141.「イエス様は、天を中心として愛し得る母をもつことができなかったのです」 | 御言 missing link

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 ザカリヤ家庭とヨセフ家庭の基台ができなかったため、イエス様はその家庭・氏族を離れざるをえず、外に弟子を探し求め、新たな氏族編成に出発しなければなりませんでした。そのときにイエス様と出会い、イエス様に従った弟子達の立場は復帰された天使長ということになります。天使長達がこの位置から本然の位置に復帰されるために絶対的に必要だった存在がエバ、つまりイエス様の相対であり、真の母でした。
 それゆえ、イエス様は、
「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3/3)
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書31~32節)
 と語られました。
 これまで何度か確認してきたことですが、イエス様の相対の決定に関して大きな責任を担っていたのはマリヤでした。
 次は、文先生の御言です。

「本来ヨセフの家庭は、イエス様に侍り、天の法度を立てなければなりませんでした。それはなぜでしょうか。イエス様は天の王子であるからです。それならば、天の王子に侍るマリヤはどのような人物でしょうか。マリヤは、イエス様の母ではありません。母は母ですが、神様のみ旨を中心として見れば、母ではないのです。
 神様には、息子を生める娘がいません。それでイエス様も娘を通して生まれたのではありません。本来はエバ自体が完成して、神様の愛に一致できる結果のもとで、娘に決定されなければならなかったにもかかわらず、堕落したので神様の娘になれなかったのです。
 このように神様の息子を生める女性がいないので、神様は仕方なく僕の体を借りてでも、息子の種を残さなければなりませんでした。そのような運命から僕の立場であるマリヤを通して、ついに天の王子が生まれたのです。天の王子が生まれたのならば、その次に天の王女がいなければなりませんが、王女がいませんでした。
 それならば、マリヤの果たすべき使命とは何でしょうか。僕から娘に、娘から母にあがることです。復帰の路程を経なければならないのです。では僕の体で、神様の娘になり得る立場に立つためには、どのようにすべきでしょうか。神様がアダムを見本としてエバを造られたように、マリヤも創造原則によってイエス様に従って復帰されなければならないのです。
 マリヤは、イエス様の願いと一つにならなければなりませんでした。神様の息子であるイエス様は、兄や弟がいるわけではなく、父がいるわけでもありません。不憫にも世の中で信じられぬ僕の体を借りて生まれてきたので、イエス様と因縁を結んでいる人はマリヤしかいませんでした。ここでマリヤは、イエス様の心情を知り、イエス様のみ旨に従って、千万の死の道を歩んでも、天の王子であるその息子が行動できるように、家庭、社会に、万全の準備をしなければならないのです。
 その次には、天道を立て得る生活の法度が、マリヤとイエス様の間にできなければならず、その事情を中心として、マリヤはヨセフを引っ張って入り、イエス様のみ旨に応じられるようにしなければならないのです。それがマリヤの責任だったのですが、マリヤの立場は、そのようにできる自然な立場ではなかったのです。
 マリヤはか弱い女性の身で、自らの使命を果たすにはあまりにも手に負えない環境に追い込まれていました。ヨセフを捨ててみ旨だけに従っていくこともできず、自分の息子、娘を捨てて、イエス様だけに従っていくこともできない立場だったのです。あれもこれもできず躊躇する中で、イエス様は独り、時の責任と使命をすべて負うようになったのです。
 本来マリヤは、天の生活的な規範を中心として、僕の身で息子の行ける天の規範を立てなければなりませんでした。その次には、神様の王子の前において、王女として代を継ぎ得る接ぎ木をされなければなりませんでした。その接ぎ木されるとは、アダムの体を通してエバが創造されたように、イエス様のみ旨とイエス様の思想とイエス様の願いに、マリヤが一致して復帰されるということです。マリヤにはこのようなことを植えて、刈りいれるべき責任がありました。
 そうしてイエス様の骨の中の骨であり、肉の中の肉になることができる一人の新婦をヨセフの家庭を中心として、マリヤの精誠の基台の上に決定しなければなりませんでした。ところがそのようにできなかったので、イエス様はマリヤをつかんで涙を流しながら、『あなたは天倫によって、私と因縁が結ばれているので、天のみ旨を立てなければならない』と、御自身の心情を吐露されたのです。けれどもマリヤは、それを受け入れて協助する立場に立つことができなかったのです。」
 (イエス様の生涯と愛 P84~87 1971年12月25日)

 文先生は、マリヤの使命・責任について
「神様がアダムを見本としてエバを造られたように、マリヤは、イエス様に従って、僕から娘に、娘から母にあがる復帰の路程を経なければなりませんでした。」
「マリヤはイエス様の願いと一つになり、イエス様の心情を知り、イエス様のみ旨に従って、イエス様が行動できるように、家庭、社会に、万全の準備をしなければなりませんでした。」
「天道を立て得る生活の法度が、マリヤとイエス様の間にできなければならず、その事情を中心として、マリヤはヨセフを、イエス様のみ旨に応じられるようにしなければならないのです。」
「本来マリヤは、天の生活的な規範を中心として、僕の身で息子の行ける天の規範を立てなければなりませんでした。その次には、神様の王子の前において、王女として代を継ぎ得る接ぎ木をされなければなりませんでした。その接ぎ木されるとは、アダムの体を通してエバが創造されたように、イエス様のみ旨とイエス様の思想とイエス様の願いに、マリヤが一致して復帰されるということです。」
 
 と言っておられます。このような条件を満たし、マリヤ自身がイエス様の願いと一つになり、復帰された立場に立った上で、さらにマリヤが成さなければならなかったのが、
「そうしてイエス様の骨の中の骨であり、肉の中の肉になることができる一人の新婦をヨセフの家庭を中心として、マリヤの精誠の基台の上に決定しなければなりませんでした。」
 ということでした。
 ところが、マリヤがこのような使命・責任を果たすには、マリヤにとっても十分な環境が整っていたわけではありませんでした。上の御言の後半に、
「マリヤの立場は、そのようにできる自然な立場ではなかったのです。」
「マリヤはか弱い女性の身で、自らの使命を果たすにはあまりにも手に負えない環境に追い込まれていました。ヨセフを捨ててみ旨だけに従っていくこともできず、自分の息子、娘を捨てて、イエス様だけに従っていくこともできない立場だったのです。」

 とあります。マリヤもまた、非常に難しい環境におかれていたのでり、文先生は、そのことに対する理解を示されているわけです。その上で、
「それゆえイエス様は、母がいたとしても天を中心として愛し得る母をもつことができなかったのです。マリヤは地上の母として、誰よりも天の恩寵をもってイエス様を愛さなければなりませんでした。たとえ僕の体だとしても、僕の中で最高の愛を天の王子から受けるべき母の立場でした。それにもかかわらず、そのようなことができる立場にマリヤが立てなかったので、イエス様は30歳のときに家を出て行くことになったのです。
 イエス様は、30年の生涯を過ごすなかでマリヤとヨセフが責任を果たすことを待ちましたが、マリヤはそのような考えさえもできなかったのです。これ以上無為に歳月を送ることができず、30歳のときに公的な路程を出発したのです。そうして再度、神様のみ旨に従い得る氏族編成に乗り出したのです。」
 (イエス様の生涯と愛 P87 1971年12月25日)
 と言っておられます。
 祝福家庭というのは、真の御父母様が造られた氏族的な基台です。それは、もともと準備されていた基台が崩れたため、その外に造られた基台です。その基台とは必ずしもそれを直接造られた真の御父母様のためだけにあるわけではありません。神様がエデンの園をつくられたのは息子・娘であるアダムとエバのためでした。同様に、文先生がつくられた基台もその次の代のためでもあるはずなのです。それが、その役割を果たしていないとしたら、それでも、私達の現在の立ち位置や進む方向に、絶対に間違いはないと言えるのでしょうか。
 現状に肯定的な主張の中には、御言を引用して説明しているものも見受けられます。そこだけ切り取った景色を見せられると、正しいように思えてしまうのですが、もともと御言の断片的引用には、その前後や他の御言との関係から、本当にそのような趣旨で文先生が語られたとは限らないという可能性が残されていたりします。まず、自分の考えがあって、それと同じ趣旨の御言を見つけようとするのは時に危険だということです。その間違いを私も時々行っているかもしれません。ですが、自分の主張の正しさを裏付けるために御言を断片的に利用するのではなく、御言を体系的に研究しようとする中から見えるものを大切にすべきだと心がけています。
 そのような体系化のフレームとなるのが原理講論であり、そうやって出来上がるべきものが、文先生が晩年強調しておられた原理本体論だと考えています。

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