優しさがいちばん -41ページ目

怒りのマタイ5章

しばらくぶりでマタイ5章をよんでおどろいた。
まるで旧約聖書の神の怒りの教訓の説教である。
場面はヨハネの6章ともかさなったいるが、

17節ではイエスは旧約のように律法を成就するためにきたと宣言するのである。通常の理解では律法ではユダヤ人を神のもとにつれてくることができないので、神は計画を変更して、法律でなく内面からの愛で神に導く事にしたと思われているが、ここではそうではないといっているようにみえる。
22節では
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

これを文字通りにうけとれば、
現代の宗派の争いは地獄への切符という事になる。
28節では女性を色情をもってみるものは姦淫の罪をおかしたという。
これでは人類の半分以上は姦淫の罪をおかしていることになる。
神に特別の目をかけられたチョーヨンギさんもびっくり、悪いのは自分だけでないのかと。
神学論争もできなくなるであろう。

そして最後にユ聴衆のダヤ人にたいして天の父と同じように
完全なものとなりなさいと命令している。

この説教がガリラヤ湖の周辺でおこなわれたものであれば
数千人の奇跡をみにきたユダヤ人のほとんどは、イエスの言葉を
ききいれなかった。イエスの弟子たちもそのままストレートには理解できなかったが、かといって、ただイエスに従うより道はなかった。

このマタイの5章をそのまま字義通りにとらえるべきであろうか。
それとも新約聖書の他の場面ではもっとやわらかい救いの道がかかれていると考えて、聖書全体からといって、字義通りにはうけとらず、
ここではそういわれているといって理解すべきだろうか。

聖書の解釈に分岐が生じるところでもある。

このように聖書の一章の単位で学ぼうとしても簡単ではない。
ましてや、
ほぼすべての牧師がするように、
自分の言いたい事にあわせて、聖書のさまざまな部分から引用してきて
結論をみちびく方式は
聖書の真意からどんどん離れていく事だろう。

マタイでは書き出しからわかるように
イエスはただしい血統上にある、ユダヤの王、救い主を描いている。
なので、新約聖書は旧約聖書の発展的延長線にあるという観点を重視している。
いっぽうヨハネは宇宙をつくったのが神であり、イエスは
宇宙の創造主の子であるという立場で、山上の垂訓を描写している。
そして、垂訓の内容よりも、神の奇跡の側面から描いている。

ヨハネ6章

今日の勉強会で感じた事のひとつですが

聖書の一部分から一般論をひきだすことのむつかしさです。

ヨハネ6章は主の奇跡は人々の信仰を強めるという意図だったのが

結局、五千人のほとんどを導くのには充分な効果がなかったということのように

思えるというまとめをだしてしまったのですが、これは木を見て森をみない判断です。

まず、第一に癒された病の人々にたいする私たちの思いやりが欠けていたこと。

さらに奇跡の意味合いを限定的にとらえすぎていた事。

聖書の他の箇所をみれば奇跡はたんにイエスへの帰依や信者の信仰を強めるためでなく

クリスチャンが神様が用意してくれば祝福をより効果的に実現するいうより重要な意味合いがあるはずですが(東牧師論)、ヨハネの6章だけからは、そういう解釈がでてきません。
。。。。。

祈り方がわからない


以下は自分のメモ:

私は加速器科学という自然科学を専門としている。
最先端治療”や”がんになったら”を書いている。

自然科学では複雑なものから単純はものを抽出して
いちばん重要な問題を攻略すればだいたい解決する。

神への祈りのなかで理解しにくいのは
長時間の祈りだ。
祈りたいことはいくら多くあっても
10本の指の数があれば充分だろう。
いくら長くても数分、祈れば終わってしまう。

いったい全体 何十分も何時間も祈るのは
同じ祈りを繰り返しているに違いない。

そんな祈りはおかしいではないかと考えつつも
イエスキリストのゲッセマイネの祈りは
長時間で血を流すほどだ。
わからない。

ここはひとつ
故東牧師のテープを振り返ってみようか。

ここをクリック。

羊は超近眼

羊は超近眼だという。
従順なのは自分のまえの羊しか見えないからそのみえる羊のあとを
おくしかないからだ。

これを宇野政美さんの大東和戦争の黒幕
から聞いたのだがしらべてみるとキリスト教関係のサイトでは
羊の近眼話はめずらしくないので、そういうところから知識を得たのだろう。

(講演のなかで宇野さんはオスカーワールドとオスカーワイルドの名前を間違えている。
またバブルのことをバブルガムといっている。
プーチンをプーチャーチンと。
宇野先生、すこし衰えてきたのかな。
それともわざと、ことば遊びをしているのかな。

それにしても宇野大先生は過去の予言が大はずれした事をすっかりわすれているらしい。)

聖霊

イエスキリストは生前に弟子たちに自分がなくなったら
聖霊がくるといわれている。

聖霊の助けがイエスをよりどころとするものに与えられると約束されている。

そのことはほとんどの教会ではふれられていない。


これはイエスキリストのセントラルメッセージのはずだ。

マルコ伝では

ねつ造された聖書(アーマン)という著作のなかに
おもしろい記述がある。

マタイとルカはマルコの福音書を下敷きにかいたという前提で
マタイをルカは
イエスが病人の病をいやすときに
怒っていたと思われる言葉を意図的に
削除したというものである。

マルコ一章、40節から
1:40ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 1:41イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。 1:42すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。 1:43イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた1:44「何も人に話さないように、注意しなさい。

43節がそこである。
この記述をみた
ルカとマタイはなぜイエスが(不条理に)怒られたのか理解できなかったので、削除したのだとアーマンは考えた。

もともと聖書は書き加えても削ってもあいならんと書いてある。
ルカとマタイはその命令に背いたのではないかというわけだ。

同様にイエスが(理由不明で)不機嫌になって怒られたと
マルコにあるところは他にもあるという。

私の理解では(純福音派の)解釈でもあるのだが
四つの福音書はそれぞれ別の立場から書かれている。
お互いに相補的になっているのだ。

この意味では表現がことなるのは立場の違いによる
解釈の違いだといえる。
改竄したのではなく、立場の違いによる解釈の違いだ。
アーマンはそのことに気づいていない。

イエスは私たちには了解不能でとつぜん不機嫌になることがある。
たしか、荒野のイチジクについても怒り呪いの言葉を発していた。

それらが何を意味するのか?

本物と偽物はどう判定するか

いかに魅惑的なメーッセージを伝えようとも
たとえば
Dr.金山昌秀(Masahide Kanayama)のメッセージ

それが愛から離れていたら偽物と考えられる。
一見、愛に満ちあふれていると見せても。
金山博士のメーッセージのなかに
東関東大震災はそれがおこることを
日本のキリスト教のリバイバルのために起こしたとある。
本気でその主張をするのであれば
正面にたてて論争を挑んでほしい。

それは旧約聖書の数々の
異教徒にたいする残虐な行為にも共通する神学論議だ。

わたしは愛に根ざさない記述や主張な偽であると判定する。

現象論

高エネルギー物理学の理論の人の話をきいたが
パラメターを調整して
数値合わせにきゅうきゅうとしていて
ろくなもんじゃねー ♫

日本ではそういう人が多いんだろかー。



リバイバル

リバイバルとは本来は

(アメリカでは)国民のほとんどがキリスト教徒と言われてはいるが、全員が信仰を持っているとはいえなかった18世紀のアメリカにおいて、信仰的熱心さと教会成長を伴う信仰運動が勃発・拡散した歴史的事象は、「信仰復興」の意でリバイバルと呼ばれてきた。ウェスレーホイットフィールドジョナサン・エドワーズリバイバリストの指導によるリバイバルは特に大覚醒と呼ばれている。

従って、日本を含むアジア・アフリカのような元来キリスト教圏ではない新規伝道地でのキリスト教の躍進を「リバイバル」と呼ぶべきかどうかは教派により意見が分かれるが、イギリスとアメリカにおけるリバイバリズムを継承する教派(=福音派)においては、それを躊躇なく「リバイバル」として目標に掲げ、祈り求める。その視点では、日本において明治期および終戦後に大都市を中心にキリスト教徒の数が増加した現象をリバイバルと位置づけ、プロテスタントに教派を越えた一致があったとする。日本のリバイバルとしては戦前のホーリネス・リバイバル(1919年と1930-33年二回)が有名である。


日本はもともと少ない数のクリスチャンなので本来はリバイバルというのはおかしいと思う。
リバイバルがめざしているのは国民の大半を覚醒させることだからだ。

日本での最近のリバイバル活動は

1993年甲子園で開催された甲子園リバイバルミッションに、日本の福音派は広範に協力をし、延べ11万7千人におよぶ参加者を集めた。この大会の前に、日本の各地で、賛同する個人や教会を中心に決起集会を開催して盛り上げて本番を迎えるという、日本のクリスチャンが主催したものとしては画期的なものであった。リバイバルミッションに賛同するグループは、日本の教会の中で一つの勢力となったといわれている。この運動が契機になって1996年に日本リバイバル同盟が設立される。[2]

1998年東京武道館で開催された東京リバイバルミッションは、聖霊派の参加が多くなり、距離をおく福音派もあらわれたが、福音派と聖霊派の協力を願って尾山令仁師が大会会長を務めた[3]

しかし、とてもリバイバルが成功しているとは見えない。

Dr.金山の新リバイバルは東日本大震災はこれにカツいれるために神が起こしたあるいは、許したといっている。
このような主張は受け入れがたいので
新リバイバル運動でのおおきな障害となろう。


神のホームページ

おもしろいサイトがある。
神のホームページ(クリック)

このひとは311から日本での布教をはいじめたというが
この説教のなかで311は日本を救うために神がもたらしたといっている。