こんにちは!スタッフ吉田です。
山も雪化粧を始めていて、刻一刻と冬の訪れを感じる気候になりましたね。
ようやくタイヤを交換しました!

先週の続きです。
だいぶ内容が暗いですが、当時の心境を出来るだけ書いてみました。

〜第1回へ〜

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CT検査の日までの数日間ほど長く感じた時間はないと言っていいぐらいでした。

まさか自分の息子がそんな重い病気になるはずがない。
きっと「なーんだ、大したことなかったじゃん。よかったね」笑顔で家に帰れるはず。


息子の吐き戻しや夜泣きに付き合いながら軽く気管系の病気を検索する私。


そして迎えた検査当日。


そのときは夫に手話通訳として付き添ってもらいました。

総合病院だからなのか、結構待たされた後、CTの説明を聞いて同意書を書き、
待機室で甘い薬を喜んで飲み、だんだんと眠くなる息子。

このままずっと寝たままになるんじゃないかと想像してしまい、1人でゾッとしました。

CT自体はすぐ終わりました。2,3分も無かったんじゃないかってぐらいでした。

しかし、すぐには説明がなく、しばらく待たされた私達。
また呼び出しがあり、エコーの機械がある部屋へ。

医師「エコーで見させてもらいますね」

と、エコーの機器が触れた先は胸あたり。

だが、モニターをよく見ると。

 

心臓…?

モニタに映ったそれは、妊婦健診で何度も愛おしくなるぐらいお腹越しで見た形でした。
部屋が4つに分かれていて、目まぐるしく動いている心臓。約7ヶ月振りのエコー画像。

でもなんで心臓を診るの…?
気管とかとかそういう話じゃなかった?


夫に聞いても分からないの一点張り。医師も一言も発せず。
焦る気持ちが収まらず、医師になぜ心臓なのか聞いてほしくて夫に通訳お願いしても、

検査中は邪魔するんじゃない、と取り合ってくれず。

3人ともずっと無言でモニタを見つめていました。

実際エコー検査は20分ぐらいだったと思いますが、その時間がその日で一番とてつもなく長く感じました。

エコー検査が終わると、ほぼ同時に目覚めた息子。機嫌はよかった、と思います。
またさらに待たされて、ようやく診察室に呼ばれました。

机の上にいろいろな書類があり、資料を見ながら医師の話を通訳してもらったのですが。


【肺動脈スリング、左肺動脈右肺動脈起始症の疑い】


もう人生で初めて聞いた病気の名前でした。

「肺動脈」という唯一場所が想像できる程度のわずかな情報しか頭に入らなかったと思います。
穴が空くほど資料と手書きの説明を読みました。
分かりやすくも書いてもらったのですが(心臓の位置、動脈の形や血の出入り等)

なんとなく分かるようで分からないような感覚でした。

というか正直、このときの記憶があまりないです。
もう、ガーーーンと鉄棒で頭を打たれたような感覚です。

とりあえずこのとき分かったことは

・心臓の奇形の可能性がある。
・そのせいで気道が潰されている可能性が高い。
・まずは確定させるために検査入院が必要。
・もし確定したら、手術以外治療方法がない。
・手術できるのは東京の病院か福島の医大。手術はできれば年内が望ましい。
・医大で手術できるのは肺動脈だけ。検査次第で気管の手術も必要になってしまうと東京でしか出来ない。


もう頭の中がぐるんぐるん。

 


そんな中まず思ったことが一つだけ。


「元気に産んであげられなくてごめん」


それは障害者当事者の自分を産んだ親には思ってほしくないことでした。


実は私には息子がきこえなくても楽しく育児できる自信はあったのです。

なぜなら、自分と同じだから。

自分にとってきこえないことは普通のことだから。

 

でもたとえ障害の形が少し違ったって、

比較的色々な人たちを見てきたつもりだから

 

堂々と受け入れられると思い込んでいたのです。

 

それでも。理屈はわかっていても。

自分が障害者として生まれてきて、自分は親に感謝していても。

自分とは違う、普通ではない体で産まれてしまった息子を目の前にしてしまうと。

 

もう理屈抜きで産んだ自分を責めてしまう。

息子に謝りたくなる。


絶対そんなことないって分かっていても。どうしてもそう思ってしまいました。

ごめんね、と。

何も知らない屈折のない笑顔の息子に何度も謝ってしまいました。



東京にいって手術受けるのは正直考えられない。
遠方で息子と2人きりだなんて、親と夫の助けがないのは無理。

できれば肺動脈だけだったら医大での手術を希望したいと伝えると、

検査次第なのでなんとも言えないけどとりあえず検査入院は医大にしましょう、と。

医大へ検査入院の予約を入れ、この日は終了、だったと思います。
正直ふわふわで現実味がなく…。

そしてその日の夜から、手術する日まで毎晩息子が寝ている隣で検索魔になる私でした。

難病のサイト・Twitter・Instagram・Facebook等のSNS、

闘病中の子の親のブログや海外の医師の論文まで見尽くしたぐらい、あらゆるページを漁りました。


ただ、当時は国内で約500人しかいない稀な病気でした。

奇しくもこの年、息子が産まれた月に、指定難病として国に認められたばかり。

そこまで情報はありませんでした。



保育園には入れないの?4月仕事復帰を見込んで申込したのに…

ジェットコースターとか飛行機に乗れるの?


本当に手術して終わりなの?

手術の成功率はどのぐらいなの?
失敗したら?

もっと重い病気が見つかったら?

一生人工呼吸になったら?

もしそうなったら大人になって
何が出来て何が出来なくなるの?



と目の前の問題や将来の心配ばかり…

もう気が狂いそうなほど、最悪なパターンばかり考えてしまいました。


私の描いていた未来設計図が崩れてしまう。。

とても絶望していた日々でした。


今日はここまでで。続きは来週。

 

 

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