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墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

【2016/9/12投稿】
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渋沢家の墓

 
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墓誌。渋沢栄一の後継者、敬三と、妻で岩崎弥太郎の孫、登喜子、敬三の父、篤二の名が見えます。

 
 久しぶりに谷中霊園にある「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の墓所へお参りしてきました。以前は塀に囲まれた広い区域でしたが、現在は塀が取り払われて墓石の周辺は造成されていました。多分、墓域が縮小されたのではないかと思われます。
 
 ところで、渋沢家の墓所には栄一氏の墓に並び、その前妻と後妻の二人の墓があり、さらに渋沢家の墓が建立されています。
 渋沢家の墓の墓誌に刻まれた名前を見ると、栄一の息子で嫡男でありながら妻子を置いて新橋の芸者のもとへ転がり込んだため廃嫡となった渋沢篤二と、篤二の息子で栄一の後継者となった渋沢敬三の名がありました。
 渋沢敬三は、当初は動物学者を志していたそうですが父親の廃嫡により栄一に懇願され後継者となります。東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行に入行しロンドン支店などに勤務。岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚しています。
 昭和元年(1926)に第一銀行へ移ると、昭和16年(1941)に副頭取へ就任。翌年には日本銀行副総裁となり、昭和19年(1944)に第16代日本銀行総裁へ就任します。
 終戦直後の幣原内閣で大蔵大臣に就任し、預金封鎖、新円切り替え、財産税導入など戦後のインフレ対策の陣頭指揮をとった敬三でしたが、GHQによる財閥解体、および公職追放を受け辞任。 追放が解除された後は、経済団体連合会相談役、国際電信電話(現KDDI)社長、文化放送社長などとして活躍しています。
 一方で渋沢敬三は民俗学者としても知られています。柳田國男との出会いがきっかけと言われ、動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集し、自宅の車庫の屋根裏に私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設。その資料は国に寄贈され、現在の大阪吹田の国立民族学博物館収蔵品の母体となっています。
 敬三は多くの民俗学者を支援し、自身も静岡県沼津市で漁村の400年にわたる歴史が記された古文書を発見し発表するなど漁業史の分野で活躍しています。
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 乙11号1側
 
【2024/7/23追記】
 敬三・登喜子は渋沢家の墓に合葬されていたが、令和二年に子孫の手により新たに墓石が建立されている。栄一らの巨大な墓石の間に真新しい墓石が建っている。
 
敬三・登喜子夫妻の墓
 
背面
 

中田家墓所

 

中田直慈の墓

 

 大正天皇が皇太子時代に東宮主事を務めた官僚の中田直慈は、弘化4年(1847)、羽後亀田藩士の子として亀田城下(秋田県由利本荘市)に生まれる。幼少より学問を好み、長じて藩校長善館の教授となり、後に学監を務めている。また、戊辰戦争にも参加し、槍の名手として名を馳せた。
 明治3年(1870)に上京し、平田篤胤に国学を学んだほか、大学南校(東京大学)へ遊学。
 その後、山梨県で官職として務め、大蔵収税属を経て、明治17年(1884)より、鹿児島、岐阜、熊本の収税長を歴任、明治29年(1896)には宇都宮税務管理局長を務めている。
 明治30年(1897)、宮内省で内蔵助兼調度局主事を務め、後に東宮主事を務め、最後は内大臣秘書官と宮内書記官を兼務している。
 直慈は、情に厚く、どんな仕事もいい加減にすることはなく、よく思慮して後、発言し、行動していたという。官職での30年間は、一度の失敗もなく評判が高かった。平素より質素倹約に努め、慈愛をもって人に接していたといい、人は皆、君子と称していた。
 明治35年(1902)に東京市青山の自宅で倒れ死去(満54歳。正五位勲四等に叙せられ瑞宝章を追贈された。

青山霊園2種イ18-14

 

伊東家墓所

 

 明治期の海軍軍人である伊東義五郎は、安政5年(1858)に松代藩(長野県)藩士の子として松代城下に生まれる。
 明治5年(1872)海軍兵学寮(5期)に入学。明治10年(1877)に起きた西南戦争にも従軍。
 明治17年(1884)より4年間、フランス・ドイツへ派遣され砲術、水雷を研究している。
 なお、この時知り合ったフランス海軍軍人の娘、マリー・ルイーズ・フラパース(日本名:伊東満里子)と結婚。これが日本軍人初の国際結婚となる。
 帰国後、佐世保水雷隊司令などを歴任し、明治27年(1894)に始まった日清戦争には西海艦隊参謀長として出征。
 その後常備艦隊司令官、横須賀鎮守府艦政部長などを経て、日露戦争(1904~05)の時には横須賀工廠長であった。
 明治38年(1905)海軍中将となり竹敷要港部司令官、将官会議議員を務め、明治40年(1907)には男爵を叙爵。
 明治42年(1909)に予備役へ編入され、大正7年(1918)に後備役となっている。
 明治44年(1911)から亡くなるまで貴族院男爵議員を務めたほか、退役後は実業界に転じ、大日本石油鉱業社長にも就任している。
 大正8年(1919)死去。60歳。

青山霊園1種イ8-1