十一世本因坊元丈、十八世秀甫 | 墓守たちが夢のあと

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十一世本因坊元丈、十八世秀甫の墓

 

十八世本因坊秀甫

 

 巣鴨の本妙寺にある歴代本因坊の墓所で十一世本因坊元丈と十八世秀甫は同じ墓石に名前が刻まれています。
 十一世本因坊元丈は本因坊烈元門下で八段準名人。元の名は宮重楽山といいました。
 御三卿の清水家物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれ、烈元門下となると寛政6年(1794)には四段となります。当時、烈元は楽山より年下の河野元虎を跡目候補に目していましたが、寛政7年(1795)に元虎は亡くなり、寛政10年(1798)に五段で楽山が跡目となり、元丈と改名します。一歳下の安井知得仙知とは拮抗したライバルで数多くの名勝負を繰り返しています。
 文化元年(1804)七段上手となり、文化5年(1808)に烈元が病気のため亡くなると翌年に家督相続を許されて11世本因坊元丈となりました。文化11年(1814)には知得と同時に八段準名人に昇りますが、二人はお互いの力を認め合って、共に名人の技量がありながら名人碁所を望まなかったそうです。
 元丈の跡目候補には奥貫智策がいましたが、智策は文化9年(1812)に亡くなり、文政2年(1819)に戸谷丈和が跡目となりました。文政10年(1827)に隠居して丈和に家督を譲ると、「天保の内訌」と呼ばれる丈和の名人就位運動にも関わることもなく悠悠自適に余生を送りました。

 十八世本因坊秀甫は江戸の上野車坂下にあった本因坊道場の隣家の貧しい大工の家に生まれます。幼名は彌吉といいました。道場から響く石の音に惹かれ弘化3年(1846)8歳で本因坊丈策に入門します。
 嘉永7年(1854)17歳の時、四段となり塾頭を勤めています。万延元年(1860)には村瀬秀甫と改名します。兄弟子の秀策とは坊門の竜虎、碁界の圭玉と称されていました。
 文久2年(1862)に跡目の秀策が死去すると、秀甫が後継と見られていましたが、「勢子の権柄」と呼ばれる丈和の未亡人・勢子の反対により秀和の長男・秀悦が跡目とされると失意の秀甫は越後方面等に遊歴に出て江戸を不在がちになります。
 明治12年(1879)、丈和の三男・中川亀三郎が各家元らと共に研究会方円社を発足し、秀甫はその社長に就任します。本因坊秀悦が精神に異常をきたすと後継を打診されますが交渉は不調に終わります。これは中川亀三郎が方円社を設立するために策略を練り東京に居なかった秀甫に正しく情報を伝えなかったという説があります。
 方円社の家元の権威を顧みない方針に家元側が反発し脱退して以降、両者の対立の歴史が始まりますが、明治17年に後藤象二郎ら囲碁界の支援者の仲介により和解に向けて17世本因坊秀栄(林家を絶家にして本因坊を継いだ秀和の次男)と十番碁を開始。明治19年に秀栄は秀甫の八段を正式に認めて、同時に本因坊を秀甫に譲ります。この時、秀甫は秀栄に七段を贈っています。その一週間後に十番碁の最終局が打たれていますが、この一局が秀甫の絶局となります。すでに病に冒されていた秀甫は本因坊在位2ヶ月で死亡。「本因坊秀甫」として打ったのは秀栄との一局のみだったそうです。
 秀甫の本因坊就任により方円社社長が本因坊家当主を兼ねることになっていましたが、副社長の中川亀三郎はこれを拒否して二代目社長へ就任。秀栄が19世本因坊を再襲し再び対立していきます。

 ところで元丈と秀甫の墓石には下の段に「村瀬」と刻まれています。この事から、元々、元丈の墓は別にあった事が分かります。明治以降、風化か何かで廃棄されたのではないでしょうか。墓石にはもう一人の戒名が刻まれていますが、女性であることから秀甫の奥様かもしれません。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2