大久保彦左衛門の墓
立行寺山門
港区白金二丁目にある立行寺は、寛永7年(1630)に旗本の大久保彦左衛門によって創建され、別名大久保寺と呼ばれています。
大久保彦左衛門こと大久保忠教は、徳川家康から家光まで三代に仕えた旗本で、関ケ原の戦いや大阪の陣では槍奉行として活躍しています。晩年は徳川家と大久保家の歴史を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書「三河物語」を書き著します。もともと子孫に残したもので門外不出とされていましたが、写本が出回りベストセラーとなりました。
大久保彦左衛門は、講談などで「天下のご意見番」として知られています。江戸城へ登城する際、旗本以下の輿が禁止されたため「大だらい」に乗って登城したり、将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話がありますが、どれも創作された話だそうです。しかし、実際の彦左衛門も反骨精神に富み、多くの浪人たちを養って就職を世話するなどしたため人々に慕われていたのは事実です。。寛永16年(1639)に80歳で没しています。
立行寺には大久保彦左衛門の墓とともに、講談などで登場する「一心太助」(架空の人物)の墓もあります。
立行寺:東京都港区白金二丁目2番6号 地図
撮影:2013.3.17
大久保彦左衛門こと大久保忠教は、徳川家康から家光まで三代に仕えた旗本で、関ケ原の戦いや大阪の陣では槍奉行として活躍しています。晩年は徳川家と大久保家の歴史を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書「三河物語」を書き著します。もともと子孫に残したもので門外不出とされていましたが、写本が出回りベストセラーとなりました。
大久保彦左衛門は、講談などで「天下のご意見番」として知られています。江戸城へ登城する際、旗本以下の輿が禁止されたため「大だらい」に乗って登城したり、将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話がありますが、どれも創作された話だそうです。しかし、実際の彦左衛門も反骨精神に富み、多くの浪人たちを養って就職を世話するなどしたため人々に慕われていたのは事実です。。寛永16年(1639)に80歳で没しています。
立行寺には大久保彦左衛門の墓とともに、講談などで登場する「一心太助」(架空の人物)の墓もあります。
立行寺:東京都港区白金二丁目2番6号 地図
撮影:2013.3.17