不動院(広島) 福島正則 | 墓守たちが夢のあと

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 広島市の不動院に広島藩初代藩主・福島正則の墓があります。正則が安芸国(広島)にやってきた時に「安芸安国寺」は禅宗から真言宗に改められ、不動明王を本尊とし「不動院」となっています。
 福島正則は母親が豊臣秀吉の叔母という関係から、幼い頃より秀吉に仕えています。正則は秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」において一番槍・一番首をあげ、いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の中でも最も評価されます。
 その後、四国・九州の平定などで活躍し、朝鮮出兵にも参加します。慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、豊臣政権を仕切る石田三成と対立し、正則は加藤清正らと三成を襲撃する事件を起こします。この時、仲裁に入った徳川家康と関係を深め、正則の養子・正之の許へ家康の養女・満天姫が嫁いでいます。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川方として参戦し、その功績から戦後、安芸広島と備後鞆、約50万石を拝領し広島藩主となります。
 正則は毛利家が築城した広島城の改修、および城下町の整備を行いますが、徳川家康が亡くなって間もない元和5年(1619)に台風による被害で破損した広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を幕府に無断で修理し、武家諸法度違反に問われ、高井野藩(長野県)4万5千石に厳封されてしまいます。(実際には2ケ月前に申請していましたが正式な許可が出る前に工事を行ったそうです。)
 厳封については幕府首脳は穏便に済まそうとしていましたが、二代将軍秀忠が幕府支配の強化のためか強行したそうです。秀忠の時代、多くの大名が取り潰しとなっています。

 

 移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り隠居しますが、元和6年(1620)に忠勝が亡くなったため、正則は2万5千石を幕府に返上。寛永元年(1624)に64歳で亡くなります。正則が亡くなった時、幕府の検死役が到着する前に火葬にしてしまったため福島家は全ての領地を没収され取り潰されます。
 しかし、江戸幕府成立に大きく貢献した福島正則の子孫をそのままにしておくのは偲びなかったのか、後に福島家は旗本として復活しています。旗本福島家の菩提寺・正覚院(東京都港区)にも正則の供養塔が建立されています。
 
 
不動院:広島市東区牛田新町3丁目4-9