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戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」(前)より       

 

現代史はルーズベルトの「隠れ社会主義」から始まった

20世紀は「共産主義国の勃興と崩壊」のドラマであった。そして最大の悲劇は「社会主義者」の名を冠した3人の政治家、ヒトラー、スターリン、毛沢東の独裁政治によって、数千万の無辜の人々が殺されたことである。しかしその陰に隠れているのが「隠れ社会主義者」であったルーズベルトの蛮行であった。

そのひとつが日本を戦争にひきずりこむことによって、日本を「社会主義化」しようとしたことである。彼が「太平洋戦争」をしかけ、戦後の「連合軍最高司令部GHQ」に指針を与えたCIAの前身である「戦略情報局(OSS Office of Strategic Service)」を創設し、「リメンバー・パール・ハーバー」の下に日本支配を図り、ドイツに原爆を落とさず、日本に落とした元締めであったことを忘れてはならない。

 

日本ではルーズベルト大統領の功績と、その評価はすでにできあがっているように見える。唯一、四選された大統領として、ニューディール政策を進め大恐慌を乗り切る。第2次大戦では連合国の戦争指導者として勝利に導いたというものである。この大統領の率いるアメリカに敗北したと考える日本人は畏怖心を植えつけられた。

占領政策によってアメリカ批判は一切禁じられていたこともあり、民主主義をもたらしたマッカーサー元帥の背後にいたすぐれたアメリカ大統領であるという「常識」のもとに日本の戦後ができあがった。しかしルーズベルトの評価は、この「常識」の外にある。

 

というのも、戦後の世界は「アメリカとソ連」「自由主義国と共産主義国」というような「冷戦の図式」であった。そして、その図式で戦前のアメリカも見られてしまっているからである。すなわち「彼はスターリンと同罪ではないか」という見方があいまいにされてしまったのである。アメリカでさえ、ルーズベルトこそがアメリカ大統領として「ナチスのドイツ」「軍国主義の日本」と対立し「スターリンの社会主義とは異なるニューディール政策を行った」という肯定的な評価が成り立っている。

 

ルーズベルトは「反・全体主義」の盟主のごとき立場にいたかのように思われてきた。しかしルーズベルトが社会主義者であったことは自身が「1917年のロシア革命における社会政策を100としたらニューディールが、そのうちの50くらいは実現したかもしれない」と言っているように、自分で行なっていることをロシア革命と同じものと見ていたことからでも判断できる。

また「スターリンを共産主義者と考えるのは馬鹿げている。彼はただロシアの愛国者であるだけだ」と公言し、英国を除く全欧州がソ連の支配下に入ることさえ認めていたのである。「ヨーロッパの人々は、10年先、20年先、ロシア人とうまくやっていけるようになるという希望をもって、ロシアの支配をただ甘受しなければならない」とも言っている。このような彼の発言が彼の行動そのものの原理となっていることは、その政策からも伺える。

 

ルーズベルト大統領とハル国務長官のもとには、多くの社会主義者・共産主義者が集まった。ホワイトハウスと国務省では、127名のコミュニストが執務に当たっていたと言われる。ヤルタ協定を演出したアメリカの国連代表団の首席顧問アルジャー・ヒスは、スターリンのスパイだった。ルーズベルトの側には妻エレノアのほか、大勢の共産主義者がいた。取り巻きにスパイがいたのではなく、ルーズベルト本人がスターリンの言いなりになる社会主義者のようなものであったのだ。
ここで共産主義者と社会主義者という言葉が同時に使われているのは「共産党の共産主義者と、ドイツのフランクフルト学派の流れの社会主義者を区別している」からである。

ナチス政権下のホロコーストを避けてニューヨークにやってきたフランクフルト学派(そのほとんどがユダヤ人)は、アメリカで大半が受け入れられ、「亡命大学」とか「新社会調査学院」と呼ばれた施設で38年から45年まで活動した。その中のドイツ・オーストリアの左翼マルクス主義学者は「批判理論」によって現代そのものを批判し、将来の共産主義に備える2段階革命を構想していた。まさにこの時期がルーズベルト大統領の時代であった。
ルーズベルトが、将来革命が起きソ連のようになることを望んでいたことは、ソ連を理想化し、その政策に賛成していたことからでもわかる。戦後の国際秩序を作り上げる国際連合に、ソ連の同意を得る見返りとして、ポーランドやバルト3国をソ連支配下に置くことを許し、ヤルタ秘密協定で満州の権益や南樺太、北方領土を与える約束をしている。スターリンはルーズベルトから数多くの利益を得ているのに、ルーズベルトはスターリンから何ひとつ与えられていない。この事実は、ルーズベルトにとって、ソ連共産主義が国同士の外交関係以上に理想として見えたからに違いない。

アメリカは、経済的政策では失業問題を解決できず、産業も軍事産業以外には活路がなかった。しかしアメリカ自ら戦争を行なうことは、選挙での公約上できなかった。アメリカ人が他国の戦争で死ぬなどということは思いもしなかったからである。

1933年に大統領になったルーズベルトもその外交政策を続け、35年に「中立法」を採択し、その後も再三にわたってこれを強化しようとした。同法により、米国政府は欧州やアジアの国際紛争に関与すべきではない、という立場が公的にも再確認されていたのである。

 

しかし今日、アメリカの方から日本への先制攻撃の計画があったことが明らかにされている。1940(昭和15)年11月以来ルーズベルトは閣僚、軍部そして中国政府と協力して、日本を空襲することの是非を検討していた。討議の対象となったのは、日本空爆のために中国東部の秘密基地に配備された空の要塞と呼ばれたB17爆撃機を提供してほしい、という中国政府からアメリカ政府への要請だった。この計画は一時棚上げされたが、真珠湾攻撃の半年以上も前の1941年春に再び検討されることになり、1941年7月、日本本土を直接攻撃する計画「JB-355」にルーズベルト大統領がサインした。B17を初めとする150機の長距離爆撃機と350機の戦闘機を10月1日までに蒋介石政権に供与して、中国の基地から発して東京・横浜の産業地域と神戸・京都・大阪の3角地帯に奇襲爆撃を加える計画であった。

爆撃は中国空軍が実施することになったが、実際には「フライングタイガース」と呼ばれる義勇兵に偽装した米軍パイロットが行なうことになった。ところが欧州戦線が窮迫し、大型爆撃機をイギリスに急いで回さなければならなくなり、中国への供与が遅れることになった結果これは実施されなかった。だが真珠湾攻撃の約5ヶ月前にルーズベルト大統領が米陸海軍に対して日本本土攻撃計画を承認していたという事実には変わりがない。これは国民をあざむき、日本をだまし討ちにするものだった。この計画がソ連スパイであったロークリン・カリーの提案であったことは、ソ連もまた日本攻撃をねらっていたことになる。
一方日本の真珠湾攻撃は、すでに1941年1月27日の段階で知られていたという事実が米外交官ジョン・エマーソンの記述で判明している。彼は「1941年1月27日、ペルー公使シュライバーが、日本は日米間有事の際にはパール・ハーバーに大奇襲攻撃をかける計画を立てているという噂を耳にしたと米国大使館に耳打ちした。グルーは真剣に受け止め、ワシントンに電報を打った(1月27日付けの電報がある)。日記にも『ハワイの我が将兵が、まさか眠っていることはあるまい』と記している。この年10月にホノルルに立ち寄ったとき、オアフ島周辺の偵察哨戒飛行が強化されたということを聞いた」と記している(ジョン・エマーソン「嵐の中の外交官」昭和54年)。

 

アメリカは、真珠湾攻撃を知っていたという事実に加えて、日本に先制攻撃をさせるという構図をはるか前からルーズベルト大統領が作っていたことを、チャールズ・A・ビアドの「ルーズベルト大統領と1941年の戦争の到来」という書物が伝えている。彼は、第2次大戦は日本やドイツに非があるのではなく、ルーズベルトにある、というアメリカでは例外的な見解を示している。これによると1940年、ルーズベルトはすでに日本との戦争の可能性に言及しており、国内的にはそれを否定していることと裏腹の発言があったと記している。

ルーズベルトは「…艦隊はハワイに留め置かれる。もし日本がタイあるいはタラ地峡、オランダ領東インドを攻撃しても我々は戦争を始めない。もし日本がフィリピンを攻撃しても我々が戦争を始めるべきか否かは分からない。しかし日本はいつまでも誤りを避けることはできないであろう。また戦争が長引き作戦地域が広がれば、日本は誤りを犯し、かくて我々が戦争を始めるようになるであろう」と答えたという。

この発言は、日本の1941年7月の南部仏印進駐があってもアメリカが参戦しなかったことに符合する。そしてハワイを攻撃させる算段であったことを示唆していることになる。「日本は誤りを犯し」という言葉は、初めから勝ち目がない戦争に参戦することを「誤り」と考えているのであろう。そのような「誤り」をどのように犯すようにさせるかを、ルーズベルトとその側近が考えていたことになる。

「もし日本人が誤りを犯して米国の世論を怒らしめたならば、我々は戦争をするだろう」と答えたと記している。日本の真珠湾攻撃の1年以上前に、既にこのようにルーズベルトが発言していたことは重大である。
 

米外交官エマーソンが41年1月ペルー大使館で聞いたことは、外交筋には既知のものであったことになる。つまり日本海軍に真珠湾を攻撃させることをアメリカは黙認し、知らないふりをしていたのであった。敵に最初に攻撃させるという作戦を成功させれば、それまで不戦の雰囲気にあった米国世論に対し、我々は卑劣なやり方で攻撃されたと宣伝することができる。
ハルノートは最後通牒となったが、すでに知られているようにハルノートは2つ存在した。ソ連のスパイであったホワイトが書いた「一般案」という強硬案と、ハル自身の書いた「暫定案」といわれた妥協的な内容のものである。ルーズベルトが日本に通告したものは、絶対飲めない「一般案」であったのは明らかである。

 

真珠湾攻撃計画を知っていたルーズベルトにとって、ここで日本に引かれては戦争に引き込むことができなくなってしまう。ルーズベルトがホワイト作成の「ハルノート」を日本に渡せと言ったとき「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言っていたという。ルーズベルトは真珠湾が奇襲を受けたことを「恥ずべき行為」と述べた。すぐに議会でも調査委員会が開かれ、ハワイ軍司令官2人が責任回避で非難された。戦後ルーズベルトは、米国民のモンロー主義の世論を転換させるべく、日本のハワイ奇襲を知りながらこれを現地の軍司令官に知らせず、あろうことか自国の将兵の生命の被害拡大化を図ったことを逆に批判された。

ルーズベルトが日本に最初の攻撃をさせアメリカ国民を戦争に導いた。それだけではなく、彼自身が社会主義者であったことは、日本の「社会主義化」が一つの大きな課題であったことを意味する。その意図は日米戦争の勝敗の帰趨の中に埋没されたかに見えたが、ルーズベルト没後、GHQ占領政策の中ではっきり現れてきた。

「社会主義化」政策と言える公職追放、神道指令、財閥解体、日本国憲法制定、東京裁判などの一連の政策でそれが実現されていったのである。ソ連との対立が始まった後、ルーズベルトの政策は否定され米国自身が転換したが、それは今日まで憲法を中心に留まり続けた。まだ日本は「社会主義化」の範疇の中に置かれ、薄まったとはいえ決してそれが消え去ったわけではない。

日本の伝統と文化は強く、日本を覆すことはなかった。ただ、政府による日本国憲法の改定放置によって、その危険性は部分的に常に残されている。この部分は戦後、大学やメディアの知的部分に残り、そこから発する少数派の「社会主義」思想が官僚や会社の指導層に残存し続けたのである。このことは日本の大きな弱点となった。