さきおとつい(2018年6月12日)の

島百日紅(シマサルスベリ)に、
ミソハギ科なのに、
禊萩(みそはぎ)に、
こんなフリルはなかったようなと、
書きましたが、
ミソハギも、けっこう縮れています。
 
写真の通りに、確認しました。
 
サルスベリを、英語では、
Crape-myrtle(クレープマートル) と、
言いますが、
ミソハギの英語名は、知りません。
 
ネットで検索すれば、出てきますが、
聞いたことがないので、知りません。
 
受け売りは、面倒臭いので、書かない。
 
死にかけの年寄りになのに、
今更、他人の受け売りで、暮らしたいと、
思いませんから。
 
この写真は、エゾミソハギのようです。
 
撮った時に、気づきませんでしたが、
今、貼りつけて見ると、
萼(がく)のトゲが、
上向きになっていますので。
 
エゾと付いても、
別に、北海道と関係ありません。
 
もしかしたら、北海道に多いと、
感じた人がいたのかも。
 
わたしは感じません。
 
植物の和名は、命名規約があるわけでなく、
通俗名ですので、
どんな名前であろうがなかろうが、自由です。
 
他人に通じない名前を使っても、
仕方ないだろうと、思うだけの話です。
 
自分勝手に名前をつけても、へっちゃら。
 
何が嘘で、何が本当、というようなことは、
ありません。
 
 
   ***    ***
 
 
論理とは、何かを、御存知ですか。
 
ここでは、論理学と、言う場合の、
論理のことですが。
 
そうでない論理は、
「これが、私の論理である」とか、
「それは、あなたの論理にすぎない」とか、
何とでも解釈できる意見のことですので、
紛(まぎ)らわしい。
 
だから、論理学と言う場合の、論理と、
限定します。
 
紛らわしさを排除するために、
このブログでは、論理法則と、言います。
 
 
   何と何と何が、論理法則の教条ですか。
 
   全部で、いくつ、ありますか。
 
   論理学では、わかっているのですか。
 
   
そんなのは、だれも、知りません。
 
それにもかかわらずに、
論理的でなければ、裁判に勝てませんから、
裁判は、
論理法則に、一致していなければいけません。
 
もっと厄介なのは、
自然科学の法則が、論理法則に一致して、
科学技術の事実として、
確実に再現されることです。
 
裁判は、法律と事実に、拠りますから、
事実は、論理法則に一致しているはずと、
法律家は、信じています。
 
嘘こけ。
 
判決文を読むと、信じられない、という言葉が、
いくつも出て来ます。
 
心証の自由と、法律家は言います。
 
信じられないような、心証の自由が、
論理法則に一致しているワケがない。
 
事実による判断であるワケがない。
 
 
   法律の条文は、人の意見です。
 
   事実と、全然違います。
 
   裁判が、事実を標榜するのは、
   マヤカシです。
 
   法律の条文のように、
   ただの変更困難になった意見を、
   判断の根拠にしながら、
   事実に依拠しなければいけないと、
   信じるのは、支離滅裂です。
 
   人の意見と、事実が、
   一致するというメカニズムが、
   憲法に示されていません。
 
   大陸漂移説のように、
   いくつかの大陸の海岸の地形が、
   パズルのように一致すると、
   主張するには、
   大陸が移動する原動力を、
   示さなければいけません。
 
   法律と事実が一致する原動力を、
   憲法は、隠蔽しています。
    
   ロマンティックな判断の手順が、
   明らかになれば、
   日本国憲法が、
   スターリンやヒトラーの思想を、
   継承していると、わかります。
   
 
裁判は、人を殺すのに、
論理法則に拠るのか、事実に拠るのか、
心証に拠るのか、法律に拠るのか、
根拠が不明です。
 
道徳や常識や作法は、
裁判の根拠でないのでしょうか。
 
事実は、
論理法則に一致しなければいけないと、
ロマン主義が信じた理由を、
現代の日本人は、知りません。
 
人の意見が、論理法則に一致すると、
勝手に主張するのでなく、
事実は、必ず論理法則に一致すると、
自然科学は言います。
 
自然科学の法則は、
論理法則に一致しなければならないと、
科学者は信じています。
 
論理法則の教条が、何と何と何であるかを、
だれも知らないのに、
どうして、わかるのでしょうか。
 
    
   科学技術の事実は、
   だれが、いつ行なっても、
   必ず再現されますから、
   完全に、論理法則に一致していると、
   言われます。
 
   完全に必ず一致するのなら、
   自然科学の法則や論理法則や
   事実などは、
   ただの定義でありませんか。
 
   科学技術の信頼性が、
   ただの定義であるのは、不思議ですが、
   絶対に間違いないのは、定義です。
 
   自然科学の法則は、
   科学技術の事実のように、
   だれも、再現しようとしなければ、
   再現されません。
 
   再現しようとして、
   わざと行なえば、必ず再現できます。
 
   飛行機や超高層ビルや原子爆弾や、
   合成樹脂や石油精製やエアコンなどの、
   便利な科学技術は、
   みんな、わざと再現しようとすれば、
   必ず再現されますから、
   科学技術の事実は、間違いないと、
   確信されます。
  
   自然科学の信頼性の根拠です。
 
 
いいや。
 
意図して再現しなくても、
事実は、知覚するだけで、再現されます。
 
科学技術の事実の再現性を、
はたで見ているだけで、
自然科学は間違いないと、確信されます。
 
べつに再現しようとしたのでなく、
傍観していただけです。
 
わたしたちが知覚する事実は、
すべて、意図して再現されたものですが、
自覚していませんから、無意識です。
 
知覚や事実は、
自分で命令したことを、忘れているから、
自分の意図に、気づきません。
 
2足歩行のようなものです。
 
いちいち命令しなくても、
勝手に、調子よく左右の足が出て、
身体が、自動的にバランスを取ります。
 
でも、命令しなければ作動しないことを、
自分で確認できますから、
いちいち命令を自覚しなくても、
無意識に、規則的な繰り返しが、
実行されます。
 
自覚しないで自動化されるのは、便利ですが、
機械と同じですから、
自分でなくなるようなものです。
 
身体や脳は、繰り返しを、プログラムとして、
勝手に読み取りますから、
念入りに自覚しなければ、
勝手にプログラムを書くロボットと、
同じです。
 
 
   知覚もそう。
 
   命令がなければ、
   そのように見えないし聞こえません。
 
   見ること、聞こえること、
   触ることなどは、すべて、
   命令により、知覚の内容が規定されます。
 
   そのように、知覚しろと、
   自分で命令したから、
   そのように知覚されます。
 
   事実は、すべてそうですから、
   自覚しないで、忘れてしまえば、
   ただの自動機械です。
 
   科学技術の事実は、
   論理法則という流行文化や権力の
   教条の通りですから、
   間違いないと、感じられます。 
 
   わたしたちの身体や脳は、
   同じことを繰り返せば、
   その規則性で行けと、
   勝手に命令が出ます。
 
   プログラムが書かれてしまいます。
 
   同じことを繰り返せば、
   自覚しない限り、
   プログラムが変更不能になりますが、
   法律は、同じことを繰り返せと、
   教条を、掲げます。

 

   別に、掲げなくても、

   身体は、規則性を読み取りますが、

   法律のように、はっきりさせると、

   権力に、引導を渡されたと、

   国民も気づきます。

 

   軍隊と同じです。

   自覚してはいけない。

 

   国民皆兵の徴兵制が、

   ロマン主義者を育てたように、

   ホロコーストが悪いなどと、

   だれも考えません。

 

   ゲルマン系ドイツ人を全員、

   処刑するわけに行かないように、

   ロマン主義者たちが、

   日本国憲法を書き下ろして、

   自分たちが育った精神を再現したのは、

   国民が精神医学を継承したのと、

   同じ事情です。

 
 
論理法則の教条は、何と何と何なのかを、
だれも、知りません。
 
自然の規則性も、その一部しか、
わかっていませんから、
自然科学者は、
もっと規則性を、発見するのが、
日々の仕事です。
 
退屈でしょう。
   
論理学者は、
自然科学の規則性も、法律と同じように、
人が作ったものであると、言います。
 

法律と言われる種類の、

言葉を使った権力の意見のように、

天体の運行や、化学物質の変化も、

知覚を使った種類の、

自然と言われる権力の意見であると。

 
知覚の繰り返しの、
事実の再現性と言われるプログラムを、
自分で書いて置きながら、
忘れているだけですから、
木の実を埋めて、忘れる栗鼠(りす)や、
蛙(かえる)を垣根に刺して、
忘れる百舌鳥(もず)や、
老人性痴呆の、うちの母などと、同じです。
 
老化現象ですが、生まれた時からですので、
早発性痴呆(Dementia Praecox)と言います。
 
現在では、統合失調症と言いますが、
ざっくばらんに、精神病と言えば、
そのことです。
 
法律家や警察官や精神科医などに、典型的な、
精神の病気を言います。
  
   
   規則的なことは、次々に忘れます。
  
   そのために、規則性を作るのですから、
   当たり前ですが、
   コンピュータのプログラムと、
   同じです。
 
   規則的であれば、順調ですので、
   忘れるとも言えますが、
   心理学のような文学では、
   記憶すると、言います。
 
   意に染まぬ他人のことは、
   自傷他害の恐れがあるとして、
   精神病としますから、
   棋士が、将棋や囲碁に強いのは、
   コンピュータや老人性痴呆と同じで、
   規則性を、
   変更不能にするからでしょう。
 
   棋士と棋士が争い、負ければ、
   精神病と診断されるようなものです。
 
   科学技術の事実が、間違いないと、
   信じられるのは、
   知覚の老化にすぎませんから、
   勝った棋士を褒め称えるのは、
   あまり賢くありません。
   
   若ければ、
   事実は2足歩行と同じであると、
   当たり前のように、
   仕組みがわかっています。
 
   1才未満の赤ん坊は、
   皆、知っています。
 
   わたしたちは、自分の子供に、
   早く老化するように、躾けますから、
   早く老人性痴呆になり、
   東京大学医学部に行けば、
   みんなに喜ばれます。
 
   老人でないので、
   早発性痴呆と言いますが。
 
   精神科医は、自分の精神病を、
   患者の精神病と、診断しますから、
   病識がありません。
 
 
こういうことを、わたしは、
中学生の頃に、考えましたので、
今は、一瞬のうちに閃き、
とっくの昔に、忘れています。
 
犯人に報復したり、精神病を治療したりは、
すべきでないと、思っています。
 
犯罪は全部冤罪であり、
病気は全部誤診であると。
 
たまには冤罪や誤診もあると、
言うのでありません。
 
全部がそう。
 
我が子や母親を殺されて、
犯人を憎む人間に、なりたいと、
わたしは、一度も思ったことが、ありません。
 
イラクで首を切られた後藤健二君の母親は、
立派でした。
 
世間は、息子の首を取られて、
頭がおかしくなったと、笑いましたが。
 
人により、解釈が違いますので、
これは、誰々の解釈、これはあなたの意見、
これは、どこそこの裁判官の判決文、
これは精神科医の診断と、
区別するのが面倒です。
 
老化すると、
ついつい規則的に処理しますので、
裁判官や精神科医やマスコミのように、
あほになります。
 
 
   犯人を憎むのが、作法ですので、
   憎んで置きますが、
   どこそこの誰々が殺されたと、聞き、
   本当は、面白いだけで、
   犯人を憎む気持ちは、ありません。
 
   もっと面白いことはないかと、
   退屈していますので、
   娘や孫を殺されても、
   予定外の面倒臭いことが、
   年寄りになれば、
   身に堪(こた)えると、
   ボヤキたくなるだけです。
    

   娘や孫を殺したければ、殺して下さい。

 

   そう思っていますが、

   面倒臭いので、言いません。

 
   子孫の人数が減っても、

   気になりません。

   
   どうせまた、増えますから。