六世本因坊知伯、七世秀伯、十三世丈策 | 墓守たちが夢のあと

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 巣鴨の本妙寺にある囲碁家元の歴代本因坊の墓所で六世本因坊知伯は七世秀伯、十三世丈策と同じ墓石に名前が刻まれています。
 名人碁所であった五世本因坊道知の跡を継いだ本因坊知伯は、本姓は井口、道知の甥にあたる人物です。
 武州多摩郡井草村の生まれで、母は本因坊道知の姉。享保7年(1722)に、13歳四段格で本因坊道知の跡目となり、享保12年に道知の逝去により六世本因坊となっていますが、享保18年(1733)に僅か24歳で逝去します。

 知伯の跡を継いだ弟子の秀伯は奥州信夫郡大飯田村(現福島市)の生まれで、帰省中に師の知伯が逝去し、家元会議で後継者に指名されたため秀伯は急ぎ江戸へ戻り七世本因坊となりました。
 秀伯の時代には「碁将棋名順訴訟事件」が起きています。先代知伯が若くして亡くなり、秀伯も段位が高くなかったため囲碁界全体が勢いを失っていたのに対し、将棋界には若き名人伊藤宗看が登場し隆盛を誇ります。そのため元文2年(1737)に宗看が、碁打ち優先の慣行を廃止して平等にせよと提訴したのです。江戸時代は、家康が決めた囲碁家元が将棋家元より上座に座る等、囲碁界優位の慣行がありました。当時幕閣には将棋派も多く、この要求は通ると思われていましたが、寺社奉行となった名町奉行として知られた大岡忠相が家康公の決めた事を変える必要はないと訴えを棄却しています。
 その後秀伯は七段昇段を目指しますが、井上春碩因碩が反対したため、元文4年(1739)に因碩との争碁を打つことになります。第8局までで秀伯4勝3敗1ジゴとなりますが、秀伯は病に倒れ中断。翌年に26歳で逝去します。
 知伯に続き秀伯も若くして亡くなり、跡を継いだ八世伯元も29歳と、三代続けて当主がいずれも七段に至らないで亡くなったため、この30年ほどの時期は本因坊家衰微の時代とも、碁道中衰の時代とも呼ばれています。

 十三世本因坊丈策は十一世元丈の実子です。研究熱心な学者肌の棋士で理にかなった碁を打ったといわれますが本来六段くらいまでの棋力しかなかったと言われます。それでも師匠・十二世丈和が後継者としたのは、自分を後継者にした師匠・元丈への恩に報いるためだったと言われています。天保9年(1838)に丈和の跡目となり、翌年丈和の引退により十三世本因坊となります。さらに次の年に他三家の推薦によって七段昇段しますが、丈和は七段は望むなと言っていたため、しばらく口を聞いてもらえなかったと言われています。
 病弱でしたが、御城碁は弘化3年(1846)まで勤め、門下には秀和、水谷琢順などの逸材もいて、当時の本因坊家道場は大いに賑っていたそうです。弘化4年(1847)に45歳で亡くなりました。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2
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