墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

松平家之墓

 

 松平親貴(まつだいら ちかたか)は、能見松平家16代、豊後国杵築藩の第10代(最後)藩主である。
 能見松平家は、徳川家のルーツ、三河国松平家の庶流、松平信光の八男の光親が三河国額田郡能美(愛知県岡崎市)に住んだのが始まり。徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後は松平忠輝の付家老として越後国三条2万石を領した。忠輝改易後は幕臣にもどり、下総国の関宿藩2万6千石。遠江国横須賀など各地を転々とする。
 杵築藩(きつきはん)は、元は「木付藩」と書き、藩庁を杵築城(大分県杵築市)に置き、豊後国国東郡・速見郡内を領していた。江戸時代当初は細川忠興(小倉藩)が治めていたが、寛永9年(1632)に忠興の子忠利の熊本藩転封にともない、小笠原忠真が封じられ、木付は忠真の弟である小笠原忠知が4万石で入封し、木付藩が成立した。
 正保2年(1645)、忠知は三河国吉田藩に転封となり、代わって松平英親が豊後国高田藩より3万2千石で移封、以降、松平家が明治維新までこの地を領した。
 正徳2年(1712)、三代重休の時代に、幕府の朱印状が「木付」を「杵築」と書き誤り、幕府との調整の結果、この地が杵築と表記されるようになったという。

 

墓誌

 

墓誌に刻まれた戒名

 

 最期の藩主となった親貴は、天保9年(1838)5月15日、9代藩主・松平親良の長男として生まれる。嘉永6年(1853)2月15日には、12代将軍・徳川家慶に拝謁し、同年、従五位下河内守に叙任した。
 大政奉還後、慶応4年(1868)2月13日に、父・親良に代わり上洛し、新政府への恭順の姿勢を示す。同年4月9日、親良の隠居により家督を継承した。父が佐幕派であったのに対し、親貴は新政府派であり、同年の戊辰戦争でも新政府軍に参加して会津にまで出兵している。
 明治2年(1869)6月20日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871)の廃藩置県まで在任。以降は、東京に移り、明治6年(1873)1月22日に権少教正へ就任。明治10年(1877)には日本赤十字社の前身「博愛社」設立時に発起人として名を連ねている。明治15年(1882)8月20日、父に先立って45歳で死去した。

谷中霊園 乙11号6側
 

上原温重

 

 上原温重は、明治期の日本海軍大軍医。弟には音楽理論家、物理学者の上原六四郎。妹に女流画家の上原桃畝がいる。
 埼玉県士族。明治5年に小田素行、酒井奉賢らとともに少軍医に任ぜられ、明治7年頃、中軍医に昇進。明治8年に従七位に叙される。
 明治12年頃、勲六等。明治13年頃には大軍医に進み、正七位に叙された。
 明治18年3月5日、横須賀鎮守府監獄署の軍医長に補せられ、同年11月19日、勲五等。
 明治19年1月6日、軍艦「天龍」の軍医長に転じ、明治23年1月8日に後備役へ編入される。
 明治34年1月2日死去。墓は谷中霊園の上原家墓所。

谷中霊園 乙4号4側
 

上原六四郎の墓

 

墓誌

 

 上原六四郎は、明治期に活躍した音楽理論家、物理学者。
 嘉永元年(1848)12月、岩槻藩士として江戸に生まれ、明治2年(1869)、開成学校(東京大学の前身)でフランス語を学ぶ。

 明治8年(1875)に陸軍士官学校へ出仕。 二年後の西南戦争では、軽気球を製作し、熊本城中で試乗したとの記録が残されている。
 明治15年(1882)より、文部省専門学務局音楽取調掛に勤務。後に、東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)教授、東京美術学校教授、高等師範学校手工専修科主任教授などを歴任。明治35年(1902)に退官するが、引き続き東京音楽学校で音楽史・音響学の講師、東京高等師範学校では手工科の講師を務めた。
 特に音楽関係の功績が目覚ましく、琴古流尺八を荒木古童 (竹翁) に学んで、虚洞(きょどう)と号し、従来の尺八譜を改良した、現行の点符式記譜法を創案、リズム表示を可能にした。また、音楽理論面では、日本の音階に関する初の科学的研究書『俗楽旋律考』(1892著、1895刊。)を発表している。
大正2年(1913)4月1日没。

谷中霊園 乙4号4側