浮世の画家/カズオ・イシグロ | もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧)

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2006年 早川書房(ハヤカワepi文庫)


初めて読む作家なのだが、なかなか手ごわい相手だった。
名前は日本人の名前だが5歳で渡英し英国籍を取得。
ということはイギリスの作家だ。

なのに舞台は日本であり、戦争協力者として戦後を暮らす画家が「私」として登場するスタイルで、カバーも奥付も取り去ってしまったら、日本人作家の昭和40年代の小説が発掘されたのだろうと思い込んでしまってもおかしくはない。

5歳で渡英し、ということであれば、今年54歳の作者は、舞台となった時代の日本を体験してはいない。
それは今活躍中の作家たちは同じ条件なのだろうが、どうも「今」の意識や呼吸が欠落しているから、おいてきてしまった過去の小説、という印象になるのだと想う。

作者はおそらくは日本のことを主に映画を通して理解したのだろうし、そう考えると匂いはまさに昭和20年代から30年代にかけての映画のスクリーンから漂ってくる匂いそのものだ。

その違和感と既視感とが混在してみると、しかし不思議なオリジナリティがある。
それはありそうでありえない人物描写の「脚本」と「演出」の糸で動かされている味わいというべきだろうか。
小説はあくまでも想像の産物。
そして、我々が日ごろ読んでいる小説の全てとは言わないまでもことごとくは実体験よりは何らかのメディアを通したバーチャルな体験でしかないのだが、それが様々なところからインプットされて渾然一体となることでオリジナリティを獲得していくのだろうが、カズオ・イシグロのこの作品に限定してみると、作者の脳内スクリーンで上映されている映画そのものを書き取ったというのが最も近いのだと思う。
それも作者のオリジナリティであるし、そうした文学作法があってももちろんよい。

小説というよりも映画のノベライズを読まされているというか、この味わいは癖になるかもしれない。
実際、書店に行っておそらくは別な作品を手に取るだろうし、どれかを読むことになるだろう。

多くの小説が「どこかで見たこと聞いたことのモザイク」であるのであれば、この「一本気な生一本」小説は、とてもピュアな味わいで好ましいからかもしれない。