よく見ると、百日紅(さるすべり)のように、
フリルが一杯の花びらですが、
ミソハギ科と言いながら、
禊萩(みそはぎ)に、
こんなフリルは、なかったような。
 
サルスベリは、中国南部の原産ですが、
シマサルスベリは、
南西諸島に自生しているそうです。
 
シマは、南西諸島の意味です。
 
島百日紅の自生の個体は、
20メートルに、なるそうですが、
ありきたりの百日紅のほうは、
何メートルになるのでしょうか。
 
いずれも、日本本土に自生しませんので、
知らないのは、当然ですが、
植栽されているシマサルスベリは、
確かに大木です。
 
ふつうの百日紅のほうは、真夏に、
その名の通りに、ずっと咲き続けますので、
こじんまりとした幹から、
ひょろっと伸びた穂のように、
風に揺られている姿が、印象に残ります。
 
島百日紅は、大木になるだけでなく、
葉の量も、桁違いに多く、
真夏に、こんもりと茂った日陰を作ります。
 
梅雨の最中の今頃に、
短く咲いて、散りますから、
島百日紅は、百日紅に比べて、
野生が残っていると、言うべきなのか・・・
 
関東平野なら、
北関東でも大丈夫と、言われていますが、
わたしは、東京や大阪の、街の中でしか、
見たことがありません。
 
遠くからは、栃の木よりもデカイ木に、
花が咲いている感じですが、
季節が少し遅く、近づくと、葉が違います。
 
シマサルスベリと気づき、
大喜びで写真を撮るわたしは、あほです。
 
 
   ***    ***
 
 
2足歩行のように、
無意識の習慣が、自動的に実行されることを、
わたしたちは、知っています。
 
言葉は、特に学んだつもりが無くても、
幼児の頃に接すれば、勝手に覚えます。
 
成人してからでは、努力して学ばなければ、
死ぬまで習得できません。
 
年齢による違いがあります。
 
猿に教えても、聞き取ることさえ、
なかなか、できないように、
生まれつきの素質は、個体により違います。
 
猿と人間の、生まれつきの素質の差が、
見てくれの違いにより、識別できますので、
わたしたちは、エステティックにより、
個体を差別して、
猿や人間と、名付けています。
 
けっして、
性交渉や遺伝子の分析などを、試みてから、
生殖不能や遺伝的素質などを、
知ったのでありません。 
 
見てくれだけで、決定的に差別しますから、
エステティックと言います。
 
その問題を、今は、さて措(お)きます。
 
 
   時間や空間や論理法則などのうちの、
   時空は、他の動物にも、
   古くから伝わるプログラムです。
 
   簡単に証明できますので、
   証明しません。
 
   そのような証明と言われる言説は、
   論理法則に
   一致しなければなりませんが、
   何と何が、
   論理法則と言われる教条であるかを、
   だれも、全部は知りません。
 
   論理法則の個々の教条は、
   文法のように、
   ただの流行文化にすぎません。
 
   知覚が、時間や空間だけでなく、
   論理法則と言われる言語の規則性の、
   流行文化に一致するので、
   自然ついての、
   科学と言われる論理法則による証明が、
   科学技術の事実のように、
   だれが、いつ行なっても、
   知覚の対象として、再現されます。
 
   言語の流行文化の規則性の通りに、
   規則的に、対象が知覚されるので、
   自然を論理法則により説明した通りに、
   確かに科学技術が再現されると、
   知覚されることを、
   自作自演と言います。
 
   無意識の習慣と、
   生まれつきの素質のような、
   規則性のプログラムが、
   知覚を制御しているからです。
 
   特定の習慣は、
   文化的に、すべての個人に行き渡り、
   特定の生まれつきの素質は、
   望まれない素質の個人を殺して、
   品種を改良すれば、
   すべての人が、同じ知覚の規則性を、
   共有することができます。
 
   
当然に、知覚の対象は、不要でないかと、
疑われます。   
 
知覚の規則性を、共有すれば、
知覚の対象を、共有する必要は、ありません。
 
わたしたちは、他人の知覚の内容を、
だれも、検証することができないと、
すでに何度も、このブログに書いた通りです。
 
個人の知覚の内容を、他人に伝えるための、
言葉や写真やビデオなどの、
コミュニケーションのメディアの表現を、
他人は、共有することができるだけですので、
個人の知覚の内容が、表現の通りであると、
他人は、だれも検証することが、できません。
 
他人に共有された知覚とは、
言葉や写真などの、
メディアの表現にすぎません。
 
そもそも、論理は、
違うものを同じと、定義するのが、基本です。
 
同じ言葉を、使用するたびに、
定義の内容は、異なりますから、
言葉は、すべて同音異義語です。
 
言葉だけでなく、
写真や音声ファイルやビデオなども、そう。
 
概念は、すべて同音異義語です。
 
 
   わたしたちは、対象を知覚して、
   規則性を知るのでなく、
   一連の知覚の仕組に、
   いくつもの規則性を放り込めば、
   概念を限定して、対象を知覚したと、
   自覚する答えが、出てくるだけです。
 
   目があり、身体があると、
   知覚された事実は、
   限定された概念にすぎませんから、
   わたしたちは、
   漠然として限定されない概念を、
   幾つもの文化的な規則性の信仰から、
   目や身体のように
   具体的に限定された事実として、
   対象が知覚されたと、
   自覚するにすぎません。
 
   リアルタイムで、
   信じる規則性が変わるので、
   限定されて知覚される事実も、
   変化するのは、当然です。
 
   事実を信じるのは、
   妄想や幻覚の典型ですから、
   それを、主たる症状とする精神病が、
   単に、精神科医自身の精神を、
   診断したにすぎないと、
   わからなければいけません。
 
   自分の病気を、患者のせいとするのは、
   精神科医であることが、
   最もひどい精神病であるからです。