囲碁家元 一世安井算哲 安井歴代之墓 | 墓守たちが夢のあと

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浄心寺墓地入口

 

 

 

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安井歴代之墓
 
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側面に刻まれた歴代当主
 
 江戸時代に囲碁家元として活躍した四家の一つ、安井家の墓が江東区平野の浄心寺にあります。
 安井家の祖は、清和源氏の流れをくむ足利氏の一門、畠山氏の庶流で、河内国渋川郡を領有し渋川氏を名乗った後、播磨国の安井郷に移封され、安井氏を名乗ります。河内国久宝寺城(大阪府八尾市久宝寺)の城主・安井定重、安井定正兄弟は織田信長に仕え、「石山合戦」で石山本願寺と戦いますが久宝寺城は落城し二人とも討死しています。
 この安井定正の四男宗順の二男である六蔵は、初代本因坊算砂の弟子となり活躍、江戸幕府から俸禄を得て囲碁家元の安井家一世算哲となります。なお、叔父には大阪の道頓堀を造り名を残す安井道頓がいます。
 算哲は弟子の算知を養子として家督を譲り、一世算哲の長子は二世安井算哲として御城碁で活躍した後に、日本初の暦「大和暦」を完成させ、渋川春海を名乗り初代天文方へ就任しています。そして二世安井算知は名人碁所に就任し活躍していきます。
 安井家では、江戸後期に八段準名人七世仙角仙知、囲碁四哲の一人八世知得、天保四傑の一人九世算知などの名棋士が登場。明治時代には、囲碁界が家元と新興勢力「方円社」が対立しする中、十世算英は両者の関係修復に奔走していきます。しかし、算英の実子・昌三は棋士としての実力が不足し、娘は囲碁と関係ない人物と結婚したため、後継者が決まらないまま 算英が明治36年(1903)に急死したため、家元としての安井家は終焉を迎えることとなります。
 浄心寺の「安井歴代之墓」は、昌三が明治42年(1909)に建てたもので、「十一世安井昌三立石」と刻されています。
 
 
東京都江東区平野2丁目4-25