本因坊算砂 寂光寺 | 墓守たちが夢のあと

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初代本因坊算砂の墓

 
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寂光寺山門

 
本因坊算砂
 
 現在、囲碁のタイトル戦に名を残す「本因坊」のルーツは京都の寂光寺にあります。
 法華宗の高僧で寂光寺を開山した日淵の甥である日海は、8歳の時に日淵に弟子入りして出家します。後に日海は寂光寺二代目住職となっています。
 一方で日海は、囲碁を当時、強豪として知られた仙也に習い頭角をあらわしていきます。天正6年(1578)に織田信長の前で対局、「そちはまことの名人なり」と賞賛されたといいます。
 天正10年(1582)、「本能寺の変」前夜に信長の御前で本能寺の僧・利玄と対局。この時、滅多に出来ない三コウが出来、その直後に信長が非業の死を迎えたため、これ以降、囲碁界では「三コウは不吉」とされたという伝説もあります。
 天正16年(1588)には豊臣秀吉の御前で、数名の碁打衆が召し出されて対局。これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられます。
 寂光寺の住職となった日海は、その塔頭の一つ「本因坊」で寝泊りし、いつしか「本因坊算砂」と名乗るようになりました。
 慶長8年(1603)、家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれ、寂光寺を日淵の弟子に譲り江戸に赴きます。ただ、この頃はあくまで京都が拠点で定期的に江戸へ滞在するという形式でした。
 このように算砂は圧倒的な棋力により時の権力者に重用され慶長16年(1611)には僧侶としての最高位「法印」に叙せられています。
 慶長17年(1612)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸禄が与えられ、算砂は、利玄たちとともに50石10人扶持とされます。これが、後に家元制度へとつながっていくのでした。江戸時代に囲碁家元は四家ありましたが、本因坊家以外で井上家と安井家は算砂の弟子をルーツとしています。(残りの林家は利玄の弟子がルーツ)そして算砂は名人碁所とてし囲碁界を統括していきます。(当初は将棋所も兼ねていました。)
 元和9年(1623)5月16日、後継者・算悦の後見を弟子の中村道碩に託して死去。京都寂光寺に葬られました。

辞世の句は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」

寂光寺 : 京都府京都市左京区仁王門通東大路西入ル北門前町469 地図
撮影日 : 2011.5.14