不動院(広島) 安国寺恵瓊の墓 | 墓守たちが夢のあと

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 広島市の不動院(旧安国寺)の中興開山・安国寺恵瓊は豊臣秀吉が「高松城の水攻め」を行った際、毛利方の窓口となり、その手腕を高く評価され秀吉の側近となった事で知られています。安国寺の名は当然のことながら不動院の前身である安芸安国寺から来ています。
 安国寺恵瓊は安芸武田氏一族の出身といわれますが、天文10年(1541)に、安芸武田氏が毛利元就に滅ぼされると、安芸の安国寺(不動院)で出家。京都の東福寺で修行しています。天正2年(1574)に安芸安国寺の住持となり、その後、東福寺、南禅寺の住持も務め、中央禅林最高位にも就任しています。
 一方、毛利家に仕え、外交僧として活躍。天正10年(1582)に羽柴秀吉が「高松城水攻め」を行いますが、その最中に「本能寺の変」が起き織田信長が亡くなります。このとき秀吉は恵瓊と和睦を取りまとめた後に「中国大返し」を慣行し明智光秀を討って天下人まで登り詰めます。
 天下人となった秀吉は恵瓊を高く評価し側近として重用します。一説には恵瓊は僧でありながら大名でもあったと言われています。
 秀吉の死後、慶長5年(1600)に「関ヶ原の戦い」がおこりますが恵瓊は西軍の石田三成に味方し、毛利家当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出します。
 しかし、敗戦により捕えられ、六条河原にて斬首。石田三成・小西行長と共に晒し首となります。
 不動院には安国寺恵瓊の墓が残されています。
 
 
不動院:広島市東区牛田新町3丁目4-9