十二世 本因坊丈和 | 墓守たちが夢のあと

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 十二世本因坊丈和の碁は「強力無双」と呼ばれる激しい力碁で、道策の前聖に対して秀策と共に後聖と呼ばれています。史上最強棋士に上げる人々も多くいます。
 出身地は明らかではありませんが伊豆説が現在では有力です。魚の仲買人・葛野七右衛門の次男として生まれ、幼いとき本因坊烈元の門下となりますが、その後、本庄の豪商・戸谷半兵衛のもとへ丁稚奉公に出されます。半兵衛は小林一茶など文化人を支援していた人物で丈和の碁の才能を見抜くと囲碁を学ばせるため江戸日本橋にあった支店「島屋」へ転勤さます。丈和が14歳の頃で、これをきっかけに烈元の門下になったとされます。丈和が跡目の届出を幕府へ提出した際には戸谷半兵衛の一族として届けられていて(跡目に相応しい格式が必要だった)、半兵衛とは本因坊となった後も交流を続けています。

 丈和は名人碁所となりますが、これは「天保の内訌」と呼ばれる陰謀によるもので後に禍根を残す事になります。
 文政11年(1828)に丈和は名人碁所願を提出し家元の会議が行われますが、安井知得仙知は時期尚早であるとして争碁が打たれる事になりますが仙知の病気などで日程が決まらず、結局、2、3年待って井上幻庵因碩との争碁が行われる事になりました。ところが、天保2年(1831)に突如丈和が名人碁所に任命されます。急な任命の理由は不明ですが、林元美が丈和から八段昇段の約束を得て、出身である水戸藩の徳川斉昭を通じて寺社奉行に働きかけたと言われています。(林元美が働きかけたのは別人という説もあり)

 実力ではなく策略で名人碁所になった丈和は、利用した林元美の八段昇段の約束も守らなかったため、他の家元すべてと対立します。各家元はなんとか丈和を名人碁所の座から引きずり落とそうと考えますが、名人碁所は御止碁といって御城碁で碁を打たないため機会がありませんでした。

 そうした中、天保6年(1835年)に老中松平周防守(浜田藩)により碁会が開かれることとなります。国家老の岡田頼母は安井家門人(二段)であり家元の意向が働いたことと、当時、浜田藩による密貿易事件(竹島事件)が露見して頼母はその対応のために碁会を江戸へ出る口実にしたと考えられています。
 松平宅で行われた碁会は、丈和も含めた御城碁でも実現できない豪華な組み合わせで「松平家碁会」を江戸時代最大の碁会と評価する人もいます。
 因碩は丈和を名人の座から引きずり下ろすため成長著しい弟子の赤星因徹を挑ませます。もし赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しと公儀に訴え出るつもりでした。対局は当初、赤星の優勢で展開しますが、丈和は有名な「丈和の三妙手」により赤星を下します。赤星は対局後に血を吐き二か月後に死亡したため、この一局は「吐血の局」と呼ばれる名局として現在でも語り継がれています。
 窮地を脱した丈和でしたが、この後、林元美が八段昇段の約束を破ったことを訴え出た事もあり、天保10年(1839)に碁所を返上。丈策に家督を譲り引退しています。

本妙寺:東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号   地図

 

撮影日 : 2013.5.2