1917年、ロシアで始まった革命はヨーロッパに広がったがハンガリーとドイツでは失敗に終わった。そのため共産主義者たちは新たな社会主義革命の道を探ることになった。そこで作られたのがフランクフルト大学社会学研究所であった。これはソ連のマルクス・エンゲルス研究所を模倣して1923年、ハンガリーのマルクス主義者であるルカーチ(1885~1971)らが設立した。その後ドイツ社会学研究所となり、ここで学んだ社会学者や歴史学者が第1次大戦後のアメリカに影響を与えた。ここで誕生した新マルクス主義(フランクフルト学派)は、以前のマルクス・レーニン主義とは異なった路線として知的なインテリを捉え、20世紀のマルクス主義と呼ばれるようになった。

フランクフルト学派は、レーニン主義の硬直化を批判する勢力として現れて現実の社会に即する動きを示した。つまり、労働者・農民の暴力革命ではなく(それはロシアのような後進国でしか通用しなかった)西欧マルクス主義として、ブルジョア的な文化や心理を理解し、ソフトな革命を目指そうとしたものであった。暴力革命などという言葉は誰も使わなくなった。その代わりに新しい形の革命を目指すものであった。それは1968年フランスでの五月革命、日本での安保闘争などの運動に大きな影響を与えた。

 

これまでのマルクス主義は「労働者が搾取されることにより階級意識が生まれ、その結果階級闘争が始まる」という単純な図式だった。しかし賃上げ闘争によって高い賃金を得た労働者は階級闘争を忘れてしまう傾向に陥る。そこで何とかしてこの階級意識を持たせるためには闘争を行なうだけでなく、文化活動全般を通じて階級意識・被差別意識を作り出す運動を起こさなければならないとした。

ホルクハイマーもマルクスの分析は現代の状況に合わないことを認識し、労働者階級は革命の前衛にならない(革命の主体的勢力ではない)と考えた。彼はマルクスの用語を文化的用語に翻訳し始めた。古臭い闘争マニュアルを捨て、新しいマニュアルが執筆された。彼は、旧マルキストにとっての敵は資本主義、新マルキストにとっての敵は西洋文化と捉えた。新マルキストが権力を掌握するためには、暴力ではなく長期に渡る忍耐強い作業が必要である。まずは文化教育制度を支配せよ、キリスト教精神を捨て去らなければならない。そうすれば国家は労せず崩壊すると唱えた。

 

OSS(Office of Strategic Service)とは

マルクスの「プロレタリアは抑圧され、必然的に階級意識が生まれる」という素朴な分析がここでは消え、賃上げ闘争しかやらない労働者では革命など遠い出来事になってしまうと考えられた。そこで生み出されたのが批判理論であった。資本主義が生み出したすべてを批判し、そこから体制転換の思想を作っていこうとする、これがOSSによって日本統治に応用された。

ナチスがドイツの政権を獲得し反ユダヤ主義が強くなると、ユダヤ人で構成されていたフランクフルト大学社会研究所の学者たちはドイツにいられなくなりアメリカに根拠地を移した。これを受け入れたのがアメリカ政府である。ルーズベルト大統領はナチスに対抗する軍の戦略組織として1941年7月、情報調整局(OCI Office of the Coordinator of Information)を設立した。そして日本との戦争が始まった42年OSS(Office of Strategic Service)を設立し、敵国に対し謀略を行う諜報機関とした。

このOSSは、全米中の大学や研究機関から優秀な学者や研究者を大量に駆り集めた。OSSはCIAの前身で、戦時情報・特殊工作機関の先駆であり、他の軍事情報機関とは異なり、左翼知識人や亡命外国人をも積極的に採用するという方針をとった。

OSSは、米国共産党員だけでなく、全米の大学や研究機関から反独、反日の知識人も積極的に活用した。そしてこの中に多くの隠れマルクス主義者たち、つまりドイツから脱出したフランクフルト学派の学者が加入していたのである。

このOSS(GHQ)の中に戦後の日本統治に重要な役割を演じる多くの人物たちがいた。OSSは1945年に解散したがその後2つの組織に引き継がれ、日本占領政策に大きな影響を与えた。マッカーサーの対日占領の構想はほとんどこの組織によって作られていた。昭和天皇の戦争責任を問わず象徴として温存させる、という重要な政策もこの組織の計画によって準備されていた。このOSSは、1991年にワシントンの国立公文書館で「秘密の戦争、第2次世界大戦におけるOSS」という公開シンポジウムが開かれてから一般にも知られるようになった。日本でも一部の学者によって研究・紹介されている。アメリカがあるイデオロギーによって他国を心理的に支配しようとした巧みな戦略の一端であるが、日本を左翼的に誘導しようとしたOSSの謀略的な側面が抜け落ちているため、いまなおこの存在の重要性がよく認識されていない。

 

アメリカに浸透した新マルクス主義

マルクス主義に支配されたソ連とは反対に、自由主義を謳歌したアメリカであるから自由な立場にあると思いがちだが、多くの歴史家やジャーナリストたちが隠れマルクス主義であったことはあまり知られていない。「隠れ」といったのは、これが旧ソ連的マルクス主義とは異なる、新たなマルクス主義であるからだ。優秀な日本人学生がアメリカの大学に魅せられて留学し、卒業して帰ってきたら隠れマルクス主義者になっている場合が多い。ニューヨークのコロンビア大学は隠れマルクス主義であるフランクフルト学派の牙城であることは知られていない。コロンビア大学だけではない。アメリカの大学の人文学部の大半はこの傾向が強く、学者や外交官の卵がマルクス主義に洗脳されて帰国する例が多いのもそのためである。

これは戦後のことだけでなく戦中もそうであり、それが戦後の日本を作り上げるイデオロギーとなったということは意外に知られていない。アメリカは大国意識を持つ国で、その政権政党がどうあろうと同じようなものだと考えがちであるが、実はそうではない。第2次大戦前後に長期政権を維持した民主党のフランクリン・ルーズベルト政権は、低所得者層や黒人などのマイノリティー(少数派)に支持されて政治的な成功をおさめた政権であった。

ルーズベルトは、経済の分野ではケインズ主義を採り、政治の分野ではリベラリズム(平等を重視した自由主義)のニューディール政策を採った。国家が経済に介入するケインズ主義も当時のソ連を意識した社会主義的な政策であったが、このことで政権内に社会主義者を入れざるを得なかった状況が推測できる。スターリンによる大量粛清や人民の窮乏が暴露される以前の1940年代の段階では、アメリカでさえも社会主義幻想が強かった。この民主党政権が1960年代に貧困の撲滅と偉大な社会の建設をスローガンにして福祉国家化を目指し、黒人の公民権運動ばかりでなく学生たちが5月革命を惹起したのである。この運動を思想的にリードしたのはフランクフルト学派のアメリカ人であった。ベトナム戦争の際の反戦運動も民主党政権下で活発に行なわれていたことが人々の記憶に残っている。