八世本因坊伯元、十四世秀和 | 墓守たちが夢のあと

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 本妙寺の歴代本因坊の墓で、八世本因坊伯元、十四世秀和は同じ墓石に名前を刻まれています。
八世本因坊伯元は現在の埼玉県幸手市の生まれで15歳で本因坊秀伯の門に入ります。寛保元年(1716)に秀伯が危篤となると、家元会議で跡目に選ばれ、秀伯の死去により家督を相続。同年に御城碁に初出仕します。
 寛保3年(1743)には、林因長門入が名人碁所就位願いを出しますが、安井仙角とともに反対し断念させています。宝暦元年に六段へ昇段しますが、宝暦4年に病に倒れ、弟子の間宮察元を跡目とし27歳で亡くなります。
 六世知伯七世秀伯、八世伯元と、いずれも二十代で亡くなり、この時期は碁道中衰の時代と呼ばれています。

 十四世本因坊秀和は現在の伊豆市出身で本姓は土屋といいます。現在、本妙寺の墓所を管理しているのは秀和の子孫の土屋家の方々です。
 天保9年(1838)に師の丈和が引退し、丈策が家督を継ぐと秀和が跡目となります。丈和の引退により井上幻庵因碩が天保11年、名人碁所就任の願いを幕府に提出すと、丈策は反対し当主の自分ではなく跡目の秀和を争碁の相手として選びます。幻庵は第1局で秀和に敗れ、病もあり名人碁所断念に追い込まれました。
 嘉永元年(1848)、前年の丈策死去により、十四世本因坊となり、同年に安田秀策を跡目に定めます。
 安政6年(1859)に幕府に名人碁所就任願いを出しますが、すでに幕末の争乱期に入っていて「内憂外患の多忙」を理由に却下されます。
 文久2年(1862)、期待をかけていた跡目秀策がコレラに感染して死亡。秀策亡きあと門下で一番実力のあった村瀬秀甫12世丈和の未亡人が反対したために長男の秀悦を跡目としました。
 明治維新により家元制度は崩壊。明治2年(1869)に経済的な理由から本所相生町の邸宅を借家としますが、その借家から出火して邸宅が全焼。さらに明治4年(1871)には家禄奉還となり経済的に困窮する中、明治6年(1873)に亡くなります。
 跡を継いだのは長男の秀悦ですが、十七・十九世本因坊秀栄は次男。十六・二十世本因坊秀元は三男と息子たちが明治以降本因坊家を継承していきます。
 秀和は名人の実力がありながら名人になれなかった元丈、知得、幻庵因碩とともに囲碁四哲と称されています。また秀和とその弟子の秀策秀甫は江戸末期の最高峰として三秀とも呼ばれています。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2
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