二代将軍徳川秀忠とお江 | 墓守たちが夢のあと

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歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

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増上寺徳川家墓所

 
 芝増上寺は上野寛永寺と並ぶ徳川家の菩提寺です。歴代徳川将軍15名のうち、6人(秀忠、家宣家継家重家慶家茂)が葬られています。
 
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二代将軍・徳川秀忠とお江の方の墓
 
 芝増上寺に最初に葬られた将軍は二代秀忠徳川家康の三男として天正7年(1579)に遠江国浜松で誕生します。慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍に就任し幕府を開きますが、わずか二年後の慶長10年(1605)に将軍職を秀忠に譲ります。しかし、実権は家康が握ったままであったことから大御所家康と将軍秀忠の二元政治体制が始まります。
 元和2年(1616)に家康が死去すると、酒井忠世・土井利勝ら秀忠の側近を老中とし権力を集中。福島正則ら多くの外様大名を改易するなど大名統制を強め、幕府の基盤を強化していきます。
 元和9年(1623)に将軍職を嫡男・家光に譲ると、父・家康に倣い、大御所として二元政治を行い寛永9年(1632)に52歳で亡くなっています。
 秀忠の正室・お江の方は、織田信長の妹・お市の方と浅井長政の娘で、姉は豊臣秀吉の側室・淀殿です。秀忠は三人目の夫ですが、豊臣秀頼に嫁いだ千姫を頭に家光・忠長など2男5女を儲けています。寛永3年(1626)に54歳で亡くなりました。
 
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焼失前の霊廟(現地案内板)
 
 第二次世界大戦以前、秀忠の霊廟は増上寺にあり、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったそうです。昭和20年に霊廟は空襲により焼失し、昭和33年に改葬のために土葬されていた遺骸が掘り出され火葬されています。現在は、夫人のお江の方の墓へ合祀されていますが、発掘時の調査により秀忠の血液型はO型で、身長は157.6cmという事が判明しています。
 徳川家霊廟は普段は非公開ですが、時折一般公開されます。取材した当時はNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の放送記念で公開されていました。

東京都港区芝公園四丁目 増上寺 徳川家霊廟 Googleマップ
撮影:2011.8.14