九世本因坊察元 十五世秀悦 | 墓守たちが夢のあと

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 本妙寺の本因坊家の墓で九世本因坊察元と十五世本因坊秀悦は同じ墓に葬られています。
 9世本因坊察元は現在の埼玉県幸手市の出身で、本姓は間宮。幼いときに同じ幸手出身の8世本因坊伯元の門人となります。宝暦4年(1754)、22歳・六段のとき、伯元の病のため跡目となり本因坊家を継承しました。
 当時、伯元まで三代の当主が続けて20代で段位も7段に満たない時に亡くなったため、囲碁界全体が勢いを失い「暗雲の時代」とか「碁道中衰の時代」と呼ばれていました。
 察元は自分の使命は本因坊家を再び隆盛に導くことと考えていたのか、かなり強引に七段に昇段し、その後八段準名人になった後は名人碁所の座を狙います。
 察元以前の囲碁界は五世林因長門入が名人碁所を狙った事により林・井上家と本因坊・安井家の2派に分かれて対立していました。しかし,察元の強引さに反発した安井家が反対派に回り、変わって五世本因坊道知門下であった祐元が跡を継いだ林家が本因坊家の味方につく展開で対立が続きます。
 最終的に、明和7年(1770)に老中列席のもと寺社奉行の裁定で察元は道知以降空席となっていた名人碁所に就任します。
 名人碁所となった察元は、大名行列さながらの行列を組んで京都寂光寺へ墓参りし本因坊家の威光を示します。
 察元の強引な行動による対立は、結果として家元達の自覚を促すこととなり低迷していた囲碁界は再び活気を取り戻していきます。また、当時の将軍家治は、囲碁・将棋に理解があり特に将棋の腕前は素人の域を超えていたといいます。その家治が自ら御城碁観戦を行った事もあり、囲碁界は「暗雲の時代」をようやく抜け出すことが出来ました。そのため察元は「棋道中興の祖」と呼ばれています。

 十五世本因坊秀悦は十四世本因坊秀和の長男です。
 十四世本因坊秀和の跡目であった秀策が亡くなると、再跡目は門下第一の実力の村瀬彌吉(本因坊秀甫)と目されていましたが、本因坊丈和未亡人の意向により、秀悦が文久3年(1863)に三段で跡目となります。この時期には幕末の混乱により御城碁は行われなくなっていました。
 明治2年(1869)頃には既に六段に進み、明治6年(1873年)に秀和が没すると十五世本因坊を継ぎます。しかしこの頃には家元の家禄は無くなって生活は困窮し、母は病床という失意の中にあり、明治12年(1879)に精神に異常を来たし、弟の林秀栄(秀和次男)、百三郎(同三男)によって退隠させられます。秀栄らは秀甫に本因坊家相続をを打診しますが不調に終わり、百三郎が本因坊を継いで十六世本因坊秀元となります。秀甫は囲碁結社「方円社」を設立し家元側と対立。大正13年に日本棋院が設立され合流するまで対立は続きます。
 退隠後の秀悦は回復することのないまま、明治23年(1890)41歳で没し、本妙寺に葬られました。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2
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