銀梅花は、葉に香りがあり、
料理に使うようにと、
レシピに書かれていますが、
日本の家庭料理に、この葉の香りが移ると、
食べられない味になるかも。
 
わたしは、手で揉み、
ローズマリーなどの類の香りだなと、
確かめるだけで、十分です。
 
鼻に、心地よい刺激を与えてやると、
脳が目覚めるような気がします。
 
樟脳の香りにも、
ひょっとしたら、似ているかも知れません。
楠(くすのき)の木陰の、今頃の香りです。
 
英語のマートル(Myrtle)や、
ドイツ語のミルテ(Myrte)と、
この木を呼ぶ人もいますが、
夏でも暑くないイギリスや、
冬に凍える寒さのドイツなどでは、
南国を象徴する花として、よく歌われます。
 
フトモモ科の長い雄しべですが、
東南アジアや中国の
蒲桃(ほとう・pútáo)が、
沖縄で栽培されていることから、
フトモモ科と言われています。
 
蒲桃だけで、桃の意味が入っているのに、
どうして、蒲桃モモと、重ねて言うのかが、
不思議ですが、
フトモモって、覚えやすいので、
それでも構いません。

日本では、ギンバイカのほうを、
よく見かけますので、
マートル科(Myrtaceae)と言ったほうが、
学名とお揃いで、わかりやすいかも。
 
御存知のように、同じ科の植物は、
だいたい、同じ季節に咲きますので、
ブラシの木やフェイジョアなども、
今、よく見かけます。
 
わたしは、マートルの花が咲くと、
そろそろ梅雨だなあと、納得します。
  
 
    ***    ***
 
 
精神の病気は、そう診断されるだけで、
本人や周囲の人が、納得するような、
毎度お決まりの、
世間一般の判断の手順があり、
本人や周囲の人が、それに気づきません。
 
みんなと一緒の、道徳や常識などの、
権威や権力について、
不服従の人や心を、
忌避したり憎んだりする気持ちですが、
精神科の判断の根拠は、それですから、
法律違反のほかに、
全人口の1%もの人を、強制的に拘禁して、
身体刑を加える精神科医の独断が、
罷り通っている世界の現状は、
罪刑法定主義もへったくれも、ありません。
 
法治主義の社会と、言い難いのですが、
法律家の頭が、医師と比べて劣るので、
仕方ないと諦めるのは、早計です。
 
精神の診断に、
証拠や証明が必要ないだけでなく、
それを納得する世間一般の人であっては、
危険で不条理な社会にならざるを得ないのは、
当たり前と、
わたしは、このブログに書いています。
 
こんなことを言うと、怒られるでしょうが、
大阪教育大学附属小学校の宅間守君や、
津久井やまゆり園の植松聖君などが、
精神病なので、もっと厳しく
道徳や常識により、
もっと法律を蔑(ないがし)ろにして、
すべてに精神医療を強制しろと、
マスコミのように叫べば、
そのような気持ちが、
彼らの犯罪の原因なのですから、
精神病として処理される犯罪が、
ますます増えるのは、言うまでもありません。
 
みんなと一緒でない不道徳で非常識な奴を、
法律違反でなくても、
精神病として強制的に治療せよ、
というマスコミや精神科医の意見と、
自分と正反対の奴らには、耐えられないので、
自分は死刑になっても良いから、
殺してしまえ、
という宅間くんや植松君の気持ちとは、
同じです。
 
どちらの考え方も、
ロマン主義の残り滓にすぎませんが、
理由や背景はともかくとして、
たったこれだけの理屈を、
マスコミや法律家は、
論理的に処理できません。
 
わたしは、それが一番、困ります。
 
 
   道徳や常識などの、
   みんなと一緒の価値を、
   蔑(さげす)み、
   多数派に逆(さか)らい、
   不道徳や非常識に、
   屯(たむろ)する者を、
   精神の病気であると、診断して、
   強制的に監禁投薬する精神医療を、
   今よりも、もっと、
   超法規的に実施すべし、という主張が、
   法律や科学技術や身体科の医学などの
   論理や理屈を、理解できない人たちの、
   圧倒的多数派であると、
   言われています。
 
   説得するのが、論理的に無理であり、
   感情的でなければ、通じませんから、
   わたしは、苦手です、
 
   精神病患者のように感情が平板で、
   釈迦のように、人で無しで、
   キリストのように、非常識であると、
   たくさんの人に、わたしは、
   陰口を叩かれているそうです。
 
   感情は、幼児の頃から希薄で、
   論理法則と言われる種類の、
   変更不能になった流行文化の教条に
   照らして、
   物事(ものごと)の因果関係を
   類推して、
   再現性を実験する判断の手順を、
   わたしは、
   無意識に実行してしまいます。
 
   身体科の医学でない精神医学が、
   再現性のない道徳や常識や権力などを、
   判断の根拠にして、
   強権を発動する理不尽に、
   解けない疑問を感じています。
 
   世界で1億人、日本で100万人の、
   精神病と言われる廃人は、
   病気でなく、健康であったのに、
   道徳や常識や権威や権力などに、
   不服従であったために、
   強制的に薬物を投与されて、
   脳の機能を破壊された被害者であると、
   正当に考え直すべきと、思います。
 
   そうしなければ、
   かれらを廃疾から救出する手立てが
   ありません。
 
   生き残るべき人間として、
   精神科医と精神病患者の、
   二者択一を、迫られると、
   わたしは、精神病患者を選び、
   申し訳ないが、
   精神科医には、諦めてもらいます。
 
   精神病と診断されたような人が、
   新しい時代の担い手であると、
   わたしは、確信しています。
 
   精神病と診断された精神のほうが、
   コンピュータの判断の手順に、
   合致しているから、
   わたしのこのブログのタイトルに
   なっています。
   
 
わたしは、以前に、
精神医学から見た性同一性障害
(統合失調症と発達障害)
というブログを書いていました。
 
現在の、
コンピュータから見た精神医療や、
精神医療の廃止とコンピュータなどと、
違うように思うかも知れません。
 
別に、
以前は精神医学を肯定していたわけでなく、
以前は、
精神医学から見た性同一性障害を、
書いていただけです。
 
精神医学から見れば、
性転換は、統合失調症や発達障害と、
診断すべきであると。
 
それが良いとか、悪いとかでなく、
精神医学の判断の仕方からすれば、
そうするのが、当然であると、
書いていました。
 
実際には、性転換について、
手術やホルモンを要件とせずに、
何度でも自由に、
事務的な性別を変更できるようにすべきと、
主張しました。
 
今も、変わりません。
 
その主張は、精神医学と正反対ですから、
精神医学から見た性同一性障害のタイトルが、
精神医学に批判的な意味であるのは、
言うまでもありません。
 
現在は、ブログのタイトルを、
コンピュータから見た精神医療、
としています。
 
こっちのほうも、必ずしも肯定的でなく、
コンピュータを作った考え方が、
ロマン主義を否定することから
始まったように、
ロマン主義の総本山のような、
進化論や精神医学などを、やっつけるには、
ここから始めるのが良いと、思ったからです。
 
コンピュータを作った考え方の、
イギリス経験論による新しい精神医療が、
現行のロマンティックな精神医学を、
駆逐するところまで、行けるかどうかは、
まだ疑問ですが、期待しています。
 
 
   期待しているなどと、
   他人事(ひとごと)のように言うのは、
   わたし自身が、
   精神医療の当事者でないからです。
 
   今後も、精神科医になる予定は
   ありません。
   身体のほうが、死にそうですから。
 
   性転換のような、
   本人の自由意志で行なう行為の、
   どこが、
   性同一性障害と言われるような、
   病気ですか。
 
   自由意志なら、考え方の違いが、
   世間に多々あろうとも、
   思想や信条の自由ですから、
   病気とは無縁のものとして、
   議論されれば良いことです。
 
   実力行使に及ぶかのように、
   性転換を実行するのは、
   権力の法律に違反するか、
   しないかの問題であり、
   違法なら、逮捕すれば良いことであり、
   逮捕できないからと言って、
   精神疾患と診断するのは、
   言語道断です。
 
   性転換をする人は、
   医療の便宜を求めて、
   病気という診断に
   甘んじているだけです。
 
   法律に違反していないのに、
   権力や道徳や常識などに、
   不服従であることを理由に、
   精神医学が、強制力を発揮して、
   人を廃人にすることを、
   このブログは、批判しています。
 
   法律に違反していると言えずに、
   逮捕できないのなら、
   医療は、性転換者のために、
   便宜を提供しろと、
   わたしは言っています。
 
   逮捕できないから、
   精神疾患と診断するなと。
 
   わたしのブログの内容が、
   バクーに行く前と、帰国後と、
   一貫していることを、
   もしかしたら、
   誤解されるかもしれないと、
   思いますので、
   弁明したつもりです。