御言 missing link

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 次は、文先生がご自身の後継者について語られた御言です。ただし、特定の方に限定された話ではありません。

 

「皆さんは今は教会の祝福を受けましたが、国の祝福、世界の祝福をすべて終えてから、その次にはそうすることができる(完全に自由にすることができる)時代に入ります。しかし、中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭——直系を受け継ぐ一中心があると思います。その中心一人だけいれば、その一人を中心として一つになることによって、すべてが上へと上っていくことができます。そうして先生はすべてのことを成したことになります。その時は中心を中心として先生の後孫たちも一つになります。(荒野)時代に皆さんが一つになるのと同じように、三大祝福圏を越えてそれが可能であって、それ以前においては絶対的に先生一代を中心としてそのような運動をしなければなりません。」(御旨と世界 P943 「私を中心としてた父母と子女と万物世界」)

 

「皆さんが受けた祝福は国の祝福ですか、統一教会の祝福ですか? (統一教会です)。 これから国の祝福を受けるとき、皆さんが良心的に妻と夫と子供の報告を書いて、条件に合格して、再び(国家的)祝福を受けることができます。それに合格できなければ参加できません。‥‥‥

 その次は世界時代において祝福を受けるとすれば、皆さんは身内(族属)となるでしょう。そこに合格して初めて天国に入ることの入籍が始まります。何の話か分かりますか。その時までは、先生の家庭と完全に一つにならなければなりません。

 その時が過ぎれば、先生の後継者が一人立ちます。世界が一つになり、先生の家族が一つになり、全部が一族圏にならなければなりません。そして先生の家庭においてもすべてを集めて会議をし、この原則に誰が一致したかを公的な会議によって決定します。(略)

 その人が決定されたのちには、世界は法的時代に入ります。天法、神の憲法時代に入っていくので、いくら神に近い人でも、法にかかれば、法的処理として処罰を受けなければなりません。その法にかからない後継者を探して永遠に続くのです。分かりましたか? (はい)。」(御旨と世界 P945 「私を中心としてた父母と子女と万物世界」)

 

 文先生は、

「先生の家庭において、神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭——直系を受け継ぐ一中心があると思います」

「先生の後継者が一人立ちます」

「その法にかからない後継者を探して永遠に続くのです。」

 と言っておられます。

 

「堕落した人間の前には復帰の過程が残されているので、その過程を父母になり得る人が全部修めなければなりません。その次にはこのような過程を、ある中心家庭が現れ、世界を代表して修めてくれなくては、皆さんが神様の前に帰っていく道がないのです。だから、皆さんは公式路程を経ていかなければなりません。公式だけ知って、そのまま行けば解かれるのです。」(祝福家庭と理想天国Ⅰ P959 「完成のための公式路程」) 

 

 上の御言の中に、「父母になり得る人」と「ある中心家庭」という二つの言葉がありますが、この二つは同一の人を指すのでしょうか、それとも異なる人を表しているのでしょうか。この御言だけでどちらかに断定するのは難しそうですが、今回の最初の御言には「中心家庭」(「中心においては、先生の家庭においては神に対する伝統を受け継ぐ後孫、中心家庭———直系を受け継ぐ一中心」)という言葉がありました。もし、文先生が同じ概念でこの言葉を使っておられるとしたら、「中心家庭=後継者」ということになりそうです。もう一つの「父母になり得る人」というのは、言うまでもなく真の御父母様のことで、堕落した人間の前に残されている復帰の過程を、世界を代表して修めてくださった方です。

 この前提でまとめると

 

「真の御父母様が、人間の前に残されている復帰の過程を全部修められた後、文先生の『後継者』として『ある中心家庭』が現れる。その『中心家庭』が現れないと、私たちが『神様の前に帰っていく道がない』。その『中心家庭』を中心として、『世界が一つになり、先生の家族が一つになり、全部が一族圏にならなければならない』。そして『すべてが上へと上っていく』。」

 

 となるでしょう。

 ここに、一つの問いが生じます。「すべてが上へと上っていく」というのは、ただ単に、今より良くなるということを言われたのでしょうか。「~を中心として上っていく」と言えば、成長期間の完成期、または縦的八段階が思い起こされます。

 さらに、「神様の前に帰っていく道」となれば、どうしてもある一つの言葉を無視することができなくなります。

「メシア」です。

 第13のテーマで提示した御言によれば、堕落人間を創造本然の人間に復帰し、真の家庭を完成させるという御旨はまだ成されていないとのことでした。それを再提示します。

 

「そこにおいてどこに万物があり、どこにイエス様がいますか。イエス様も成し遂げることができませんでした。それに対して、再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした。」(ファミリー 2001年2月 P59 )

 

 「私は、神様の御旨の中で、私が果たさなければならない責任を完全に築き上げてしまってはいなかった」(2011年8月30日 麗水での訓読会)

 

「あなたたちは神の御旨とは何か分かってはいないだろう。それがどのようになっているのかまだ見ることもできない。これはまだ成されていない。」(2011年9月14日 韓国・清心ユースセンターでの訓読会)

 

 堕落人間出身の完成人間およびそのような男女から成る真の家庭はまだ現れていないように見受けられます。もし、存在するのであれば、その家庭名が発表され、その栄誉を讃えられてもいいぐらいだと思います。いないのであれば、その御旨を成すために「先生の後継者」、「ある中心家庭」が現れるというのは、御旨と摂理の観点からすれば当然のことなのではないでしょうか。

 ただし、今回提示した御言だけでは「後継者」、「中心家庭」が現れるのはいつなのか、そもそも「後継者」と「中心家庭」は同一なのか等、明確にするのが困難な内容が残されています。ただし、そうであったとしても、「後継者」が現れることを文先生が明言しておられるということは否定しようのない事実です。

 その事実を軸に、今後も他の御言との出会いを期しながら、合わせて考察していくことが必要だと考えています。