「日本資本主義の父」渋沢栄一 | 墓守たちが夢のあと

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【2015/4/7投稿】
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渋沢栄一

 
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渋沢栄一の墓

 
 「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一は、天保11年(1840)に埼玉県深谷市で生まれます。
 一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍に就任すると幕臣としてパリで開催された万国博覧会に幕府代表団の一人として参加します。ここで株式会社制度など様々な知識を学んだそうです。
 帰国後、大隈重信らに請われ新政府の大蔵省へ入省。国立銀行設立等に取り組みますが、大久保利通大隈重信と対立し退官、実業家へ転進します。
 実業家となってからは第一国立銀行(現みずほ銀行)、東京ガス、王子製紙、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール等、様々な企業の設立に関わる一方、日本赤十字社設立等、社会活動にも力を注ぎます。
 渋沢栄一は、他の実業家と違い、財閥を形成して自らの利益を求めるのではなく公益性を重視してきました。そのため、他の財閥創始者のほとんどが男爵止まりであったのに対して、栄一は大正9年(1920)に子爵となっています。
 栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなり谷中霊園に葬られます。渋沢栄一の墓碑銘は、外務省官僚で書家としても知られた杉山三郊(令吉)によるものです。日露戦争時、旗艦三笠に掲げられたZ旗の「皇国の興廃此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」という言葉は、杉山の発案であったのに、小笠原長生が自分の発案だと東郷司令長官に上申したと言われています。
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 乙11号1側
 
【2024/7/23追記】
 令和六年より新紙幣一万円の肖像画に採用されるなど注目される渋沢栄一であるが、墓所は数年にわたり整備され、令和三年に台東区史跡に指定されている。
渋沢栄一墓所入口
 
 墓所入口には、整備前からあったタブノキが、伝統的な移植工法「立曳き」で移植されているほか、ベンチが設置されるなど、人々の憩いの場となっている。
 
説明板