もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧) -3ページ目

もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧)

雑食性のレビュー好きが、独断と偏見でレビューをぶちかまします。

古今東西の本も音楽も映画も片っ端から読み倒し、見倒し、ガンガンレビューをしていきます。

森羅万象系ブログを目指して日々精進です。

1997年 幻冬社(幻冬社文庫)


村上龍は熱病みたいなものかもしれない。
青春時代に熱に浮かされるようにしてつい次々と読んでしまって、身体の中に溜まった熱を吐き出しきれずに難儀をした。
突発的に一冊を読んでそれで終わりということがなく、その時点で入手できるものは片っ端になるほどの熱狂を生むのは、類似性の中にある奥深い「熱さ」なのだと思う。

村上竜の作品は金太郎飴で、だからひとつが口の中で溶け切ると次を口に放り込むようにして読むのだが、今回も未読だった3冊を次々と読む羽目になった。本書はそのスターター役というところか。

主人公が想念の中でどんどん膨らませていく妄想は、おそらくは異常の範疇に至らない。
この程度で異常だとすると正常と異常の狭間で誰も身動きならなくなるのだが、その身動きを助ける女主人公も登場することで、いよいよ勢いを増していくので読み応えにつながってゆく。

村上龍の描く登場人物は必ず心に何かの外傷を抱えており、本書もそのひとつであるし、村上龍の子供だったり孫だったりと思われる作家たちの小説にも共通してそこからいかに足掻かせるかを描きどころとして書き分けが利くかどうかが手腕の見せ所となる。
そこはさすがにご本家。見事な手腕であるのだが、その基本性能は視覚に訴えかけてくる表現方法だ。さまざまなモノを登場させながら、そこに意図と意味と環状を押し当てていく技量の凄まじさ。そのモノを通すことで訴えかけてくるのは禍々しさとクールさを纏った暴力だ。

暴力は耐え切れ得ずに何かがはみ出してきて果たされる。
その果し合いの姿をずっと描き続けてきた村上ワールドは、敵も見方も自分も他者もなく破壊しつくす。
そしてその灰燼の中からしか再生などないと見通していく。

どれも同じ。
しかしどれも同じでありながら村上龍の脳裏に浮かぶリアルな人物像は異なる。
そのリアルをいかに自分の網膜に結び付けられるかという試みが楽しいから、また別な村上龍を手に取ることになるのだろう。

ピアッシング。
この現代的なようで原始より人類が人体に刻み付けてきた「願いの表象」を通して描きたかったこと。
誰の心にも空いている穴を覗いてみれば、解るのかもしれない。

2008年 メディアファクトリー


2004年に公開された映画『スウィングガールズ』の原作本。
いわゆるノベライズ(映画が先で小説に翻案するのが後)と違って映画には登場しない没シーンも出てくるというところがミソではある。

そして「小説」として映像抜きにして読むと、映像化できなかった要素がどれほどたくさんニュアンスとして盛り込まれていたのかがわかって、悪意のある読み方ではあるがとても面白かった。

なにせ、これから上映される映画は『ハッピー・フライト』(矢口史靖監督作品の最新作)であり、この原作は4年も前の前作(つまり4年間は新作の構想と製作のみ)を引っ張り出してきての新作宣伝材料なのだから、どのように切り刻んでも怒られはしないだろう。

話の筋はいたって簡単で、サボリ癖のあるやる気の無い女子高校生の一団がひょんなことからより楽をしようと手をつけた楽器演奏にはまって大きな演奏会に出演するまでの足取り、といった内容だ。
音楽は聞く側であるよりもどれほど下手であっても演奏する側の方が楽しいということを、徹頭徹尾表現しよう、ついては関係性のもっとも希薄なふたつの要素を組み合わせると面白いだろう。
ということが発想の原点。

そして、今回原作を読んで(実際には上映時に発行されていてしばらく後に単行本で読んではいたが)思ったのは、映画の中身よりもキャンペーンで絡めて作った尾鰭のつくりの巧妙さであった。
若い娘16人+男子1人を引き連れて実際にコンサートツアーを行ったりテレビジャックをやったりと派手なパフォーマンスを繰り広げて行われたこの尾鰭。
さらに解散コンサートまでがくっつく形で映画を超えて一人歩きし、DVD化に際してはほとんど台詞のなかった出演者もソコソコの役を与えられるという胸鰭までを付け加えてブームを根深くしてしまった。
この尾鰭胸鰭のおかげで、しかし映画の本質はどうやら誤読の嵐に苛まれているような気もしないでもない。
この尾鰭がにわかアイドルをたくさん作ってしまった功罪をしっかり反省してなのか、矢口監督は新作ではこの17人から一人も出演者を選んでいない。

さてと、スウィングガールズとは17人構成のビッグバンドジャズということになっているのだが、実際に必要な最小メンバーは7人。
七人の侍を思い出すまでもなく、群像劇のマジックナンバーは7が最適だ。もちろん3と5という数字も魅力的で、実際にこの映画では3、5、7をものの見事に使いこなしている。

そう、読み返してみてこの映画は3、5、77で構想され作られたということもよくわかったのだ。

つまりは音楽を演じて愉しむ原型をマジックナンバー3は物語のスタート時点ですでに音楽を愛して已まない3人(ピアノ・ベース・ギター)に与えている。
音楽をするのが好きで好きでたまらない、それ抜きでは生きられない中毒患者をあらかじめ配しておく技がきれいに決まっているわけだ。
次なるマジックナンバー5は各種の表紙などに現れる主役級と称される5人である。
これは物語のメインストリームを構成する上で欠かせない要素だしこの人間関係の軽い組合せが映画のコミカルな雰囲気を上手く伝える要素になっている。
最後のマジックナンバー7がスーパーの駐車場で『故郷の青空』と「メイク・ハー・マイン」演奏するベースとギターを含めた7人ということになる。

映画の本質としていえば、これで十分だ。
しかしビッグバンドジャズとしてはじめてしまった限りは員数合わせが欠かせない。
ということで小説でも映画でもそこからテンポが急に変わる。
残念ながらそのあたりは最初の構想でもそうだったようで、その理由はよくわからない。

映画で読むと面白いがこの後は文章で読むのはいささかダラダラとした叙述に思えてしまう。
映像芸術の要素が詰まったラスト3曲分はやはり眼で見て耳で感じる方がよさそうだ。

と、後は近々にフジテレビ系列でこの映画が放映されるようなのでお茶の間でお楽しみいただきたいのだが、マジックナンバー3をあなたは探せるだろうかという謎めいたコメントでこのレビューを終えたいと思う。

2008年 講談社(講談社現代新書)

タイトルは不機嫌な「職場」であり、なぜ社員同士で協力できないか、がテーマなのだが、実は「会社の中の職場」や「同じ会社の社員同士」という限定的な読み方をせずとも、もっと広く読める内容なので、フリーランスで働きつつその都度共同作業を行う場合でも、個対組織の中で行うものであれば、やはりとても役に立つ本だ。

それは、職場とはなにか、がまず本書では問題になっているからだ。
今のように社員がバラバラに分断されている時代の職場と、少々懐かしむ匂いは好きではないけれど、会社全体が運命共同体であった頃の緩やかな連帯感があった頃の職場では、そもそもの構成要素が異なっている。
ある意味では、竪穴式蛸壺に一人ひとりの社員がそれぞれの専門性を抱えて立てこもっている状況は、独立したプロとプロの関係よりもさらに危ういことがよくわかる。
会社は永続的にあるから価値があるわけで、プロがそれぞれの職分を発揮しきって何かを完成させればそれで終わりというプロジェクトとは、根本的に在り方が違うはずだ。
しかし、それぞれの専門性の高さやそれを磨き続ける努力を買われるという意味で、プロは自分の専門性をひたすら磨けばよいが、会社はそのプロ同士をつなぐ接着剤があまりに貧相だということだ。
社員同士で協力し合えないのは、隣の社員の蛸壺の中で何が行われているのかがわからないからだ。
関心を持ちたいと思わないこともあるだろうし、関心を持つ余裕がないからということもあるだろう。
他者との関係性をより希薄にしておきたいという心理が強く働けば、自分の領域を守ってそれでお仕事完成な状態がもっとも好ましいからだ。
しかし、仕事はそれぞれ独立して単品で成立するわけではなく巨大なモザイク画に仕上げる作業が欠かせないわけで、色ガラスの個人部分は常に金属フレームで結ばれるしかなく、そのフレームが脆弱だからモザイクがそのものが壊れ果てるという事態に至る。

いろいろな色の社員がいて、その色ごとの仕事の内容があるのは正しい姿だろうが、働いている人の中にも正規非正規が入り乱れ、正規であっても雇用契約の内容が年代によって異なっているなど、雇用形態そのものがモザイク化している中で、接着剤となる要素はあまりに乏しい。

コスト削減を旗頭にあらゆる人的要素の中で『ムダ』を排除してきた結果がこれだとしたら、あえて『ムダ』の再投入をする時代に差し掛かってきたのかもしれない。
低いレベルであっても長期間にわたって成長できてきた「成功システム」に矛盾が見つかっている状態で、新たな不況の波が押し寄せてきたとき、社員同士が手を取り合って波に立ち向かえる組織にしていかないと、今度の波は越えられないのかもしれない。

2008年 ソニー・マガジンズ(ソニーマガジンズ新書)


評者はユーロビートが嫌いである。
なので、書店でざっと斜めに眺めた段階で、小室哲哉とかAvexという固有名詞が評価する方向に並んでいるので躊躇してしまった。

しかし、嫌いだ嫌いだといって読まなくては、マーケティング分野の全体像を理解することは不可能だ。
なので結果としてはレジに持っていって全文拝読することにした。

もちろん、「儲かる音楽」と題されているわけで、品質についての論考ではない。
何が売れたか、その時代背景は何か。
もうひとつは、店舗に流れる音楽に特徴があるのはなぜか、が、わかればいいという姿勢で書かれている。

なので、儲かる=売れる音楽作りを歴史的に紐解くという流れは、この国のマーケティング変遷史を読むようで面白いし、心理学的な読み方もできる店舗のBGMなども、やはり「普遍性」をルートに考えてみれば面白い。

なるほど、居心地のよい店で流れるのは居心地のよい音楽であり、会話と味の邪魔をしないという狙いは、まさに「おもてなしのあるべき姿」なのだから、儲かる音楽そのものある。

ということで、先ほど挙げた固有名詞はさておいて、とても面白く読むことができた。

あとはきちんと論理構造が組み立てられれていれば、経営書に分類できたのだけれど、ほとんどの説明は感性的な類推が多いので、ちょっと無理かなと思う。

それにしても、ソニー傘下のソニーマガジンズがAvexを持ち上げる本書。
そういえばマーケティングの力で売れ線のど真ん中を打ちぬくと豪語してケミストリーをデビューさせたのはソニーミュージックだった。
同根だからいいのかと思うと、少し安堵し、嫌いな音楽のリストの中にケミストリーも入っていたなと納得してしまった。

2005年 文藝春秋(文春文庫)

以前、どこかに書いたかもしれないが、読者が本を選んでいるというのは大間違いで、実際には本の側が読者を選ぶ。成長しない読者はいつまでも同じ水準の本だけを読むし、文盲レベルの知性はそもそも本を読めない。
憧れの人が読んでいるからとか、無理やりプレゼントされて手元に残ってしまったり課題として押し付けられる以外、やはり本との別ルートはなかなか開かれないのだ。
だから高橋源一郎も、そうそうたくさんの読者を持ってはいない。

我が憧れのインテリ源ちゃん。
親しみを込めてそう呼んでしまうのは、あまりに独自なその小説世界への憧憬の念がいつも胸の中にあるからだろう。

さて、そんな大好きなインテリ源ちゃんの作品をご紹介できるのは正直とても嬉しい。

とはいえ、このレビューブログの特徴として、「標準の範囲」にある作品はあまり取り上げないということがあり、本書もその常と同じように「標準の範囲」に収まっていない。
言い方を替えよう、読む甲斐があるというのは、その本が持つ世界にドップリと浸れるということだからだ。
その読み甲斐がガッツりある本は、やはり標準という基準では図れないのは当然だ。


ということで、本書は相当に癖もあり読み手も選ぶ。

見かけは短編集であるのでその中には相当にエロい作品も含まれるが、扇情的なエロチックさも銀座ライオンの紙カツのようなあっさりとしたペチャンコさがあって心地よいし、死者が集まっても幽霊譚にも都市伝説にもならない手際のよさにお見事!と声をかけたくなる。

その原因は、どうやっても川上から川下に水を流さないぞとばかりに、あらゆるサイフォンを取り付けて水はいつまでたっても形而上を流れるからだ。
全ては形而上の遊びとしてイメージワークが紡がれているからこその目くるめくファンタジー文学。

日本人がいくら怒鳴り散らしたところでソウルミュージックにはならないが、PCやシンセサイザーを通してよりファンキーな別音楽が作れるように、形而下を書かずして形而下を匂わすその手腕にいつも脱帽させられてしまう。

そして巻末の自筆解題では独自の世界を醸し出すタイトルの秘密まで明かしてくれていててんこ盛りの本書。

読み方によっては確かに相互に無関係なバリエーション豊かな短編集なのだが、しかしこれは1冊のゆるいゆるいつながりの長編と読むこともできそうだ。
というよりは高橋源一郎という長大な物語の一部として、全体を愛しむように読みたい本だ。






2007年 講談社


小説にもさまざまなタイプがあって、物語るという部分をいかに切り開いていくかという作業は、作家のありようをそのまま伝えてくれる手触りから知ることができる。

作品の手触り。
あくまでも紙をめくる指先に感じ取れる厚みや湿度温度にしなり具合、そして開くたびに鼻腔を刺激するインクの少し気取った香り、視覚言語野に真っ直ぐに突き刺さってくる文字列は、日本語ならではの漢字ひらがなカタカナ句読点空白文字間行間などを一幅の風景画のように見せて眼球に触れようと勢いをつける。
そんな物語以前の手触りのよしあしもまた、本を読む愉しみに加えてもいいだろう。

蜂飼耳は詩人である。
詩は小説とは違う。
小説は詩とは違う。
違いはどこかと問われると、ここが違うと明確に答えるすべがない。

蜂飼耳は小説を書いた。
それは明らかな事実で、ここのその小説集の現物がある。

開くとあたかも小説のように見えるし、読んでみても小説の手ごたえがある。
しかし、頭の中で呼び覚まされるものは、どうやら詩を読んでひっくり返される部分ばかりなのだ。

だから物語を読みながら詩を読んでいるし、詩を読む感覚でスルスルと小説世界に入り込んでいく。
この韻文散文の入れ子構造に加えて物語の巧みな幻想世界が結びつくことで、目がくらむような芳醇な文学が出来上がった。

ストーリはあるのだが、そこでの主張に何か明確なものがあるというよりも、たゆたうイメージを紡いでいるうちに物語の原型ができ、そこに詩の作法で膨らませていって、ということになるのだろうか。

蜂飼耳は未読の詩人であり作家であったのだが、手始めの一冊として本書を選んだのは正解だったのか、それとも詩集から読むべきだったか、後に出された長編をまずは読むべきだったかはわからない。
しかし、確実にもう一冊、いやおそらくは発行されている書籍全部を読むしかなくなるだろう。

そう予感させる小説はそうざらにはない。
1971年 EMI/Odeon

追悼リック・ライトのレビューとして選んだのは、後期の斬新な構想がガンガン詰まったアルバム群ではなく、比較的初期のこのアルバムだ。

ピンク・フロイド創設期からのキーボードプレーヤーだったリック・ライトは、創業の雄シド・バレットはさておいて、その後任のデビッド・ギルモアにも早々に追い抜かれてこのバンドでもっとも地味な存在になっている。

ソロ作を作るでもなく、ひたすらにバンドサウンドの背骨を支える役割に徹していたライトの代名詞はハモンドオルガンM102にビンソン・エコーユニット、レズリー147スピーカーという取り合わせの楽器群だ。

ブルージーな路線をひた走るメロディー側を、ファンクのスパイスが効いたライトのキーボードが支える。
そして、やたらとオカズの多いドラムスが突っ走っても、爆音とどろかせてリズムキープを逸脱するベースがうなっても、楚々としてサウンドの芯を形作るから彼らは崩壊せずにプログレシブ・ロックの王道と呼ばれたわけだ。

このアルバムではまさにシンセサイザー大流行以前に、よくある楽器を使ってサウンドの工夫でサイケデリックを表現しようとした試みとして、実は名盤『原子心母』以上の傑作と呼ぶことができそうだ。

特に冒頭に出てくる「吹けよ風、呼べよ嵐」のおどろおどろしい渦巻く低気圧イントロは、エコロジーなんて言葉のなかった時代に、何かがおかしい!と放った警句として、今だからこその価値を感じてしまう。

イギリスのバンドらしくA面の残りはアーシーな香りが高いフォークロックやブルースの曲がサイケデリックな表現を伴って収録されていて、短い曲は別世界がピンクフロイドのやり方であるというのもうまく表現されている。

そして最重要曲がB面全部を占める。
CD時代になって、片面1曲のありがたさがなくなってしまって淋しいが、しかしおよそ23分の「エコーズ」は、時間単位での凝縮具合で言えばピンク・フロイドにとって最も緊張度の高い1曲になっているといえるだろう。

ここでのライトの活躍ぶりは、特筆ものだ。
支えるだけではなく、サウンドの要、アイデアの源泉、そして歌心の核心として音の出ていないところでさえ、しっかりとした存在感をかもし出してくれる。

当時のロック界は各種ドラッグが大流行な時代で、その影響が色濃く出ているが、ピンク・フロイドのこの時期のサウンドは、酩酊から覚醒への強い意志を感じてしまう。
そんな時代背景を知ると、さらに楽しめるアルバムだ。

ここに収められた「サン・トロペ」なんてSuperflyがカバーしてくれると、面白そうだ。

2008年 晶文社


草間弥生の絵が好きな私はもちろん綿引展子の絵も好きである。

そして、彼女の書く文章も好きになった。

こうした本との出会いは、じっくりと自分と向かい合う時間がなかなか持ちにくい現代人の生活の中では、とても貴重なひと時をもたらしてくれるだろう。

綿引展子の作品はおおよそこんな感じだ。

google画像検索

そこに真っ直ぐな言葉が書き連ねられる。

若い人たちの衒いや気取りが外された、年相応の素肌のような文章。
しかし、正面からまなざしを向けてその言葉たちと向かい合うと、その素肌そのもののような文章のリズムが心地よく、音読したくなるメロディを内包している。
だからここでは詩集と分類したのだが、おそらく作り手の側もそれを志向したのだと思う。

本書の半分以上は綿引展子の絵画作品が占める。
それらは6つのテーマに分けられて、巻末の作品目録に色分けで分類されている。

「自分の位置」「感情」「虚無の穴」「耐える歯」「意志としての目」「他者との接点」という自分自身から社会までの多段階分類がその絵の気分を見事に表している。
初期の作品では「自分の位置」が圧倒し、徐々に耐えたり混乱しながら「他者との接点」で個人が啓かれるプロセスが絵の並びとしてあることがよくわかる。

同じ年齢の画家の個人誌のようなこの詩画集は、まさに自分自身も紐解かれているようで、繰り返し読んでも飽きないし、自分自身を読む格好の材料にもなっている。

この本を何度もめくりながら自分も鏡を観るように映してみる。これはとても愉しい作業だ。

若い方には前段の激しさを、熟年に近づくにつれて後半部分の諦念の中にある埋もれ火の熱さをそれぞれ愉しめる本だろう。

さすが晶文社、といいたくなる一冊だ。

2008年 角川書店(角川oneテーマ21)


正々堂々とコンプライアンスについて語る「非管理職店長に無限残業地獄を与える」企業のトップの自慢話。

そう書いてしまうと、もうそれで終わってしまう。

しょうがない、マクドナルドという日常的に足を向ける必要性を一切感じない企業のトップが、いくら自慢たらたらの自説を唱えても、響くものが何もなければそれまでだ。

しかし、坊主憎けりゃの譬えのように、会社なり商品なりジャンク食品そのもののを否定するのと人を否定するのは別な話だ。
そして、よくよく読めば、人としての原田社長の魅力だって当然ながら読み取ることだって出来る。

残念なのは、会社の素晴らしさを自信を持って引いた例でことごとくやっていること薄っぺらさの証明になってしまったことだろう。
とくに店長の扱いなんてまるで天国地獄を辞で行くような見え方の違いがある。

巨大組織の中で大切なことは、企業理念の徹底だ。
それを徹底して矛盾なく執行できれば、企業は道に迷わないし迷う事態になっても軌道修正することが出来る。
しかし、どうやら企業理念の段階と実際の商売の間に乖離がある企業の場合は、やはりどこかで無理を承知の部分があるから、「表向きのかっこいい話」と「現場での無間地獄」との差はどんどん広がってしまう。
コンプライアンスなども「条文の表層解釈」と「業務遂行上の必要」という狭間での本音と建前の使い分けで前者だけがのさばってしまっているのが現状なのだろう。

そこで注目したかったのが「消費者の欲求を考える意味」という意味深なサブタイトルだ。

一時間に一人か二人のお客を増やすと年間1000億円売り上げが上がる。
という計算式を堂々と引くのだけれど、悲しいかな1000億円分国民の食環境が悪化するということに思い至らないのだ。
1000億円分の無駄な食材を費消せずに済む方法。
それこそがコンプライアンスと社会貢献なのだと思うのだが。

この本の印税の一部がチャリティー活動に使われると書かれていても、「企業名を冠した財団を通しての売名」である限り、社会貢献は二の次だと企業姿勢を疑ってしまう。

アップル社日本法人の社長だった頃は、面白い経営者だと思っていたのだが、少し残念な気持ちで読了した。
2008年 Warner

引き出しの多さをお披露目してくれたファーストアルバムで、今度はそれぞれの引き出しの奥行きはどんな音楽が詰まっているのかと関心を引いてくれた越智志帆=Superfly。

連日聞き込んでいると感じるのは、やはり21世紀の耳に新鮮に飛び込んでくる音楽からインスパイアされた楽曲の心地よさだ。

今回の舞台は大ブリテン島であるようで、表題曲はローリング・ストーンズの新曲ではないかというゴリゴリのブリティッシュ・ソウルフル・ロック。
2曲目の"Perfect Lie"はドノバンのバックにリンゴ・スターを配したピートモスの香り。
ラストはよくぞ!の選曲でFreeの"My Brother Jake"のカバーだ。

大ブリテン島が排出した天の川のような名曲の数々の中から、枯れた味わいの滋味溢れるこの曲を選んだのは慧眼以外の何ものでもない。

この選曲から感じるのはピーター・アッシャーが徹底した隠れた名曲探しで探し当てた宝石箱のようなリンダ・ロンシュタットのアルバムたちである。
演奏家たちはあくまで新曲であるかのように演奏し、歌手はあたかもオリジナルであるように歌う。
しかし、原曲に対する尊敬の念がその芯にあるから聞く者の魂は幾重にも震わされる。

楽曲を作るオリジナルSuperflyに演奏家たちとプロデューサーの共同作業の中で、この曲がどのように語り合われたのかはわからないが、チームとしての演奏力をシングルカットの表題曲で見せつけ、表現力の深みと広がりをカップリングの2曲で示すというのは、まさに理想的な拡大Superflyになりつつあることを示しているように思う。

さてと表題曲。
一筋縄でいかない構成のこの曲は、曲つくりの面でもどんどん進歩しているのがよくわかる。ボーカリストの声量を最大限に生かすとともに、明暗の微細な表現力までも現しつくしているので、一気に爆発してそれで終わりではなく、徐々に聴き応えが増していくという分厚いスルメ状態を極めてきている。

そんなスルメ的な仕掛けがこのシングルに含まれていて、ノリノリの後にシミジミとしてグデングデンに酔うという、10分あまりの音楽トリップには何度でも漕ぎ出したくなるものだ。


さてと、次なる舞台はベルファストかそれともアトランタか。