少々長いですが、次の御言をお読みください。
「生まれるとき、愛の核の根から生まれなければならないのに、堕落することによって、偽りの愛の根から生まれてしまった人間であるために、再び戻っていくためにはどうすればいいのかといえば、まず接ぎ木しなくてはならないのです。その次にはどうなりますか。皆さん自体は接ぎ木したとしても、堕落した、昔の世界の根を持っています。渋柿の根です。接ぎ木するとき、甘柿の木の根に渋柿の枝を接ぎ木しますか。それとも、渋柿の根に甘柿の枝を接ぎ木しますか。接ぎ木された皆さんの根の起源はどこですか。渋柿の木です。これを知らなくてはなりません。渋柿の根がまだ残っているのです。
本来の「祝福を受けた者たち」とは、甘柿の根から生まれて祝福を受けたものをいうのに、今日の我々は渋柿の根に生まれて出て、これを切ってから接ぎ木された自分であるということを知らなくてはならないのです。
渋柿の根から生まれた人々が、本来の神の愛の核の根を中心にして生まれた人々の住む、愛の理想を達成した本然の天国に入っていくことができますか。深刻です。深刻だというのです。本然の世界に入って行くことができるかというのです。本然の世界に入って行けるようになっているかというのです。養子にしかなれない自分です。それを考えると、堕落した人間は、庶子でもいいからなりたいと願うものです。」 (祝福67 P43 祝福を受けた者たち)
前半は接木の話をされています。原罪とその贖罪についての話ということになります。そして
「渋柿の根がまだ残っているのです。」
と言われ、次に本然の祝福の話となっています。間違いなく、人間の復帰に関する御旨の中心的な内容です。
その上で、最後の部分で、
「堕落した人間は、庶子でもいいからなりたいと願うものです。」
と言っておられます。
こうなってくると、もし、本当に、文先生の庶子の立場の方が噂どおりに複数おられるとしたら、その中に
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」(第33の記事 御旨と世界 P943)
となる方がおられる可能性も否定できないかもしれません。
えっ?
「『庶子』は、普通、直系とは言わないのでは?」
その通りだと思います。
ですが、次の御言をご確認下さい。
「それで、正妻が妾みたいになるし、妾が正妻みたいになるのです。分かりますか? (はい)。妾みたいな者が正妻になるし、正妻のようであった者が妾になるのです。そういうことが天地開闢というのです。分かりましたか? こういうことをはっきり分かって、日本に帰ってどこでも堂々と言うのです。そうすることによって、自分を探して、一家族、一国を探して国に帰ることができます。自分一人だけではないのです。真の自分だけではありません。真の家庭、真の氏族、真の国を生かしてあげなければならない、日本民族としての使命があるというのです。こういうような内容をまとめて告げてあげるのです。最後だからこんなことを言うのです。分かりましたか? (はい)。」 (女性訪韓修練会御言集 P95)
最初の部分に
「正妻が妾みたいになるし、妾が正妻みたいになるのです。分かりますか? (はい)。妾みたいな者が正妻になるし、正妻のようであった者が妾になるのです。」
とあります。
これは、そのまま
「『庶子』が直系のようになり、直系が『庶子』のようになり」
と言い換えることができます。
そして、
「そういうことが天地開闢というのです」
とも言っておられます。
最後に、次の御言をもって、今回の記事を終えたいと思います。
「終末になれば、天が認める妾と庶子の血統の立場の人たちが、世界の中心となることを知らなければなりません。」(ファミリー 1997.4 P32)
「選民の中で神様の息子・娘、これは庶子です。養子と同じです。」(祝福家庭18号 「第一次入籍のための祝福家庭婦人特別修練会」での御言 2000.7.30)
「庶子は相続を受けることができません。韓国においても庶子が歴史的問題となってしまいました。庶子を見ても、外的にも、能力から見ても、嫡子より劣るところはないのに、庶子であるからといって軽視されるのです。
堕落した世界においてなぜ庶子が軽視されるのでしょうか。それは歴史を知らなかったためです。韓国の伝統文化が崩れていっているのです。」(ファミリー 1986年12月 P19)
〈補足〉
文先生が「日本はサタン側のエバ国家だった」と言われたのは、「復帰されなければならない妾(→正妻)の立場だった」と言う意味だったということはないでしょうか。アブラハムの妻が、一旦、ゲラルの王アビメレクに呼ばれ、そこからアブラハムが取り戻してきたように。
つまり、「日本は、たまたま拾われたサタンの女」だったわけではないということです。
上の「妾と正妻」の御言の最後の部分には「日本民族としての使命があるというのです」とあります。
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