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墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

 

 幕末に尊攘運動家として活躍した藤井希璞(ふじい きぼく)は、文政7年(1824)に近江国(滋賀県)日吉神社社司生源寺希烈の9男として生まれる。別名、神崎少進。
 有栖川宮熾仁親王の家士となり、岡山藩の藤本鉄石らと交流を持ち勤王のため奔走。
 慶応3年(1867)には熾仁親王の密書を携え長州藩に赴き、その帰路で新選組に捕縛され親王の助命により解放されるという事もあった。
 戊辰戦争の際には大総督となった熾仁親王を補佐して各地を転戦。
 維新後は有栖川宮家家令、宮内省御用掛などを経て、元老院議官となる。
 明治26年(1893)70歳で死去。

青山霊園1種イ12-1
 

三浦泰輔の墓

 

碑文が刻まれた背面

 

 明治期に外交官、外務大臣などを歴任し、諸外国との不平等条約の改正に尽力した青木周蔵は長州藩領の医師・三浦玄仲の長男で、蘭学者・青木周弼の弟である研藏の養子となり家督を継いでいる。
 青木周蔵の実弟である三浦泰輔は鉄道業を中心に数々の会社の重役を歴任した実業家である。
 安政3年(1857)に長門国で生まれ、先代倉右衛門の養子となって明治二十年に家督を相続する。
 ドイツ留学を経て明治21年に藤田組へ入社、明治24年には甲武鉄道(国有化により中央本線の一部へ)へ入り後に社長に就任。京浜電気鉄道(京浜急行電鉄)社長、川越鉄道取締役、青梅鉄道(青梅線)専務、小倉鉄道専務なども歴任し多くの私鉄で経営に従事している。
 また、鉄道業以外にも、日本麦酒株式会社(恵比寿ビールを製造)取締役など多くの企業の重役にも就任している。

青山霊園1種イ7号11側

 

三浦玄仲夫妻の墓

 

墓の側面と裏側

 

 三浦玄仲は幕末期に諸外国と締結した不平等条約の改正に外務大臣として尽力した青木周蔵の実父である。
 玄仲は,長州藩領の僻地に住む医者にすぎなかったが、先進的な考えの持ち主で「翻訳書ニ依リ少シク泰西文明ノ學術ヲ解セシ」と記録にある。
 蘭学者の青木周弼・研藏兄弟による日本初の種痘が行われた長州藩では領内で種痘を実施していくにあたり人手不足解消のため、各地の優秀な医者を種痘医として登録しているが、玄仲もその中の一人であった。 玄仲は後に戊辰戦争においても軍医として従軍している。
 玄仲の長男である青木周蔵は三浦玄明と名乗り医師として活躍。青木周弼が亡くなり家督を継いだ弟の研藏に請われて養子となっている。青木周弼と名を改めたのはこの時で、周弼と研藏から一文字ずつとっている。
 青木周蔵はドイツ留学を経て医師から外交官へ転身している。三浦玄仲は明治25年に亡くなるが、この時、周蔵は駐ドイツ公使とイギリス公使を兼任し赴任していた。前年まで外務大臣を務め、イギリスとの不平等条約解消の調印寸前までこぎつけていたが来日中のロシア皇太子が襲撃された大津事件で引責辞任。公使として交渉を続け、明治27年に条約改正を成功させている。
 青山霊園の三浦玄仲夫妻の墓は、青木周蔵と弟の三浦泰輔によって建立されている。

青山霊園1種イ7号11側