「権利の平等」

「権利の平等」においての権利は、ロックの自然権(生命・自由・財産を守るための権利)を始めとして、米国の「独立宣言」(1776年)フランス革命時の「人権宣言」(1789年)、国連総会で採択された「世界人権宣言」(1948年)などでみられるように「自然権」を言うのであるが、ここでは職位上の権利と平等に関して考える。職位には必ず職責と義務が与えられると同時に、それぞれの職位にふさわしい権利が与えられるから、当然のことながら職位上の権利は平等ではない。しかし本然の世界においては、このような職位上の権利の差異にもかかわらず、そこに差異を超えた平等の側面があるはずである。それが愛の平等、人格の平等、満足の平等である。

 

男女の平等

男女の平等に関して考えてみよう。有史以来女性は男性に比べて、地位・権利・機会などの面において常に劣っていたばかりでなく、男性の支配を受けてきた。今日、女性たちがこれを自覚し、男性と同等の権利を要求し始めた。女性解放運動が始まったのはフランス革命の時からである。民主主義の基本理念は自然権(生命・自由・財産を守るための権利)の平等であるために、民主主義の発展と共に、女性の自然権の平等に対する主張は、極めて合理的なように思われた。

この運動はその後、様々な社会運動と表裏一体となって展開されてきたが第二次世界大戦後からは、女性解放運動が国家の法律に反映されるようになった。その主なものは地位の平等・権利の平等・機会の平等であった。この要求を法律によって保障したのは、共産主義国家においても同じであった。

そして1960年後半からはこれが新たな高まりを見せた。それは、男女の平等は法律上で保障されただけで実際には部分的に実施されただけであり、多くの領域では依然として男女の不平等な関係が続けられていたからである。

法律的に男女の平等が保障された結果、男女が権利において同等であるという考え方が広まり、様々な悲劇と家庭の破綻が頻繁に起こるようになったが、その理由は何であろうか。それは権利に関する限り完全な男女平等はありえないからである。そして権利とは使命を遂行するための要件である。生理的に男女は使命が異なっている。男性の筋肉の発達・広がった肩などは、男性の使命が対外的で力強い活動にあることを示しているのであり、女性の弱い筋肉、狭い肩などは、女性の一番の使命は出産と養育にあることを示している。この生理的条件を無視し権利の平等を主張することは、男女の使命の同一性を主張することと同じになる。

それでは、男女間(夫婦)に平等は成立し得ないのか。そうではない。男女(夫婦)の間にも平等は必要ではあるが、それは権利の平等ではなく、愛の平等であり、人格の平等であり、喜びの平等である。夫婦が神の愛を授け受ける時、差別感や不平等感は消えて同位圏に立っていることを自覚すると同時に、十分なる喜びを感じるようになる。

 

地位の平等

地位の平等について述べる。女性は男性と同様に社会的地位を享受できるということである。女性として学校の校長にもなれるし、会社の社長にもなることができる。しかしこれは男女の同等権のためではない。学校や会社は家庭の拡大型であるために、家庭において母が父を代身して家長の仕事をすることができるのと同様に、会社においても女性が会社の母として社長にもなれるし、学校においても女性が学校の母として校長となることができる。世界平和の実現のためにはむしろ女性が先頭に立つことが望ましいのである。何故ならば、家庭における平和の主役は母だからである。言い換えれば、真の世界平和を実現するためには、強く攻撃的なことに適した男性よりも、体質的に平和なことに適した女性たちが先頭に立つことが必要ですらある。以上、男女平等について、原理的な見解を明らかにした。