戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」(前)より       

 

ドイツ革命の挫折から生まれた「新マルクス主義」

最近アメリカで、大東亜戦争時代の対日関係資料調査が解禁となり、その結果日本国憲法を含め、戦後日本をアメリカ政府がどのように作ろうとしたかがより明確になってきた。ここでは戦後日本の思想界やメディアを支配するフランクフルト学派(隠れマルクス主義)の問題を取り上げ、彼らが戦後の日本をいかに作りあげようとしたかを述べようと思う。

 

1917年のロシア革命によって始まった「社会主義」革命の動きは、ヨーロッパに広がったがハンガリー・ドイツではいずれも失敗に終わった。そのためマルクス主義者たちは、新たな「社会主義」の道を探ることになった。それで作られたのがフランクフルト大学社会学研究所であった。フランクフルト学派は、1923年ドイツのフランクフルト大学で、ハンガリーのマルクス主義者ルカーチ(1885~1971)らが設立したマルクス研究所から始まる。これはソ連のマルクス・エンゲルス研究所に習って作られたものだ。

 

それがドイツ社会学研究所となり、ここで学んだ社会学者や歴史学者がナチス批判の流れに乗って戦後のアメリカにまで影響を与えた。この学派から誕生した「新マルクス主義」が、それ以前のマルクス・レーニン主義の政治革命路線とは異なった路線として知的なインテリを捉え、「20世紀のマルクス主義」と呼ばれているのである。
フランクフルト学派は1920年代からソ連のレーニン主義の硬直化を批判する勢力としてあらわれ、現実の社会に即する動きを示した。労働者・農民の「革命」を志すのではなく(それはロシアのような後進国でしか通用しなかった)「西欧マルクス主義として、先進国における革命を目指すためには、もっとブルジョア的な「文化」や「心理」を理解しなければならない」と考えた運動である。「暴力革命」などという言葉は誰も使わなくなった。その代わりに新しい形の「革命」を目指すものであった。それは第2次大戦後欧米での「五月革命」、日本での「安保闘争」「全共闘」などの運動に強く影響した。
 

これまでのマルクス主義は「労働者が搾取されることにより階級意識が生まれ、その結果階級闘争が始まる」という単純な図式だった。しかし賃上げ闘争によって高い賃金を得た労働者は、階級闘争を忘れてしまう傾向に陥る。そこで何とかしてこの階級意識を持たせるためには、政治闘争や階級闘争といった闘争を行なうだけでなく、文化活動全般を通じて階級意識、被差別意識を作り出す運動を起こさなければならないとするものである。

ホルクハイマーも「マルクスの分析は現代の状況に合わない」ことを認識し「労働者階級は革命の前衛にならない」(革命の主体的勢力ではない)と考えた。…彼はマルクス思想を文化用語に翻訳し始めた。古臭い闘争マニュアルを捨て、新しいマニュアルが執筆された。彼は「旧マルキストにとっての敵は資本主義、新マルキストにとっての敵は西洋文化」と捉えた。「旧マルキストにとって権力掌握するのには暴力による政権転覆」「新マルキストにとって権力掌握するのには暴力ではなく、長期に渡る忍耐強い作業」である。そのためには「キリスト教精神を捨て去らなければならない」まずは文化教育制度を支配せよ、そうすれば国家は労せず崩壊すると唱えた。これは彼らの間では「批判理論」と呼ばれ、戦後は「構造改革路線」の名で広まった。

マルクスの生きていた19世紀の「プロレタリアは抑圧され、必然的に階級意識が生まれる」という素朴な分析がここでは消え「賃上げ闘争しかやらない労働者では革命など遠い出来事」になってしまうと考えられた。そこで生み出されたのが「批判理論」である。資本主義が生み出したすべてを「批判」し、そこから体制転換の思想を作っていこうとする、これがOSSによって日本統治に応用されたということができる。

 

新マルクス主義者が戦後の日本統治に加わる

ヒトラーのナチスがドイツの政権を獲得し反ユダヤ主義が強くなると、ほとんどユダヤ人で構成されていたフランクフルト大学社会研究所の学者たちはドイツにいられなくなり、アメリカに根拠地を移した。これを受け入れたのが対独戦争に立ちあがったアメリカ政府である。ルーズベルト大統領はナチスに対抗する軍の戦略組織として、まず1941年7月情報調整局(OCI Office of the Coordinator of Information)を設立した。そして日本との戦争が始まった42年OSS(Office of Strategic Service)を設立し、敵国に対し謀略を行う諜報機関とした。このOSSは、全米中の大学や研究機関から優秀な学者や研究者を大量に駆り集めた。OSSはCIAの前身で、戦時情報・特殊工作機関の先駆であり、他の軍事情報機関とは異なり、左翼知識人や亡命外国人をも積極的に採用するという方針をとった。

 

OSSは、米国共産党員だけでなく、全米の大学や研究機関から反独、反日の知識人も積極的に活用した。そしてこの中に多くの「隠れマルクス主義者」たち、つまりドイツから脱出したフランクフルト学派の学者が加入していたのである。さらにOSSの中にGHQの日本統治に重要な役割を演じる多くの人物たちがいた。OSSは1945(昭和20)年に解散したがその後2つの組織に引き継がれ、アメリカの日本占領政策に大きな影響を与えた。マッカーサーの対日占領の構想はほとんどこの組織によって作られていた。昭和天皇の戦争責任を問わず象徴として温存させる、という重要な政策もこの組織の計画によって準備されていた。このOSSについては、1991年にワシントンの国立公文書館で「秘密の戦争―第2次世界大戦におけるOSS」という公開シンポジウムが開かれてから一般にも知られるようになった。日本でも一部の学者によって研究・紹介されているが、アメリカがある一定のイデオロギーによって他国を心理的に支配しようとした。そしてその巧みな戦略の一端が日本を左翼的に誘導しようとしたという「OSSの謀略的な側面」が抜け落ち、批判的観点を欠いているため、いまなおOSSの存在の重要性がよく認識されていない。
 

ドイツに関する情報を担当する専門スタッフの人材源としても、一流のドイツ人学者を数多く擁したフランクフルト大学社会研究所であった。42年夏、マルクーゼ・ノイマン・ホルクハイマーといった社会学者が採用された。その中でノイマンは代表的な社会学者であったが、戦後ソ連のスパイであったことが発覚した。日本に対しては手薄ではあったものの、アメリカの日系共産党員を集め、また東洋学者を登用した。オーウェン・ラティモアやジョン・エマーソンもその中にいる。ライシャワーとかドナルド・キーンなど戦後の日本学者もその中で育てられ、その中の一人に日本国憲法を作成したチャールズ・ケーディスがいた。
 

アメリカに浸透した新マルクス主義

マルクス主義に支配されたソ連とは反対に、自由主義を謳歌したアメリカであるから歴史家も自由な立場にあると思いがちだが、自由な国アメリカの歴史家やジャーナリストたちが一貫して隠れマルクス主義の伝統の中にいることはあまり知られていない。「隠れ」といったのは、これが旧ソ連的マルクス主義とは異なる、新たな「構造改革主義的マルクス主義」であるからだ。若い優秀な日本人学生がアメリカの大学に魅せられて留学し、卒業して帰ってきたら隠れマルクス主義者になっている場合が多い。ニューヨークのコロンビア大学は、隠れマルクス主義であるフランクフルト学派の牙城であることは知られていない。コロンビア大学だけではない。アメリカの大学の人文学部の大半はこの傾向が強く、学者や外交官の卵がマルクス主義に洗脳されて帰国する例が多いのもそのためである。

 

これは戦後のことだけでなく戦中もそうであり、それが戦後の日本を作り上げるイデオロギーとなったということは意外に知られていない。アメリカ政府というものは大国意識を持つ覇権主義の国で、その政権政党がどうあろうと同じようなものだと考えがちであるが、実はそうではない。第2次大戦前後に3期12年に渡って長期政権を維持した民主党のフランクリン・ルーズベルト政権は、低所得者層や黒人などのマイノリティー(少数派)に支持されて政治的な成功をおさめた政権であった。

経済学の分野ではケインズ主義を採り、政治思想の分野では「リベラリズム(平等を重視した自由主義)」の「ニューディール政策」を採った。国家が経済に介入するケインズ主義も当時のソ連を意識した社会主義的な政策であった。このことで政権内に、社会主義的な分子を入れざるを得なかった状況が推測できる。

スターリン時代の大量粛清や人民窮乏化の事実が暴露される以前の1940年代という段階では、アメリカでさえも社会主義幻想が強かったのである。この民主党政権が1960年代に「貧困の撲滅」と「偉大な社会の建設」をスローガンにして福祉国家化を目指し、黒人の公民権運動ばかりでなく学生たちの「5月革命」を惹起したのである。この運動を思想的にリードしたのはフランクフルト学派のアメリカ人であった。ベトナム戦争の際の反戦運動も、民主党の政権下で活発に行なわれていたことが人々の記憶に残っている。

 

フランス五月革命 革命の失敗は、労働者と学生の立場の違いであったと最後に語られている

日本を愛する栃木県民の会より