しているのは上位40曲までに「邂逅」と「窓の中から」、上位60曲までに「Sleep Walking Orchestra」「月虹」「クロノスタシス」「なないろ」の都合6曲です。基本的には平成バンプが好きであるのは否めません。

 

 ④ 突然話変わりまして先月の23日は秋分の日で祝日でしたね。暦とはズレて漸く処暑の候を体感する過ごし易い頃合いでしたので、その日はリフレッシュを目的にプチ遠出をしました。お供は当然音楽なので前述のリストを本来の使い方であるDAPのランダム再生に利用していた折、期せず流れた「HAPPY」が余りにも感動的に響いて来たため、この万感交々至る思いを文字化しない手はないと晴れて最終的なレビュー対象に選んだのです。

 

 

 ここまで話して①に名前を挙げたスピッツが偶然にも布石となったことを明かします。上掲リンクカードのページに書かれているラジオ番組内での発言をソースにした記述に拠れば、フロントマンの草野マサムネさんが同曲を「マジで泣いた曲」と絶賛していたそうです。「震災の年によく聴いていた」はおそらく3.11のことでしょうから、当時44歳の草野さんが心を打たれたのと同様に僕も本曲の真の良さをアラフォーになってから気付けた点で共感を覚えました。

 

 その時の草野さんはアラフィフ一歩手前、現在の僕はアラフォーなりたてなので実際には一回り近い年齢差があり、係る重みも別次元であろうときちんと弁えまして、ともかくこれがダメ押しとなって①~③の経緯は扨置くことになった次第です。とはいえ全く蔑ろにするのもつまらないので、ここまでに曲名を出した幾つかの楽曲については以降のパートに適宜援用したいと思います。

 

 

 

歌詞(作詞:藤原基央)

 

 本記事の副題にもそのまま引用したように、書き出しの一行目に"大人になって願う事"とある時点で、本曲の歌詞が経年と共に味わい深くなる点は端から示唆的です。そこでまずは作詞者である藤原さん(1979年生の現46歳)の世代観を当人の言から推察してみましょう。

 

 

 音源としての発表は先述した通り2010年ですが、上掲の雑誌『ROCKIN'ON JAPAN.』(2010, vol.24, no.4)にて藤原さんが顧みて曰く、「〝HAPPY〟を書いたのは <中略> 2008年」でより具体的には「2008年の秋の終わりぐらい」[共にp.61]だそうです。リアルタイムの心情をソングライティングに反映させているのであれば、素直に29歳の感覚で紡がれたものと見做すのが自然です。

 

 事実この「30歳になる前に」の立脚地は当該のインタビューに於いても擦られており、その後編が掲載されている次号(2010, vol.24, no.5)では「『20代最後の――』っていうのは、そのリクエストに応えて30になるまでに書けた曲は4曲しかない」[p.63]と述べた上で、「HAPPY」がその一つとされています。これらの発言に鑑みて得られる前提は、もっと若い頃に背伸びをして書いたわけではなく、年相応の説得力を有しているということです。

 

 

 楽曲の成立時期を確定させる目的での紹介でしたので、年齢やキャリアが制作に及ぼした哲学の詳細は出典とした二冊に当たってくださいと割愛しまして、それでも以下の一節に限っては今後の話の組み立てに重要なので直接引用します。文脈的には「魔法の料理 ~君から君へ~」(2010)への言及で、同曲もまた先述した「4曲しかない」うちの一つです。

 

 「30目前にした自分が、その当時の自分に、『今はこうです』っていうふうに言ってるようなタッチではありますが。今の自分に40、50を目前にしてる自分が言ってるようにも聞こえてくるので。そこが歌の力なんじゃねえかなって」 [no.4, p.66]

 

 これ以降に続く文章も考慮して藤原さんが上記で伝えんとする意図を端的にすると、大方が王道に解釈するであろう前者(現在から過去へ)が全てではなく、後者(未来から現在へ)の理解も可能であるし寧ろその曖昧さこそが肝との主張と言えます。この辺りの機微は藤原さんが言語化に消極的でフィーリング指向の発言が散見されるため、捉え違いをしていたら申し訳ありませんが少なくとも僕は斯様に受け取りました。

 

 

 何故ならこの視座は「HAPPY」延いて『COSMONAUT』にも敷衍出来ますし、アラフォーなりたての自分に今般「HAPPY」が強く刺さったのは、即時的に我が意を得たりと感じたからだけに止まらず、暗示的に我が身の行く末を案じて一層のリアリティを覚えたからというのが実情だからです。…と、ここまで述べてやっと個人的な歌詞解釈に入ります。

 

 

 ド頭に"健康な体があればいい"と、"大人になって願う事"の定番中の定番が来るのは親しみ易く、書き出しのフックとして満点です。「健康は二の次!」を若さの定義とすることには過去の経験から同意しますし、その衰えを自虐や哀愁で済ませられているうちは未だマシということは現在の自分が知っています。そしていつしか不健康を一切軽んじられない瞬間が訪れるのだろうとの嫌なビジョンを、健診の結果だったり身近な先達の実体験だったりを通じてそう遠くない将来に幻視している悲しき現状です。

 

 こうして肉体的な話に限っても能天気では居られないのに、続く一行は精神に追い打ちを掛けて来ます。"心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった"には説明不要のボーナビリティ(バルネラビリティ)が謳われており、齢を重ねることで逆に鈍くなるレジリエンスの領域もあるよなと腹落ちです。

 

 

 この乖離は心中に"少年はまだ生きていて"こそ際立ち、本来或いは理想では等価であるべき人間の価値について"命の値段を測っている"と一見残酷な役割を与えているのは、未来の自分に広大無辺の可能性を信じられていた子供らしさに起因するからでしょう。しかし実際は"大人"の心に隠れ棲む"少年"の話ですのでその物差しには一見した通りの残酷さも宿り、果たして今の自分にどれだけの社会的価値があるのだろうかと値踏みすることはある種のセルフハームです。

 

 ここでふと思い出されるのは過去にレビューしたことがあってリリース時期も近い「モーターサイクル」(2010)で、"レッカー 新車 滲んだライフ 罪無きマネーがお片付け/重力 地球 人の価格 イカロスとは違うよ全然"との断片的な歌詞から、奪われた命にはステータスに応じた値段が付いて差別化される現実を察せます。逸失利益と慰謝料の計算項目が細かく設定されていることの合理性は恐ろしいですが、同時に命に対する最低保証(本来はプライスレスゆえ)の尊敬を窺い知れる設計でもあるため、加害者にも被害者にもなりたくないなと縮こまるばかりです。

 

 

 抽象的にも具体的にも"命の値段"に関しては厄介だということを歌詞通り"色々どうにか受けとめて"、以降"落書き"から"片付け中"までは全てレジリエンス構築に努めるフレージングと言えますので、折り合いを付けようとしているところは流石大人だと自分で自分を褒めておきましょう。

 

 そんな葛藤をお構いなしに"これほど容易く日は昇る"と無常に時は流れてしまうけれど、それ自体をポジティブに捉えた言葉として俗に「時(間)薬」や「日にち薬」というものがあります。サビ入りの歌詞はその概念を認めつつも一歩進んで捻くれた観点を提示しているところが藤原節炸裂です。ずばり"悲しみは消えるというなら 喜びだってそういうものだろう"は実感に即していて、理屈を捏ね回すなら両者は表裏一体だからとか感情は何であれ時間経過で薄れるものだからとかを尤もらしい解として挙げられます。

 

 その後には"誰"と"自分"と"相手"が登場して人称をコンプリートするも、結局自分のことは自分でどうにかするしかないという極り切らない覚悟が、"教わらなかった歩き方で 注意深く進む"との素敵な表現に込められており好みです。この"教わらなかった歩き方"は二通りに解釈可能との理解で、一つは「誰に教わるでもなく歩けたように今後も歩めるだろう」との生得的なもの、もう一つを「普通とは異なる歩き方でも進むことは出来る」の個性的なものと見れば、その何方もがこれからを生きる後押しとなります。

 

 

 「歩く」は究極の普遍性を備えているため歌詞のモチーフに於いても定石だけれど、バンプは殊更に「歩いていくこと」を大切にするバンドだと認識しています。例えば「Stage of the ground」はまさにそれを象徴する内容ですし、上掲リンクカードの条件でヒットする楽曲群の歌詞を読むことでもその裏付けは容易です。「ダイヤモンド」(2000)や「涙のふるさと」(2006)のように、前に進むために道を引き返す選択も是とされています。一方で曲名に表れる場合は「歩く幽霊」(2011)に「Sleep Walking Orchestra」(2023)と、特殊な状況を宛がっているのがユニークです。

 

 より厳密に"歩き方"に限定すると「HAPPY」以外での使用例は「月虹」(2019)にあり、"僕の正しさなんか僕だけのもの/どんな歩き方だって会いに行くよ"は先述の個性的解釈をフォローします。加えて「なないろ」(2021)の歌詞世界は「HAPPY」の延長線上にあるように感じ、"歩く"に係る描写のみならず以降に言及する"傷"および"虹"の位置付けも未来志向に結び付けられると思いました(後述)。同曲は"起き方"を思い出させてくれるところに優しさが溢れています。

 

 

 2番に移って二つ目の"大人になって願う事"は、"膨大な知識があればいい"です。「キャラバン」の歌詞では"知っている様で 知らない事 知識だけで知恵が無い事"と悪し様に扱われている「知識」ですが、そう自虐出来るのは若い時分ゆえの劣等感と早計な諦念に根差しているからこそだという気がしますので、大人になってから物を言うのはやはり知識量で多ければ多いほど身を助けるものだと首肯します。知者不惑とも言いますし、四十而不惑ですからね。知行合一であれば尚良しです。因みに知恵をネガティブに捉える「知恵多ければ憤り多し」という旧約聖書由来の言葉もあって、その憤りを根源から断つには正しい知識が求められるので何方も大切と言えましょう。

 

 現在との乖離を印象付ける存在は今度は性別が替わって"少女"になりまして、"本当の事だけ探している"の純粋さは蓋し少女らしくあります。しかしこの文脈でも1番と同様に"大人"の心に息衝く"少女"の話なので、未確定の"誰か"のために"笑う事よりも大切な"価値を見出す強かな女性像には全く子供らしさが感じられません。結婚や家庭へのプレッシャーを匂わせる巧みな言葉繰りだと思います。

 

 1番では「レジリエンス構築に努めるフレージング」と纏めてしまったBメロのスタンザは2番でもその役割を担っており、"優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま"のどうしようもない気付きは、更に時が流れた後と仮定した「なないろ」に"治らない古い傷は 無かったかのように隠す お日様が"と歌われてい

ように、共存関係に昇華される類のものであると信じたいです。仮令痛みであろうと"感じる事"すら不能になったらそれ即ち心の喪失ですからね。

 

 

 2番サビの一行目"終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる"もまた二通りの解釈を許し得るとの受け止めで、一つは"終わらせる"を死の婉曲表現と捉えて「そのための勇気なら生きる選択に転用しよう」と思い止まらせるメッセージ、もう一つはこの二択を何か重要な決断の話と見做して「実は択一ではなく終わらせるのも続けるのも正解だよ」と否定しないスタンスを指していると読み解けます。"終わらせる勇気"を出せたのも"続きを選ぶ恐怖"に打ち克ったのも共に凄くて偉いといった理解です。後述しますがラスサビの歌詞に照らすと前者での解釈が自然だと思うので、"終わらせる"に肯定的な余地を残す後者は飽くまで深読みの結果であるとお含み置きください。

 

 どう解釈したにせよ続く"無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて"が岐路に立たされた遍く人の苦難に優しく寄り添い、アーティストの手に成る歌詞というリスナーの立場からすれば"借り物の力"であろうとも、心を動かす原動力となるなら"構わない"として"僕と一緒に歌おう"と結ばれているところが、本曲に覚える感動の源泉であると言えます。ゆえに満を持しての変則的なタイトル回収、"Happy Birthday"の繰り返しが文字通り祝福の歌となって鳴り渡るのです。「大人になることを懼れないで」がコアの生誕讃歌に感極まります。

 

 

 …と、歌詞の前向きさに倣って人生に希望を持てる解釈をここまで披露し続けているものの、それはそれとして"優しい言葉の雨は乾く"で言葉の限界を指摘する;永続性に欠く性質を持ち出して来る現実的な視点への立ち返りがこれまた冴えた藤原節です。有り体に言えば綺麗事(造語的に綺麗'言'としても可)への反発で、同じく「歌の効能」に主眼が置かれるもリスナーの想定が後向きな「イノセント」の歌詞で例示すれば、"地球は綺麗事 君も僕も誰でも何でも/君の嫌いな ただのとても 綺麗な事"に表れているように、「HAPPY」の歌詞を受けて尚「大人になれない」逸れ者を最後まで諦めていないのが素敵です。

 

 "他人事の様な虹が架かる"も実に冷めたポイント・オブ・ビューではありますが、色々と象徴的な意味を与えられ勝ちな"虹"はそれこそ単なる自然現象であって前述した"ただのとても 綺麗な事"に他ならず、従ってその解釈は観測者の心の状態に左右されます。三度目の引用となる「なないろ」は曲名が示す通りの虹の歌で、その歌詞"手探りで今日を歩く今日の僕が あの日見た虹を探すこの道を/疑ってしまう時は 教えるよ/あの時の心の色"は、「HAPPY」にて"他人事"だった虹の美しさを大人になってから問い直す内容としたいです。

 

 

 ところで藤原さんは"他人事"を「ひとごと」と読む作詞家だから信を置けます。先の"他人事の様な虹が架かる"は勿論、「モーターサイクル」の"他人事だけど頑張れよ"も、「透明飛行船」(2010)の"分かち合えやしない他人事"も、「ディアマン」(2012)の"他人事でもない"も、「邂逅」(2024)の"他人事のような朝の下"も、読みは全て「ひとごと」です。そのほうが辞書的に正しいからとか、歌詞ゆえの韻律がどうとか言いたいわけではありません。"他人事"を俗に「たにんごと」と読むと自他境界が明確となって寧ろ他者へと向く意識が増大すると感じるので、無関心さが重要な場面に於いては相応しくない読み方ではないか?と心的辞書からの物言いが付くからです。

 

 そもそもの表記が「人事」であるように(おそらく「じんじ」との混同を嫌って使われないのでしょう)、「ひとごと」と読めば「ひと」の漠然とした意味範疇を引っ張って来れますし、他人事に対義して生まれたのであろう自分事という言葉は「じぶんごと」と読んで自他境界を明確にすることこそが、我が事のように捉えるコンテクストに合致するため違和感がありません。要は他者を気にしていないと言いつつも気にしている心理が透けて見えるのが「たにんごと」で、心の底から他者を意に介していないドライさが伝わるのが「ひとごと」であると識別するのが僕のセンスだという話です。藤原さんの意図を測るものではなくね。

 

 

 こうして小難しく語用を論ったところで、"なんか食おうぜ そんで行こうぜ"の砕けた言い回しがいちばんガツンと響くところに人間味を覚えまして、ラスサビの歌詞が従前の繰り返しではなく、これまでの総決算的な仕上がりを見せている点にも特筆性があります。

 

 "悲しみは"から"救われる"まで1番サビを踏襲した後に、2番Aメロで"誰かの手"と未確定だったものが"大切な手"に変わって接続し、1番サビで"解らない"とされていた"闘う相手さえ"に"勝ち負けの基準も"が加わることで1番Aメロに表れた"命の値段"を測りようもないことが強調され、2番Aメロで欲した"膨大な知識"に動機付けされていた"守らなきゃいけないから"が"確かに守るものがある"に進化し確度と自主性が高まって、"教わらなかった"のは1番サビの"歩き方"だけではなく"夢"もそうだろうとエールを送られ、曲折浮沈を経てからの"少年は大人になった"は心の成長を物語る堂々とした言い切りです。

 

 2番サビでは天秤の片側に載っていた"終わらせる勇気"がなくなって死から遠離り、ラスサビで示される二択というか相即不離の選択は"続きを進む恐怖"と"続きがくれる勇気"であるからして、生き続けることは悲しみと喜びを共に噛み締めることだと確信めいたものを感じます。だからこそ"無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて"が2番サビの時点より一段と深く心に響き、"消えない悲しみがあるなら 生き続ける意味だってあるだろう"とこれだけを抜き出すと直感的な理解に反する一節がきちんと論理的な帰結を見せているため、鮮やかな伏線回収の手腕を絶賛する以外にありません。

 

 

メロディ(作曲:藤原基央)

 

 アレンジの観点を先出しして語りますと、本曲に於いては普段のオルタナ的なサウンドよりも源流のロックンロール色が強く感じられ(先掲の雑誌中にも指摘あり)、特に平歌部に顕著だと思います。インタビュアーの山崎洋一郎さん曰くの「ご機嫌なリズム」[no.4, p.61]或いは「最初のリズムのシンコペートみたいなもの」[no.5, p.61]辺りに適従して、そのグルーヴが醸す陽気さには不釣り合いのしんどい歌詞が載るAメロは、空元気のナラティブを伝う音運びが特徴的です。

 

 この手のギャップに関してバンドの基本理念を推し測れる興味深い記述も雑誌[no.4]には明かされており、自分の言葉で端的に纏めて「暗い内容をメジャーキーで歌ってこそ意味がある」との主張には僕も同意します。悲しいことを悲しく歌われても悲しいんだな以外の感想を抱きようがなく、それほどまでにシンプルな感情に支配されているのであれば歌にする意味とは?と、「キャラバン」の歌詞を引き合いに"叫びは不要 ただ言えば良い 面倒臭がる君が面倒"と吐き棄てたい気持ちが芽生え、これこそ陳腐な詞曲しか書けないアーティストへの痛快なカウンターです。

 

 

 こうして毒突きながらもバンプは所謂J-POP好きにも愛される大衆性を備えていることはシーンが証明しているので、言うてJ-POPのリスナーは陳腐さを手放しで受け入れるほど感性が鈍麻しているわけではないと思うことも補足しておきます。よりポップになって白地にキャッチーなBメロの旋律に耳を傾けていると、ここにつまらない歌詞が綴られていなくて本当に良かったと安心するばかりです。とはいえこれを受けるサビメロは意外に硬派なので、バンドの歩調はやはりロックを好む層に合わされていると感じます。

 

 一転してゴスペルライクな"Happy Birthday"のパートが強いて言えばのCメロで、前出したキーの話と絡めてとある動画を紹介しましょう。下掲は誕生日の歌としては最も有名な「Happy Birthday to You」(初出年不明)をマイナーキーで演奏したもので、YouTube上には他にも同趣旨の演奏をアップしている方を幾名か確認出来ますが、このThe Grumpy Pianistさんのものが恰好と演技も込みで解り易いので代表させました。

 

 

 先の藤原さんの言とは歌詞内容とキーが逆転するけれども、本来は「誰かの誕生日を祝う幸せな歌」以外の解釈は難しい同曲に対して、「また一歩死に近付いた」だったり「自分しか自分の誕生日を祝う人が居ない侘しさ」だったり「嫌いな人のために不本意ながら」だったりの、後暗い解釈が許容されるようになるのが面白いところです。こうしたギャップに依って楽曲に与えられた深みに特別の意義を見出せるからこそ聴き甲斐があるというのは、バンプの奏でる音楽についても同様のことを言えると結びます。

 

 

アレンジ(編曲:BUMP OF CHICKEN & MOR

 

 メロディの項にアレンジの話もある程度織り込み済みなので対照しつつご覧くださいと前置きしまして、イントロからAメロ1にかけて[0:06~0:29]のコミカルな音像に本曲の主人公がスマートな人生を送れていないことを察せる鳴り出しからしてバンプらしさが顕で好みです。しかし"耐えきれない"気持ちの爆発を歌ってかロックンロールなリフが俄に存在感を増すと、絶望するには未だ早いとの即ち若いエネルギーが溢れ出て来て勇気付けられます。

 

 制作過程を藤原さんは「最初は、もっといなたかったんですけど」と振り返っており、察するに元々は冒頭ののっそりとした聴き味が優勢だったのだろうと思うものの、続く「みんなんとこ持ってって、で、プロデューサーも加わって、今の形態に落ち着いた」[共にno.4, p.61]との記述に鑑みると、共同制作者としてお馴染みのMOR(森徹也さん)が良い塩梅を提示してそれをバンドが実現したのでしょうね。ゆえに本項での編曲者表記はBOP & MORとしています。

 

 全体の流れはここまでに挙げたものも含めて複数のジャンル名を連ねて説明可能で、藤原さん曰くの「ヒップで、少しグラムになった」[〃]ロックンロールサウンドを基調としつつも、その舶来のノリを旋律のJ-POPらしさが上回って邦ロックのスケープに取り込まれるセクションがあったり、バンプに求められるオルタナ感やインディー感を垣間聴いて安心する瞬間が訪れたり、かと思いきや同時期の「angel fall」(2010)の布石となるようなゴスペル要素も顔を覗かせるという、実に賑やかなサウンドプロダクションです。その何れもが呱呱の声に快哉を叫んでおり、音に聴こえる「HAPPY」として十全な資質を有しています。