201.「コディアックで少数の群れを中心として、人類を代表するすべてのことを解説してあげました」 | 御言 missing link

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 文先生の御言の中に「超宗教」という言葉がありますが、その言葉の意味を、私たちは個々の理解の中にとどめただけで、改めて確認するということはなかったと思います。
 また、このことに関連して、「統一教会は宗教を造るためではなく、宗教を超えた世界を造る」とか「統一教会は、教会ではなく協会である」と教えられたりもしました。例えば、宗教だけではないので事業が必要だとか、あるいは、宗教組織の最終形態はボランティア活動などを主体とする社会団体だ、というようにです。結果的に統一教会は、様々な組織形態を持つことになりました。本体である統一教会、家庭連合、会社組織の事業団、社会団体としての女性連合、青年連合、勝共連合などです。そしてそれぞれの国の法の中でその国の事情に合わせてその組織を運営してきました。結果的に、中心組織である統一教会が、献金摂理という財源をもつことにより、全組織の主導権を握ってきました。
 しかし、時に文先生が、これらの組織に関して、カイン・アベルの観点で語られ、さらに、同じ人物が複数の団体に属していたこともあって、多くの混乱が生じていました。
 これらの混乱の最大の原因は、文先生の御言がアダム家庭復帰の公式を中心として語られていたということが理解できなかったことにあると言えます。つまり、公式の中におけるカイン・アベル、レア・ラケルの位置を各団体に当てはめて説明されていたにもかかわらず、それを文字通りにとらえて、どちらがアベルなのか中心なのかという争いを続けてきたということです。例え話を直接表現と信じて行動していたと言ってもいいでしょう。
 このような状況のもとに置かれた教会員の多くは「超宗教」という言葉を聞くと、宗教とは関係ない組織を造るというように聞こえたかもしれません。しかしながら、文先生が語られた「超宗教」という言葉の意味は、まず、本質的な観点から見つめ、公式を中心とする概念として考える必要がありました。
 そもそも文先生が語られる宗教とは、善の天使長を中心として地上に編成された集団を表します。人間としての実体をもってはいるが、アダムを迎える環境を造るという目的をもった中間的な存在であり、未完成な状態であって、原理講論の「無形実体世界」という言葉に当てはまる存在でもあります。しかし、一般的に統一教会員は、無形実体世界を霊界、つまり死んだ後に行く世界としてしか捉えてきませんでした。無形実体世界とは、 メシヤが来られる前に、未完成の人間達によって作られる世界を表している場合もあったわけです。
 文先生は、無形実体世界のことを天使長圏とも表現されました。無形実体世界に位置する宗教団体とは、愛の完成を目的としてそれを模索する集団であり、その愛の完成者を名乗る指導者によって導かれる団体、つまりは愛の未完成者の集まりを指していると言えます。
 では、この集団、あるいは、教団に属する人々が宗教を超えようとすれば、どのようにすればよいのでしょうか? 
 2000年前、イエス様は三弟子をゲッセマネに連れて行き、血と涙と汗の祈祷をされました。そのとき、弟子たちは深刻なイエス様の心情を理解することができず眠ってしまいました。また、ペテロは、「たとえ死の場が訪れてもイエス様を裏切らない」と誓ったにも関わらず、鶏がなく前に三度イエス様を否定して裏切っていったのでした。
 このときのイエス様の位置は、洗礼ヨハネを失い、自らが天使長の位置を兼ねて歩まれ、自分の血族とは関係のない十二弟子を集めて十二支派を編成しようとされていたときでした。十二弟子はイエス様によって集められ、愛された人たちです。イエス様に愛されることによってイエス集団が形成されていました。当時のイエス様を中心として集まった弟子たちは、まだキリスト教という名前も付けられていない、 ユダヤ教の中に新しく発生した分派、つまりユダヤ教イエス派のような立場として存在していたと考えられます。弟子たちに文字を読む力がどこまであったのかはわかりませんし、史実はありませんが、おそらくそこで読まれていたのは旧約聖書であり、イエス様は旧約聖書を使い、その中に四大心情圏と三代王権の内容を、例えに置き換えながら説いておられたのではないかと推察できます。それは、一般ユダヤ教社会から見れば、律法を捻じ曲げる異端者として映ることでもありました。しかし、摂理的に見れば、この集団は新しい出発をするための集団でした。
 そしてその後、その集団は共同生活をしながら決まり事を造らざるを得ない環境になりました。弟子たちがイエス様と共に暮らした期間はわずか三年でした。イエス様がおられたときは、何か問題が起こったとしても、すべてイエス様に聞き、判断を仰ぐことができました。しかしたった三年間で、まして聖書の知識のない弟子たちがイエス様の事情と心情を正確に悟ることなどできたはずがありません。そのような中で、三年目に起こった出来事がゲッセマネの祈りです。その中で弟子たちが超えなければならなかった信仰とは、自分がイエス様の代わりに死んでもイエス様を守るということでした。それは、知識でできるものではありません。イエス様をどれだけ愛しているか、自分の命よりも大事だと思っているか、ということが試された内容でした。
 ここに「超宗教」という言葉をもってくると、それはイエス様を中心とする弟子との個人的な心情関係の中で説明されるものだということが見えてきます。つまり、「超宗教」という言葉の中にある本質的な意味とは、イエス様の十字架を自分が背負う覚悟があるかという問題です。
 同様に、この内容が、天使長圏である宗教圏において、善の天使長の位置に立たれていた文先生と私たちとの間に課せられていた最も重要な課題でした。それは「死なんとする者は生きる」という言葉の意味でもありました。それを7年間で超えるというのが、個人における7 年路程の本質でもあります。この期間を通じて、善の天使長の位置に立つ人物としかるべき心情関係を結ぶことができなければ、私たちは、僕の僕の位置から僕の位置に立つことすらできません。ただその集団に属し、時を過ごしたからといって、それだけで目的地が近づくわけではありませんでした。 この課題は、人類史において、未だ超えられていないのかもしれません。

「復帰路程の歴史とは、人の歴史ではありません。皆さんの一生において越えなければならない峠です。イエス様の時代を考えてみてください。どれほど悲惨であり、どれほど恨み多く生まれたことでしょうか? 私生児です。真の父母として来られたかたが、そのような運命でした。そのような環境圏内に生まれたならば、曲折があるということを知らなければなりません。マリヤは、ヨセフと暮らしてはならなかったのです。このようなすべてのことをはっきり知らなければなりません。教会の責任者なら、これらのことはみな知っていて、そのように講義するのではないですか? 勝利的実績基盤の上で、それ自体を証す言葉が原理のみ言です。
『アダム家庭』といえば、統一教会の文先生の家庭を代表したものです。ノア家庭、アブラハム家庭もみな同じです。ヤコブの家庭は氏族的基準で家庭的出発基地定着であり、モーセは民族的出発基地定着、イエスは国から民族、国家、世界を代表することのできる家庭がなくては、そのような伝統的歴史を引き継ぐことのできる、天の国の勝利の後継者になることができないのです。勝利の相続権を受けることのできる家庭が出てこないということを知らなければなりません。歴史は生きているのです。サタンは失敗したすべてのものを皆さん個人の前に提示し、『どうだ、この者達』というのです。
 この前、私はコディアックで少数の群れを中心として、人類を代表するすべてのことを解説してあげました。これを越えなければなりません。そのみ言は永遠に残ることでしょう。まず、自分の自覚です。価値もない零点の自分を発覚しなければなりません。イエス様は死なんとする者は生きるといいました。それは自分の観念的意識、存在意識がない立場です。私は何々の学者だという愚かな考えはしてもいけません。原資材にならなければなりません。」
(ファミリー94/12 P48~49 絶対信仰と絶対愛 1994年10月9日 中央修練院)

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