怒りのマタイ5章 | 優しさがいちばん

怒りのマタイ5章

しばらくぶりでマタイ5章をよんでおどろいた。
まるで旧約聖書の神の怒りの教訓の説教である。
場面はヨハネの6章ともかさなったいるが、

17節ではイエスは旧約のように律法を成就するためにきたと宣言するのである。通常の理解では律法ではユダヤ人を神のもとにつれてくることができないので、神は計画を変更して、法律でなく内面からの愛で神に導く事にしたと思われているが、ここではそうではないといっているようにみえる。
22節では
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

これを文字通りにうけとれば、
現代の宗派の争いは地獄への切符という事になる。
28節では女性を色情をもってみるものは姦淫の罪をおかしたという。
これでは人類の半分以上は姦淫の罪をおかしていることになる。
神に特別の目をかけられたチョーヨンギさんもびっくり、悪いのは自分だけでないのかと。
神学論争もできなくなるであろう。

そして最後にユ聴衆のダヤ人にたいして天の父と同じように
完全なものとなりなさいと命令している。

この説教がガリラヤ湖の周辺でおこなわれたものであれば
数千人の奇跡をみにきたユダヤ人のほとんどは、イエスの言葉を
ききいれなかった。イエスの弟子たちもそのままストレートには理解できなかったが、かといって、ただイエスに従うより道はなかった。

このマタイの5章をそのまま字義通りにとらえるべきであろうか。
それとも新約聖書の他の場面ではもっとやわらかい救いの道がかかれていると考えて、聖書全体からといって、字義通りにはうけとらず、
ここではそういわれているといって理解すべきだろうか。

聖書の解釈に分岐が生じるところでもある。

このように聖書の一章の単位で学ぼうとしても簡単ではない。
ましてや、
ほぼすべての牧師がするように、
自分の言いたい事にあわせて、聖書のさまざまな部分から引用してきて
結論をみちびく方式は
聖書の真意からどんどん離れていく事だろう。

マタイでは書き出しからわかるように
イエスはただしい血統上にある、ユダヤの王、救い主を描いている。
なので、新約聖書は旧約聖書の発展的延長線にあるという観点を重視している。
いっぽうヨハネは宇宙をつくったのが神であり、イエスは
宇宙の創造主の子であるという立場で、山上の垂訓を描写している。
そして、垂訓の内容よりも、神の奇跡の側面から描いている。