墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

金丸家之墓

 

 金丸重嶺(かなまる しげね)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の写真家、写真評論家、写真教育者である。日本のコマーシャルフォト(商業写真・広告写真)の草分けとして知られ、新しい写真表現の普及と後進の育成に生涯を捧げた。
 1900年、宮内省宮内官などを務めた佐賀出身の国学者、金丸俊胤の子として東京・麻布に生まれた金丸重嶺は、義兄の写真館で写真を学び始めた。当初は会社員として働いていたが、1920年代半ばに本格的な写真の道へ進む。1926年には鈴木八郎とともに、日本初とされる商業写真専門スタジオ「金鈴社コマーシャルスタジオ」を設立。当時の写真界において、絵画的な写真から脱却し、デザインや広告と結びついた新しい写真表現を目指した。
 1932年に著書『新興写真の作り方』(玄光社)を刊行し、ヨーロッパのモダニズム写真を日本に広く紹介する。光と影の効果、アングル、構図の斬新さを追及する「新興写真」運動の牽引役となった。
 1936年には特派員としてベルリンオリンピックの取材に渡欧。現地のヘルムアーベル写真学校で学びつつ、ロバート・キャパやマン・レイ、ブラッサイら世界的な写真家たちと交遊を深め、本場の報道写真や最新の表現技術を吸収する。
 帰国後、金丸は写真教育の確立に情熱を注ぐ。1939年、日本大学専門部芸術科(現・日本大学芸術学部)に写真科を創設し、初代主任(学科長)に就任。表現技術のみならず、理論や評論体系を含めた近代的な写真教育を日本で初めて実践した。戦時下では陸軍の依頼で「撃ちてし止まむ」などの超大型写真壁画を製作した経歴も持っている。
 

墓誌

 

 戦後も日本大学教授、のちには同大学長や日本大学名誉教授を務め、多角的な教育活動を展開した。さらに1958年には日本広告写真家協会(APA)の初代会長に就任し、業界の地位向上と振興に大きく寄与している。
 晩年は国内外の貴重な写真作品を集める「オリジナルプリント」のコレクション形成にも尽力し、後世に残る写真文化の基盤を築いた。  1977年、77歳でその生涯を閉じる。
 

墓誌の裏側

 

補陀山 長谷寺:東京都港区西麻布2丁目21−34

 

波多野家之墓

 

墓誌

 

 波多野敬直(はたの よしなお)は、明治・大正期の司法官僚、政治家である。第1次桂内閣で司法大臣を務め、のちに宮内大臣として宮中の制度整備や儀礼を管轄するなど、法制と宮政の両面で近代日本の基礎固めに尽力している。
 嘉永3年(1850)、肥前国小城郡(現在の佐賀県小城市)に小城藩士の長男として生まれる。藩校・興譲館や熊本の木下塾で学んだ後、大学南校(東京大学の前身)でドイツ語を学び、明治6年(1873)に司法省へ出仕。十二等判事を皮切りに法曹界のキャリアを歩み始めた。そして、広島始審裁判所長、京都地方裁判所長、大審院判事、函館控訴院長、東京控訴院検事長など各地の主要職を歴任し、司法行政の実務家として高い評価を確立していった。
 司法次官や司法総務長官を務めた後、明治36年(1903)に第1次桂太郎内閣の司法大臣に就任。司法制度の維持・整備に手腕を振るった後、明治39年(1906)に退任し、貴族院議員(勅選議員)に任じられた。また、明治40年(1907)には日露戦争における功績として男爵を授けられ、華族の列に加わっている。
 明治44年(1911)に東宮大夫として宮内省へ転じ、翌年には東宮侍従長を兼任。大正3年(1914)、前任者の汚職事件発覚に伴う辞任を受けて第6代宮内大臣に就任した。就任直後には大正天皇即位の大礼(御大典)を取り仕切ったほか、皇族制度の調整や宮中財政の改善など、困難な宮中行政の改革を推進。在任中の大正6年(1917)には子爵へ昇爵している。
 大正9年(1920)、約6年間にわたり務めた宮内大臣を突然辞任。理由は皇族会議で、皇族の臣籍降下問題における、皇族からの反発を抑えることができなかったためともいわれるが、背景に宮中に強い影響力を持つ元老山縣有朋との確執があったともいわれている。大正11年(1922)に71歳で没し、正二位勲一等旭日桐花大綬章が贈られている。

 

補陀山 長谷寺:東京都港区西麻布2丁目21−34

 

渡辺洪基

 

 渡辺洪基(わたなべ ひろもと)は、幕末から明治時代にかけて外交、教育、行政など幅広い分野で近代日本の基盤を築いた官僚・政治家・教育者である。号は浩堂、旦堂。初代帝国大学(現・東京大学)総長を務めたことでも知られている。

 弘化4年(1848)、越前国武生(現在の福井県越前市)にて蘭方医・渡辺静庵の長男として生まれる。地元の藩校などで学んだ後、佐倉の佐藤舜海に蘭方医学を学び、さらに江戸に出て開成所や福沢諭吉の慶応義塾で西洋学・英学を修める。この青年期における幅広い学びが、後に国際的視野を持って国家整備を担う素地となった。
 なお、慶応義塾の生徒だった頃のユニークな話しが残されている。ある夜、生徒が雑煮を食べたいという話しになり、渡辺が福沢諭吉の屋敷に入り込み、床の間に飾ってあった鏡餅を小刀で切り取ってきたという。翌日、夫人から鏡餅が切り取られた事を聞いた諭吉は、それが渡辺の仕業と分かり、笑って戒めたという。後に大学総長となった渡辺が年賀の挨拶に福澤邸を訪ねると、夫人が笑いながら「渡辺さん、雑煮を馳走しましょうか」と話しかけたという。


渡辺洪基の墓

 

 明治維新後、明治2年(1869)に大学少助教となったのを手始めに官界入り。明治4年(1871)には外務省に入り、岩倉使節団の一員として欧米視察に随行している。その後、オーストリアやイタリアなどの公使館勤務を歴任し、国際外交の現場で経験を積み重ねた。帰国後は太政官大書記官、元老院議官などを歴任し、日本の近代法制や行政組織の整備に携わった。明治18年(1885)には第9代東京府知事に就任し、インフラや都市計画などの自治行政に腕を振るっている。
 明治19年(1886)、帝国大学令の発布に伴い、初代帝国大学総長に就任。渡辺は法・理・文・医・工などの学術諸分野を再編し、国家の近代化を支える最高学府の体制を急速に整え上げていった。また、高度な技術者を育成する必要性を痛感していた彼は、明治20年(1887)に「工手学校」(現在の工学院大学)の創立に尽力するなど、実業・技術教育の振興にも大きな功績を残している。
 

顕彰碑

 

 帝国大学総長を退任した後は、駐オーストリア兼スイス特命全権公使として再び外交の表舞台に立っている。帰国後の明治25年(1892)には衆議院議員に選出され、後に勅選による貴族院議員となった。明治33年(1900)には伊藤博文らが結成した立憲政友会の創立にも参画しているが、翌明治34年(1901)5月24日、53歳でその生涯を閉じる。

  明治国家の「プランナー」として多方面で指導力を発揮した渡辺洪基は、近代日本の発展に多大な足跡を遺している。
 

補陀山 長谷寺:東京都港区西麻布2丁目21−34