2002年 幻冬社(幻冬社文庫)
ということで昨日に続いて村上龍である。
個人的にはSMクラブの経験がなく、ただ想像上であれやこれやと文字面の裏の「痛<快」「虐<快」「苛<快」の姿を思い浮かべるしかないのだが、心地よきことの個人差よりも、「苦痛」のバリエーションの豊かさのほうにどうしても意識が向かってしまう。
本書はそんなSMクラブに働く女たちの群像に、「死者」の語りが絡みながら展開するという実験性の高い小説だ。
もちろん実験部分は革新的だが、核心部分は常に村上龍が書き続けている「失われた自己」の物語に他ならない。
そのため、どんなに道具仕立てが変わろうとも、デジャブ感に苛まれながら筆力に引きずられて読み進んでしまう。
ここで取り上げられる女たちは、一見するとまさに現代的な問題を抱えた人たちが、幻の紐帯を求めて集う姿に見える。
しかし、よくよく考えてみれば「人の毒」に早々大きな変化も起きようがなく、道具仕立ては変わろうとも「親が子に」「他人が他人に」傍若無人な虐待を繰り返す姿は永遠の人間の半身そのものだ。
それをバリエーション豊富に盛り込みながら、それでも「仲間」という暫定的な紐帯で遺伝子的な紐帯の代替をしようとする姿はやはりぐっと引き込まれてしまう。
ここでの実質的な主人公であるレイコが仲間たちから得るエクスタシーとはまさに日本語訳のひとつである「法悦」という文字にもっともふさわしく感じる。
「小さな死」と称されるオーガスムも、分解してしまえばオーガン=器の痙攣であるのだから、やはり法悦によってしか得られない自己回復を集団で得ようという試みなのだろう。
それが得られる手段がいくら特殊であっても、密室内で行われる限り誰もとがめだてできないことだ。
そしてそれを村上龍は放流して物語とした。
その実験性と比して、得られる感動のオーソドックスなこと。
普遍に達することができたからなのだろうか。