福島正則 | 墓守たちが夢のあと

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右が福島正則の供養塔。左が息子・正利の墓。

 港区三田の正覚院は、戦国大名・福島正則の息子、正利の創建で、境内に正利と正則の墓(供養塔)があります。
 福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍。秀吉最晩年には清洲24万石の大名となっています。武闘派で知られた正則は文治派の石田三成とは反りが合わず、関ケ原の戦いではいち早く徳川家康に味方したため、戦後、広島藩49万石の大大名となりました。
 しかし、家康の死後、間もない元和5年(1619)、広島城を幕府の許可なく改修したとして改易。高井野藩(信濃国高井郡)4万5千石へ転封されます。正則は家督を次男・忠勝に譲り隠居しますが、忠勝は翌年に病死したため領地のうち2万5千石を幕府に返上しました。
 そして、寛永元年(1624)に正則も64歳の生涯を閉じますが、このとき正則の遺体を幕府の検使が到着する前に火葬した事から、全ての領地が没収されてしまいました。
 しかし、福島正則は江戸幕府成立に多大な功績があった人物であったため末子の福島正利が3112石の旗本に取り立てられます。旗本福島家は正利に子供がいなかったため、一度断絶しますが、京に住んでいた忠勝の孫・正勝を呼び戻し再興、幕末まで2,000石の旗本として存続し続けました。

正覚院:東京都港区三田4-11-26  地図
撮影:2013.3.17

 

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