キリスト教会の愛が消え、資本主義の嵐が吹き荒れ、飢餓に苦しむ民衆たちが貧民窟で泣き叫ぶとき、救いの叫び声は天からではなく地から聞こえてきた。これが無神論であり、その後の共産主義であった。神の愛を説くキリスト教が、その声のみを残して残骸となってしまった時、このような無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、神に反旗をひるがえす者たちが現れたとしても無理からぬことであった。このようにして現れたのが唯物思想であった。こうしてキリスト教は唯物思想の温床となってしまった。 原理講論序論27ページ
19世紀前半のキリスト教会は、資本家がプロレタリアートを搾取するのを容認するような状態だった。ここからキリスト教に反対する運動が起こってきた。その先駆者がフォイエルバッハだった。
フォイエルバッハは、神は人間の類的本質が対象化したものであると言った。(人間の類的本質とは理性・愛・意志)
そして精神は物質の所産であるとして無神論・唯物論を主張した。しかし彼は、神を否定しながらも人間主義的な宗教を力説して人間の愛、すなわち恋愛・友情・同情などを中心にして人間関係を改善することができ、そして社会の混乱を収拾することができるとみた。共産主義の終焉14ページ
人には完全なる理性を持ちたいとか、完全なる愛を受けたいとか、完全な意志を持ってすべてを可能にしたい、という完全欲があるが実際にはそうはならない。それで完全な理性・完全な愛・完全な意志という理想を対象化してそれを神とした。だから神は、人間の本質を対象化したものであり、人間の本質が疎外されたものであるということになる。こうしてフォイエルバッハは、神学は人間学をさかさまにしたものだと言った。
このように言われてもキリスト教はそうではないと明確に反論できなかった。神がなぜ宇宙を創造したのかという理由や目的がはっきりと分っていれば、それによって確信をもって反論することができるが、そうでなければ神が人間を創造した。また人間が神を創造したといっても、どちらも同じような議論になってしまう。しかし、神が宇宙を創造した理由が分かればこのような議論はありえない。
フォイエルバッハは、神は全知全能であり、愛であり、美であり、善であるなどと表現しているけれど、それは神の属性ではなくて人間の本質だ。人間がそうありたいと欲している本質があるけれども、そうなれないために、それらの要素を合わせてそれを人格化、対象化して「神」としたと言った。
フォイエルバッハは人間は動物から進化したと言った。次に動物から進化したのが人間ならば、程度の差こそあれ人間は動物的なものでなければならない。しかし、人間には動物にはない理性とか、意志とか、愛などの類的本質が備わっていると言った。
統一思想では、何故動物にない理性・意志・愛が人間にあるのかと問い。それは人間は動物から進化したのではなく、神によって被造世界の主人として創造されたのであり、そして、その位置にふさわしいように神の属性が現れてきたと言った。これを言うためには、なぜ神は人間を含めた宇宙を創造されたのかを、論理的に合理的に説明できなくてはいけない。それに答えるものが「神の心情」である。
神の属性にはいろいろあるが、そこには神が宇宙を創造された理由となるものがあるか、という問題がある。神は絶対善であり、絶対美であり、絶対善であり、完全なる神であるとしても、そのまま黙っていてもいいのではないだろうか。それなのになぜ創造されたのか、という疑問がでてくる。人間は知らないものがあまりに多いから、それを知ろうとして科学を発展させてきた。また生活資料を得るために産業を起こしてきたが、神にはすべて備わっているのにどうして宇宙を造る必要があったのか、というような理論も成り立つ。
これにたいしてキリスト教ははっきり答えることができなかった。神は創造主であるという前提のもとで、神についていろいろ議論しているだけである。そのような神観では無神論に勝利することはできない。だから無神論は全世界に広まっていった。そしてキリスト教的神観を破壊していった。しかし、神がなぜ宇宙を創造されたのかという問題が明確になれば、このような無神論は破壊される。
神は全知全能だが、これは宇宙を創造せざるを得なかった動機には絶対にならない。心情の神であることによってのみ宇宙を創造された理由が明らかになる。心情とは喜びを得ようとする情的な衝動である。そして喜びは対象を愛することによって得られるから、喜ぶためには必ず対象がなければならない。
人間は幼い時から必ず何か対象を要求する。母親とか誰か家族がいれば喜ぶが一人ぼっちになれば寂しがる。大人になっても人は喜びたいという衝動をみな持っている。学者になるとか、政治家になるとか、事業を起こすとかするのは、みなこの喜びを得ようとする衝動の表れである。宗教家の殉教精神までも分析してみればそうすることによって喜びたいのである。もちろんその場合は現世的な喜びではなくて霊的な喜びであるが。このように私たちの行動のすべては喜びたい・幸福になりたいという、押さえ切れない衝動の表れである。そしてそれは神からきている。神は心情の神であり、喜びたいという願望を持っている。その抑えがたい願望を達成するために、喜びの対象として人間を中心とした宇宙を創造されたのである。