和宮親子内親王は、弘化3年(1846)に仁孝天皇の第八皇女として生まれます。しかし、生まれた時には、すでに仁孝天皇は亡くなっていたため異母兄の孝明天皇より和宮の名を賜り、嘉永4年(1851)には有栖川宮熾仁親王と婚約しています。
安政5年(1858)に幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したために孝明天皇は激怒。尊王攘夷運動が高まる中、幕府は事態収拾のための公武合体策として将軍家茂の御台所として皇女の降嫁を画策します。そこで選ばれたのが和宮ですが、翌年に熾仁親王への入輿が内定した段階での出来事でした。政略結婚で結ばれた二人ですが、夫婦仲はとても良かったそうです。
慶応元年(1865)に家茂は和宮の見送りを受け、長州征伐のため大阪へ旅立ちましたが、これが二人の今生の別れとなります。翌年に家茂は大阪城にて体調を崩し亡くなってしまったのです。
その後、徳川慶喜が15代将軍となり、大政奉還後に戊辰戦争が始まると、明治新政府は江戸へと清軍しますが、その司令官は和宮のかつての婚約者・有栖川宮熾仁親王であり、江戸が火の海になるのは必然と考えられていましたが、和宮や義母・天璋院(篤姫)の働きかけもあり、西郷隆盛と勝海舟の会談による江戸城無血開城が実現、徳川宗家も存続することとなりました。
明治以降、和宮は一度京都へ帰った後、再び江戸へ戻り、天璋院ら徳川家の人々や皇族と親交を深めます。そして、明治10年に、脚気衝心のため32歳という若さで死亡。遺言により家茂の墓の隣りに葬られました。
和宮が眠る増上寺徳川家霊廟は、元々、現在の東京プリンスホテルの辺りにありましたが土地の売却により、昭和33年に移設されています。この時、和宮の墓が発掘調査され、棺から烏帽子に直垂姿をした若い男性の乾板写真が見つかったそうです。しかし、空気に触れた乾板は、翌日にはただのガラス板になってしまい現存していません。この男性が誰だったか不明ですが、夫の家茂か元婚約者の有栖川宮熾仁親王ではないかと言われています。
安政5年(1858)に幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したために孝明天皇は激怒。尊王攘夷運動が高まる中、幕府は事態収拾のための公武合体策として将軍家茂の御台所として皇女の降嫁を画策します。そこで選ばれたのが和宮ですが、翌年に熾仁親王への入輿が内定した段階での出来事でした。政略結婚で結ばれた二人ですが、夫婦仲はとても良かったそうです。
慶応元年(1865)に家茂は和宮の見送りを受け、長州征伐のため大阪へ旅立ちましたが、これが二人の今生の別れとなります。翌年に家茂は大阪城にて体調を崩し亡くなってしまったのです。
その後、徳川慶喜が15代将軍となり、大政奉還後に戊辰戦争が始まると、明治新政府は江戸へと清軍しますが、その司令官は和宮のかつての婚約者・有栖川宮熾仁親王であり、江戸が火の海になるのは必然と考えられていましたが、和宮や義母・天璋院(篤姫)の働きかけもあり、西郷隆盛と勝海舟の会談による江戸城無血開城が実現、徳川宗家も存続することとなりました。
明治以降、和宮は一度京都へ帰った後、再び江戸へ戻り、天璋院ら徳川家の人々や皇族と親交を深めます。そして、明治10年に、脚気衝心のため32歳という若さで死亡。遺言により家茂の墓の隣りに葬られました。
和宮が眠る増上寺徳川家霊廟は、元々、現在の東京プリンスホテルの辺りにありましたが土地の売却により、昭和33年に移設されています。この時、和宮の墓が発掘調査され、棺から烏帽子に直垂姿をした若い男性の乾板写真が見つかったそうです。しかし、空気に触れた乾板は、翌日にはただのガラス板になってしまい現存していません。この男性が誰だったか不明ですが、夫の家茂か元婚約者の有栖川宮熾仁親王ではないかと言われています。