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もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧)

雑食性のレビュー好きが、独断と偏見でレビューをぶちかまします。

古今東西の本も音楽も映画も片っ端から読み倒し、見倒し、ガンガンレビューをしていきます。

森羅万象系ブログを目指して日々精進です。

2007年 小学館(小学館文庫)


そういえば、西加奈子はよく取り上げるのだが、この第1作目がまだったったことに気づいた。
処女作・デビュー作には作家のすべてが含まれている、とよく言われるが、西加奈子の場合は最初の一行にすべてが含まれているのではないか。
そう思ったのはしかし、何冊か読んでからのことではあったのだが、千手観音に絡め取られるようなストーリーテリングの巧みさは、「あなたに、話したいことがあります。」という出だしの一行で、既にすべてを物語っているように、やはり思うのだ。

基本大阪弁で進められる小さな日常の些細な心の動き。
その極小のニュアンスを極大の普遍性に引き伸ばせるのは、やはり作家の持つ想像力だろう。
極く少数の人物しか登場させずに、人間の本来もっているくだらなさやばかばかしさや生一本なところや優柔不断さや頑なさなどを掌の上で転がすように繰り出されてしまうと、これがまるで大河小説でもあるように、滔々と流れる人間ドラマでも読んでいるような気持ちにさえなってくる。

西加奈子の作品の特徴に、さりげないのだが激しい言葉へのこだわりがあって、その作者の中でトロトロに溶けている言葉の渦の中からどの言葉が選ばれるのかがとても興味深いのだが、その原点とでも言うべき辞書的な拘泥がそのままゴロリと物語のエピソードとして語られると、なるほどそういうことかとここでも最初にこれを読むべきだったかと後悔をしてしまう。

さて、本書はデビュー作「あおい」のほかに「サムのこと」「空心町深夜2時」という2つの短編が含まれている。
どれも珠にして玉。心を砕きながらぷっくら丸々とした掌編「空心町深夜2時」は、特に密度が濃い。
この濃さはまるでベトナム珈琲の苦さとコンデンスミルクのむせるような甘さの渾然一体となったあの攻撃性そのものだ。
その攻撃性は綻びつつある読者の心をチクチクと縫い上げてくれそうな温かさも秘めている。

早速これを書き終わったら、もう一度読み返そうと思う。
2006年 早川書房(ハヤカワepi文庫)


初めて読む作家なのだが、なかなか手ごわい相手だった。
名前は日本人の名前だが5歳で渡英し英国籍を取得。
ということはイギリスの作家だ。

なのに舞台は日本であり、戦争協力者として戦後を暮らす画家が「私」として登場するスタイルで、カバーも奥付も取り去ってしまったら、日本人作家の昭和40年代の小説が発掘されたのだろうと思い込んでしまってもおかしくはない。

5歳で渡英し、ということであれば、今年54歳の作者は、舞台となった時代の日本を体験してはいない。
それは今活躍中の作家たちは同じ条件なのだろうが、どうも「今」の意識や呼吸が欠落しているから、おいてきてしまった過去の小説、という印象になるのだと想う。

作者はおそらくは日本のことを主に映画を通して理解したのだろうし、そう考えると匂いはまさに昭和20年代から30年代にかけての映画のスクリーンから漂ってくる匂いそのものだ。

その違和感と既視感とが混在してみると、しかし不思議なオリジナリティがある。
それはありそうでありえない人物描写の「脚本」と「演出」の糸で動かされている味わいというべきだろうか。
小説はあくまでも想像の産物。
そして、我々が日ごろ読んでいる小説の全てとは言わないまでもことごとくは実体験よりは何らかのメディアを通したバーチャルな体験でしかないのだが、それが様々なところからインプットされて渾然一体となることでオリジナリティを獲得していくのだろうが、カズオ・イシグロのこの作品に限定してみると、作者の脳内スクリーンで上映されている映画そのものを書き取ったというのが最も近いのだと思う。
それも作者のオリジナリティであるし、そうした文学作法があってももちろんよい。

小説というよりも映画のノベライズを読まされているというか、この味わいは癖になるかもしれない。
実際、書店に行っておそらくは別な作品を手に取るだろうし、どれかを読むことになるだろう。

多くの小説が「どこかで見たこと聞いたことのモザイク」であるのであれば、この「一本気な生一本」小説は、とてもピュアな味わいで好ましいからかもしれない。
2004年 講談社(講談社文庫)


大学生の大麻汚染、なんていうニュースがやたらと飛び交うさなかに本書のレビューはいささか書きにくい。
というよりも中島らもの名前を書いただけでも、「メッ」とか「シッ」とか注意を受けそうだが、文学性という観点で言えば、このラリパッパ文芸大作はやはり取り上げねばならない。

band of the night

本書は虚実が入り混じるものの若かりし日の筆者の暮らしぶりを髣髴とさせるジャンキー日記であり、ここに一部を切り取ってお見せしているのは、種々雑多な薬物の影響で脳内を犯した言霊どもがぶくぶくとあぶくの五徳立ち上るのを逐次記録したものであるようだが、これらの膨大な羅列が、しかし、文芸大作としてのリアリズムのあり方をひとつ提示しているようで、のど元に突きつけられたナイフから眼が離せないように、結局は読破してしまうことにも繋がるのだ。

物語は単純で、失業している主人公の家に居候として続々と押し寄せるジャンキーたちとの共同生活をそのジャンキーたちが死滅・亡失し切って主人公が「言霊との合一」に至るまでを描いたものだ。
そのなかで薬に冒されきった脳が放つスマッシュヒットの羅列が写真のような言葉で、それが延々と数十ページ続いていくという、一般の方には難行苦行としか思えない内容だ。

しかし、この艱難辛苦を求める言葉たちと正面で向き合っていくと、中島らもという人がそっくりそのまま立ち上がってくるようで面白いと思うとともに、空恐ろしくも思う。
一人の人間の脳内に押し込められている固有名詞とその結びつきのイメージは、そう簡単に解きほぐせるものではないだろうが、手に取るようにスルスルと流れ出すそれらの言葉の一つ一つの中身裏側暗喩隠喩頭韻などが結びついていって、単なる羅列で終わらなくなる。

言葉の種類によっては入れ替わり立ち代り繰り返し出てくるものも多く、それこそが薬に犯されている脳のしつこさがよくわかるところだろう。

薬物といえばといえば降圧剤や坑ヒスタミン剤というレベルの評者がためしに素面のまま同様のことを試行してみると、やはりまったく違った結果が導き出され、なるほど「お筆先」というものはこうしたものかと感じ入ってしまったのだが、根本的な詩人としての資質のレベルの違いがこんなところで透けて見えて面白い体験だった。

さて、ジャンキーという空気を纏ったこの小説。
おそらくは中島らもの三大傑作のひとつといっても過言ではないだろうし、1970年代くらいまでに氾濫していた薬物の影響を大きく受けた小説群の中でも高く評価されてしかるべきものだと思う。
発表年が少々遅れてはいるものの、アンダーグラウンドな世界を生き抜くことの難渋さを描ききった遅れてきた傑作を、そうとわかっている人たちにはぜひ読んでほしいものだ。

そうとわかっていない方は、遠慮したほうがよさそうだが、パラパラとめくってみて、膨大な言葉の羅列を眼にしたときに、パタッと閉じて無縁の彼方に放り去るだろうから、心配無用か。
2008年 講談社(講談社文庫)


読書の楽しみの一つに「迷子になる楽しみ」がある。
鬱蒼とした文字と言う樹木の中に迷い込んで、狂ったコンパスに怒り狂いながら一本一本筋をたどっては戻ってを繰り返しながら、森全体をいつになっても知ることができない状態。
しかし、それが嫌かと言えば、嫌にはならず好きになる。

そんなしち面倒くさいことをあえてさせてしまうのが、読書であるのだしありきたりの詰まらん本を開かないための「予防線」でもあるのだろう。

本書はそうした予防線を持たない人にとっては無益だ。有害にすらならない。
迷うことを愛するがために、あえて迷いそうな本を欲する人よ来たれ、と誘いかけるのだから。

少し前に同じ著者の「花腐し」をレビューしたのだが、あの作品はあくまでも前哨戦のようなもの。
本書はさらに鬱蒼とした度合いが増して、樹木の密度も濃くなっているのだが、木々を多い尽くす重い空気そのものが水分飽和度をはるかに超えた湿度300%のまるで海の底のような空気になっている。
そのため、単純に肺呼吸だけで本書を読もうとするとすぐに息苦しくなってアップアップを始めてしまう。
やはりエラ呼吸をも学んでから読まないと、読者はこの文章の中で身を捩って溺れてしまう。

まさに本書の中に出てくる三つの魂の溺れ具合はそんな読者の生き写し。
死者なのか生者なのか皆目検討の付かない3人が相互に緩やかに関連しながらそれぞれの中途半端な生を終える終焉の図をそっくりそのまま描き取った地獄絵図でもあるだろうし、終焉は人生最高の饗宴なのだとお相伴に与りに行って自身の終焉に立ち会ってしまう皮肉でもある。

しかし、この死の圧倒的な匂いの濃さはなんだろうか。
小説と言うよりも三つの死の叙事詩である、と言うべきなのか。

文字で表すことの極限を垣間見たような気がした。

1998年 幻冬舎(幻冬舎文庫)


村上龍はデビュー当初からセンセーショナルな内容の小説をエキセントリックな雰囲気の風貌で発表してきた。
そのスタイルは、村上一流の照れも衒いも見せないクールさの中でうまく消化され続けて今に至り、チョイ悪オヤジではとても太刀打ちできない毒の香りを漂わせて「村上龍」というブランドを確立させている。

本書などは、ある意味で「ブランドは神話を裏切れない」ことを証明した作品であろう。

軽いノリの二十歳そこそこの主人公が外国人観光客を相手に日本の風俗店を案内するという設定は、ウズウズと血が滾りつつもその血の流れる先が見当たらないまま悶々とするこの年代特有の「焦り」「軋み」「うろたえ」を見事に表現してくれているのだが、それを主人公の座に居座らせない仕掛けが、これまた「村上ブランド」作品の真骨頂として現れてくる。

人であって人でない、ある意味超人というべき外国人のフランクを案内するところから主人公ケンジの空中浮遊のような日々が始まる。
まさに地に足の付かない領域を餌場とするケンジをさらに浮遊させてしまうフランクの底知れないドス暗さには、理由の明確にならない暴力という人間の根源部分が横たわっていて、描写はグロテスクなのについ読み進めてしまう最大の要素になるのだろう。

繰り返される暴力。
その背後にある不条理。
不条理だから理由なんてなくて、血を見るために血を流させることの繰り返ししかそこにはない。
それなのに、人間を読んでいるという満足感はしっかりと残る。

そして、タイトルの謎掛け。

成田空港は味噌の匂いで充満している。
海外からの来航者はそう感じるらしい。

ふと、そんなことを思ってしまった。

2001年 fontec

黒澤明の映画がNHK-BSで放映されることが多くなり、そんなきっかけで映画『どですかでん』も見直す機会があったのだが、ごく若い頃に見た極彩色の万華鏡の中に見る毒の結晶のようなこの映画のもうひとつの主役が音楽なのだなと、観ながら思ってしまった。

そして、その映画の音楽を思い出すと、鈴木大介の的確な手腕の冴えるこのアルバムを思い出して引っ張り出してみた。

曲目は以下の20曲

1) 小さな空(ラジオ・ドラマ『ガン・キング』)
2) 三月のうた(映画『最後の審判』) 
ギターのための12の歌
3) ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア
4) ミッシェル
5) ヘイ・ジュード
6) イエスタデイ
7) 失われた恋
8) 星の世界
9) シークレット・ラヴ
10) 早春賦
11) オーバー・ザ・レインボー
12) サマータイム
13) ロンドンデリーの歌
14) インターナショナル
15) 訓練と休息の音楽(映画『ホゼ・トレス』)
海へ
16) 夜
17) 白鯨
18) 鱈岬
19) どですかでん(映画『どですかでん』)
20) 青春群像(映画『写楽』)

7つの塊のうちの5つが映像に絡むこの曲集は、クラシックギターの音色が以下に映像喚起的かを思い知らせてくれる曲集であり、また、武満徹の果たして来たこの国の映像文化への貢献の大きさも知ることのできる曲集でもある。

基本的なメロディは平易でありながら、しっかりとした抑揚とダイナミズムが必ずあり、悲の裏の喜、痛の裏にある快がしっかりと音の成分に含ませてあるから、聞くものは映像と音楽との有機結合に酔わされるのだ。

このアルバムではもちろん映像はないのだが、その分を鈴木大介の音色が見事に補ってくれている。
特に映像音楽ではジャズ畑の渡辺香津美がものの見事に音を解け合わせて音に陰影だけではなく色彩的な陰影までを与え、ふっくらとした温かみを感じさせてくれる。

鈴木大介と渡辺香津美とのデュオは、以前生で聴く機会があったのだが、互いのジャンルの違いなどどこ吹く風と、「音楽」をともに奏でる喜びそのものといった演奏で、一方が陽であればもう一方は陰、そしてその入れ替わりが陰陽模様のように滑らかであったことを思い出す。

武満徹の音楽もまた、東洋に生まれたものの身体の中に必ず植え込まれているであろう陰陽模様を表しているのだから、この両者の奏でる音が最高のマッチングをすることは疑う余地もない。

7年前の盤だが、どうやら購入は可能であるようで、クラシックギターの音は単調だという先入観をお持ちの方がこれを聞けば、「否」という答えが響いてくるだろう。

2008年 角川書店(角川文庫)


恩田陸の描く世界は、一種の箱庭のような世界で、この世にはありえない小世界をあたかもどこにでもある町の一角のように表すから、ついサンダル履きで踏み込んでしまうのだが、庭に敷き詰められている玉砂利ひとつ取ってみても、普段踏みしめている砂利とは滑らかさが違って、背筋までゾクッとくるような描写で「恩田ワールド」に踏み込んでしまったのだと思い知らされる。

設定は普通に少し「異界」を交えてあるだけだが、実際の中はまさに異界そのもの。
その異界の中で繰り広げられる事件も、刑法犯罪というよりは「異界の掟破り」といった様相になる。
だから、推理小説仕立ての本書も、どこか異界の推理小説として読めてしまい、サスペンスやスリルといった要素からどうしても距離を置いてしまうことになる。

本書でいえば、「いるのかいないのか」明確でない犯人像がそれだ。
そして時効の壁をせせら笑う犯人に推理の手が伸びるほどに、この大量薬殺事件の不思議さに読み手は引き込まれるということになるのだろう。

読み進むにつれて現実世界とはどうやっても交わらないパラレルな位置にある恩田ワールドのなかにも、さらにパラレルに物語が進行していることがわかってきて、それを無理やりに交わらせてしまおうという力技に圧倒されることになる。

「真実」とは、と問われる本書。

ミステリーとして分類されているけれど、やはり幻想小説として個人的には括りたい気分だ。

2008年 アスキー・メディアワークス(アスキー新書)


この著者名でアップルを褒める本が出るとは意外だったが、読んでみて納得。
なるほど元マイクロソフトという肩書きをあまり先入観に強く持つとろくなことはない。

実際に今の中島氏の立場はとてもニュートラルで、プログラマであり経営者でありMBAコースの現役学生である今の立場を踏まえてとても自由闊達な論議を示してくれている。

アップル社が作る優れたプロダクツ、そしてソフトウエアの背景にある思想を「おもてなし」とし、日本のその分野の最先鋭というか世界の最先鋭であるはずのソニーがどうしてアップルに負けるのかがとてもよくわかる。
そしてもうひとつ、なぜマイクロソフトが必死になって米ヤフーを買収しようとしたのかについても、グーグルに打ち勝つという大命題を抱いたマイクロソフトとしては当然の行為であったということもわかる仕組みになっている。
さらにいえば、この世の醜悪なものの集大成といえるマイクロソフトの製品のデザインや製品思想のベースに「とにかく勝つだけ」というビル・ゲイツの思想がそのまま反映されているというところまでその懐深くで働いてきた著者の言葉を通してよく理解できた。

コンパクトな新書サイズの書籍ではあるが、「企業ドメイン」と「経営理念」という大きな視点から見定めたときに、一時の隆盛は誇れてもその後の展開でいかに生きていくかを見定める才に欠かせないヒューマンウエアについてとても示唆に富んだ本だった。

面白い商品を出し続けることがどうしてソニーにできなくなったのか。
その裏側には、ミドル層の脆弱化があるが、それ以上に発想の固定化があるようだ。
「ねばならない」からの逸脱がギーグとスーツの間で円滑に議論されるテーマになれば、失敗を恐れずに面白いシーズを生み出すことも可能だが、そこにギクシャクとした関係があれば、なかなか新しい発想で技術が生まれることはなくなっていく。
そのあたりはトップ経営者とも親交を持つ著者ならではの視点で分析されていてとても面白い。

アップルは一方で社名から「コンピュータ」を外してより自由度を高めているのだから、そもそも音響機器会社だったソニーが現社名に変えたときのようなドラスティックな変化がアップル社内に起きていることだろう。
トップの思想はそうした際に最もよく社内に伝達される。

企業のあるべき姿は気軽に論じるべきではないという風潮が昔からあるが、実はこの混迷した時代に、自由闊達にあるべき姿という青臭い話に熱弁を振るいあうことも、必要なのではあるまいか。

アスキーのそしてマイクロソフトのもっとも自由闊達で面白かった時代を知る筆者の言葉を読むにつけ、そうした思いが強くなった。

2005年 講談社(講談社文庫)

第123回芥川賞受賞作。
だから読んだわけではないが、月刊誌の方の文藝春秋に掲載された受賞作を読んだはずが、書店で手にして全く読んだ記憶がなくて悔しくて改めて購入して読み直した次第。

どうやら地上げ屋噺がその当時のリアリティに照らして少し違和感があったからなのだろう。
今読み返すと、今の世の中のさまよえる様にこそお似合いの小説という気もする。

松浦寿輝の物語ぶりは、あたかも詩人が言葉遊びに飽きてストーリーてリングを愉しんでいるような浮遊感のある言葉遣いがとても印象に残る。
最初から小説を志したというよりも、たくさん読んで感じて多くの詩を書いてその挙句に浮かんでは消えるあぶくのような物語に三百六十度光を当ててみて、それを言葉で表しているという印象を受ける。

本書は基本は現物によるリアリティを求めない小説だ。
現物ではなく人間の脳裏に浮かぶ虚と実と肉体の存在と不在とがない交ぜになった状態での生態におけるリアリティで書き綴られているから、言い方を替えれば「脳にとってのリアリティ」だけを求めた小説なのだと思う。

その性能の高さは、文字からしか得られない、特に漢字かな混じりの日本語の機能を最大限活用しているからに他ならないのだろうが、何よりも言葉に対する愛情の深さを強く感じさせてくれる。
言葉に対する愛情があればこそ、物語そのものの内包する人間に共通する矛盾を突かれても、静々と従ってしまいページを繰ってしまうのだ。

芥川賞の対象作品は基本的に原稿用紙100枚から200枚の範囲。
その範囲に収まりきる物語の形をした散文詩の香り高さを、味わうには絶版になるまでの間しかない。
おそらくは2005年に初版で刷られて以来、重版されていない本書は、探して買うだけの価値を持っているだろう。誰にでも、とは言わないが、少なくとも最後までこのレビューをお読みいただけた方にとってはと述べて終わりにしたい。

2002年 幻冬社(幻冬社文庫)


ということで昨日に続いて村上龍である。
個人的にはSMクラブの経験がなく、ただ想像上であれやこれやと文字面の裏の「痛<快」「虐<快」「苛<快」の姿を思い浮かべるしかないのだが、心地よきことの個人差よりも、「苦痛」のバリエーションの豊かさのほうにどうしても意識が向かってしまう。

本書はそんなSMクラブに働く女たちの群像に、「死者」の語りが絡みながら展開するという実験性の高い小説だ。
もちろん実験部分は革新的だが、核心部分は常に村上龍が書き続けている「失われた自己」の物語に他ならない。
そのため、どんなに道具仕立てが変わろうとも、デジャブ感に苛まれながら筆力に引きずられて読み進んでしまう。

ここで取り上げられる女たちは、一見するとまさに現代的な問題を抱えた人たちが、幻の紐帯を求めて集う姿に見える。
しかし、よくよく考えてみれば「人の毒」に早々大きな変化も起きようがなく、道具仕立ては変わろうとも「親が子に」「他人が他人に」傍若無人な虐待を繰り返す姿は永遠の人間の半身そのものだ。
それをバリエーション豊富に盛り込みながら、それでも「仲間」という暫定的な紐帯で遺伝子的な紐帯の代替をしようとする姿はやはりぐっと引き込まれてしまう。

ここでの実質的な主人公であるレイコが仲間たちから得るエクスタシーとはまさに日本語訳のひとつである「法悦」という文字にもっともふさわしく感じる。
「小さな死」と称されるオーガスムも、分解してしまえばオーガン=器の痙攣であるのだから、やはり法悦によってしか得られない自己回復を集団で得ようという試みなのだろう。
それが得られる手段がいくら特殊であっても、密室内で行われる限り誰もとがめだてできないことだ。

そしてそれを村上龍は放流して物語とした。
その実験性と比して、得られる感動のオーソドックスなこと。
普遍に達することができたからなのだろうか。