私たちは「御旨」と「摂理」は同じ意味を表すものとして理解してきたと思います。ところが、文先生の御言によると、この二つの間には、はっきりとした違いが存在します。
まず、御旨について確認します。
「それでは私が神様のみ旨に対して定義をしてみましょう。私は、神様のみ旨とは『創造理想を完成すること』だと定義を下します。
それでは、『神様の創造理想を完成する』ということは何でしょうか。それは人間の理想を完成することです。言い換えればアダムとエバを中心として、被造世界が神様のみ旨の前に一体となり、アダムとエバの理想を完成することです。統一教会の言葉を使って言うならば、神様のみ旨は四位基台を完成することです。」(祝福家庭と理想天国Ⅰ P402)
文先生は、
「神様のみ旨とは『創造理想を完成すること』だと定義を下します。」
と言われ、さらに、それは
「アダムとエバの理想を完成すること」、「四位基台を完成すること」
と言っておられます。
「『神様のみ旨』というとき、それは歴史の目的、創造目的が完成することです。それでは創造目的完成とは何でしょうか? 創造目的完成とは、み旨の実現であり、それは四位基台完成のことです。そして、その四位基台完成は、真の家庭を完成することです。」(ファミリー 1997年12月 P6「地上天国生活を始めよう」)
ここでは、
「創造目的を完成すること」→「四位基台の完成」→「真の家庭を完成すること」
というように、より具体的に、御旨とは「真の家庭を完成すること」だと言っておられます。
この定義、つまり「み旨とは真の家庭を完成すること」に従えば、例えば「日本の使命が………」というような内容は、直接的には御旨とは異なるものとなります。私たちはそのあたりを混同してきたのではないでしょうか。
先回、人間の復帰に関することに関して、文先生は詳しく教えることができないということを確認しました。人間の復帰とは、理想の個人・家庭を復帰することですから、言い換えれば、文先生が詳しく教えることができなかったのは、御旨についてということになるでしょう。
次は、摂理についてです。
「今日の題目は、『摂理と今昔の私』です。この摂理とは何でしょうか。神を中心としてつづられるすべての出来事をいうのです。あなた方は、『自分の摂理はうまく進んでいる』という言葉を使いますか。はたして私たち人間が、そのように言うことができるでしょうか。『神の摂理はうまく進んでいる』という言葉ならば、納得がいきます。摂理とは常に神を中心としてつづられる歴史です。歴史や文化も神の摂理によるものであり、神の摂理による文化、神の摂理による歴史なのです。」(御旨と世界 P805 「摂理と今昔の私」)
「摂理歴史とは、神様が万物を創造されたことも入りますが、人間創造以後の堕落を中心とした歴史のことを言うのです。」
(ファミリー 1993年8月 P4 「『統一教会創立記念日』の御言」)
摂理とは、神様が成されたこと、または、成されることに対して使われるべき言葉のようです。
神様が万物世界を創造し、エデンの園をつくられ、そこにアダムとエバを誕生させたことは摂理ですし、堕落世界に、神様がメシアのための基盤をつくり、その版図を拡大し、メシアを地上に誕生させたことも摂理です。
それに対して、御旨は「創造目的を完成すること」、「真の家庭を完成すること」です。創造本然の人間が責任分担を全うして個性を完成し、真の家庭を完成していくことは御旨ですし、堕落人間がメシアに出会い、新生し、理想家庭を完成させていくことも御旨です。
あえて、キーワードだけ言えば
「摂理」‥‥神様、「御旨」‥‥人間
となるでしょう。
私たちは、この御旨と摂理に対し、特に区別してきませんでした。しかし、文先生は明確な定義づけをされています。その文先生が説教や講演の中で、それを混同して使われたはずはありません。ところが、聞いている私たちの方が混同していたとすれば、そこには当然、文先生が言われたかったことと、私たちがイメージしたこととの間に本質的な違いが生じていた可能性は否めません。摂理の中で一生懸命生きてきたことが、御旨を歩んできたことと必ずしも一致していたとは限らないと言えるでしょう。
成長期間にいたアダムとエバに干渉されなかった神様は、ノアが箱舟を造るときには事細かに指示されています。それはアダムとエバの完成は御旨、ノアに箱舟を造らせたことは摂理だったからです。
そして、神様のこのようなお立場は、文先生においても同じだったのではないでしょうか。文先生が摂理を進めようとされたときには事細かに支持し、命令されましたが、御旨について語られたときは、その内容を詳しく教えることはできませんでした。組織の責任者を通して伝えられたのは、主に摂理に関する内容で、それは天の命令として伝えられたわけですが、御旨に関することは、たとえ責任者に対してであろうと、詳しく教えることはできなかったはずなのです。
にもかかわらず、天の重大事はすべて責任者を通してのみ伝えられると考え、摂理的な命令を重視する結果となってきまきました。そして、それに従うことで自分たちのすべてを委ねられると期待してきたのではないでしょうか。それは、今も変わらない体質として私たちに染みついてしまっているようです。
人間の理想を完成するという御旨なしに、天地創造や摂理歴史といった摂理はありませんから、この二つを切り離すことはできません。ですが、どちらがより本質かといえば御旨です。御旨のために摂理があると言ってもいいくらいでしょう。ところが、私たちは、その本質としっかり向き合ってこなかったのではないでしょうか。どちらかというと摂理が優先で、御旨は置き去りにされてきました。差し迫った摂理が頻繁に強調されてきた中で、「理想の個人・家庭を目指す」という御旨との間の葛藤は、決して解決されてはきませんでした。氏族メシア活動が強調されるようになり、それが活動の中心となってからは、ようやくその差は小さくなってきたようです。ですが、その氏族メシア活動を御旨として取り組んでいるのでしょうか、それとも、摂理として取り組んでいるのでしょうか。その取り組み方によっては、たとえ、その活動を勝利したとしても、数的な結果に終わるのか、理想的な個人・家庭が現れるものになるのか、もたらされる結果には大きな違いが生じることになるでしょう。
文先生も同じだったのかもしれません。キリスト教基盤の喪失により、大きな負の遺産を背負ってスタートしなければならなかった文先生ご自身も、地上の神様の立場で摂理を優先し、御旨を置き去りにせざるを得ない時期があったのかもしれません。
「そこにおいてどこに万物があり、どこにイエス様がいますか、イエス様も成し遂げることができませんでした。それに対して再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした。」(ファミリー 2001年2月 P59)