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巣鴨本妙寺にある五世本因坊道知の墓には道知の兄弟子で四世道策の跡目となりながら死亡した本因坊(小川)道的と十四世本因坊秀和の跡目で道策と並び碁聖(後聖)と称された本因坊秀策の名前も刻まれています。
碁聖と呼ばれた四世道策には沢山の弟子がいましたが、その中の一人、小川道的は13歳で六段格となり神童と呼ばれました。貞享元年(1684)に本因坊跡目になり御城碁に出仕。その後、七段へ進み19歳の頃には碁聖道策と打ち分けたといわれ、道策を越える逸材として将来を大変期待されましたが僅か21歳で亡くなっています。
四世道策の跡を継いだのは僅か13歳の道知でした。道策は跡目の小川道的が亡くなると、佐山策元を再跡目としますが、策元も25歳で亡くなったため、その後は跡目を立てていませんでした。元禄15年(1702)に道策は亡くなりますが、臨終において13歳の道知の才能に期待して本因坊家の家督を継がせるとともに、弟子であった井上道節因碩を後見として育成を託します。道節は本因坊家に住み込み道知を育て上げ、道知はやがて名人碁所となりました。
なお、道知は将棋も強く、六段の実力があったと言われ大橋宗桂、安井仙角らから「盤上の聖」と讃えられたといいます。
享保12年(1727)に亡くなり本妙寺に葬られますが、師匠・道策と同じく京都寂光寺にも墓が建てられています。
十四世秀和の跡目であった本因坊秀策は現在の広島県尾道市因島の出身で天保8年(1837)に出府して本因坊丈和に入門します。
嘉永元年(1848)に秀和の跡目となり同時に六段昇段、また丈和の娘・花と結婚しています。また翌年から御城碁に出仕し、19戦19勝無敗の大記録を作ります。秀策流と呼ばれる布石法を編み出し道策、丈和と並び棋聖(後聖)と称され、現在でも史上最強の棋士に上げる人々が大勢います。
棋力だけではなく人格的にも大変優れていて、文久2年(1862年)に江戸でコレラが大流行し本因坊家内でも患者が続出したため、秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり、当人が感染しそのまま34歳で死去します。秀策の働きにより本因坊家での犠牲者は秀策一人のみだったそうです。
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四世道策の跡を継いだのは僅か13歳の道知でした。道策は跡目の小川道的が亡くなると、佐山策元を再跡目としますが、策元も25歳で亡くなったため、その後は跡目を立てていませんでした。元禄15年(1702)に道策は亡くなりますが、臨終において13歳の道知の才能に期待して本因坊家の家督を継がせるとともに、弟子であった井上道節因碩を後見として育成を託します。道節は本因坊家に住み込み道知を育て上げ、道知はやがて名人碁所となりました。
なお、道知は将棋も強く、六段の実力があったと言われ大橋宗桂、安井仙角らから「盤上の聖」と讃えられたといいます。
享保12年(1727)に亡くなり本妙寺に葬られますが、師匠・道策と同じく京都寂光寺にも墓が建てられています。
十四世秀和の跡目であった本因坊秀策は現在の広島県尾道市因島の出身で天保8年(1837)に出府して本因坊丈和に入門します。
嘉永元年(1848)に秀和の跡目となり同時に六段昇段、また丈和の娘・花と結婚しています。また翌年から御城碁に出仕し、19戦19勝無敗の大記録を作ります。秀策流と呼ばれる布石法を編み出し道策、丈和と並び棋聖(後聖)と称され、現在でも史上最強の棋士に上げる人々が大勢います。
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撮影日 : 2013.5.2