十五代将軍 徳川慶喜 | 墓守たちが夢のあと

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徳川慶喜の墓(左側)
 
徳川慶喜

 

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、天保8年(1837)に水戸藩9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれ、弘化4年(1847)に将軍・徳川家慶の意向により御三卿の一橋家を相続しています。

 

 嘉永6年(1853)に将軍・家慶が亡くなり、息子の家定が跡を継いだものの病弱であったことから就任早々、将軍継嗣問題が浮上します。慶喜を推す父・斉昭や、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼ら南紀派が対立する中、安政5年(1858)に井伊直弼大老となり将軍継嗣は慶福(家茂)に決定。直弼は同年、勅許を得ずに日米修好通商条約を調印し、抗議のために登城した慶喜、斉昭、福井藩主の松平慶永らを隠居謹慎処分とします。「安政の大獄」と呼ばれる弾圧の始まりです。
 しかし安政7年(1860)に井伊直弼が「桜田門外の変」で非業の死を遂げると慶喜は復権し、将軍後見職として幕政改革を行うと共に、朝廷との折衝のために上洛する将軍・家茂の名代として事前協議を行っています。
 この時、すでに亡くなっていた慶喜の父・徳川斉昭は尊王攘夷派の中心人物であったため、慶喜自身も理解を示していましたが、元治元年(1864)の「禁門の変」で長州藩が御所を攻撃すると自ら陣頭指揮をとり迎撃しています。
 その後、二度に渡る長州征伐が行われたものの、薩長同盟成立により幕府軍は劣勢となり、さらに慶応2年(1866)に大阪城で将軍・家茂が亡くなり戦いは終結します。
 家茂の後継として慶喜が第15代将軍となりますが、この頃、将軍家に理解を示していた孝明天皇が亡くなり、朝廷は薩長を中心とする尊王攘夷派が支配します。慶喜は事態打開のため慶応3年に「大政奉還」を決行。将軍就任期間は約1年で、その間一度も江戸へ帰ることはありませんでした。
 その後、徳川家排除を狙う薩長の挑発により、「鳥羽伏見の戦い」が勃発しますが、慶喜は旧幕府軍が劣勢とみると兵を残し船で江戸へ帰還。朝廷への恭順を示し謹慎生活を送っています。
 静岡(駿府)で謹慎生活を送っていた慶喜は、明治2年(1869)に謹慎が解かれた後も静岡で暮らし写真・狩猟・・囲碁など趣味に没頭する生活を送った後、明治30年に東京の巣鴨へ移ります。
 徳川宗家は田安家の家達が継ぎ、自らは独立して家を興した慶喜は、明治35年には公爵となり貴族院議員として政界にも復帰。明治43年には家督を七男・慶久に譲って隠居。大正2年に76歳で亡くなります。墓は歴代将軍の廟所ではなく、谷中霊園に建てられています。

東京都台東区谷中7丁目5番24号 谷中霊園   Googleマップ
撮影:2011.8.15